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『これは試されている』と称された「FISSION(分裂) and FUSION(融合) — POST/PHOTOGRAPHY 2011-21 3.11から10年目の、写真の今と未来」展は、どう試されていたのか

3月10日〜15日に銀座にある奥野ビル306号室にて写真展を、アート・プロデューサーの後藤繁雄と私、野村とし子との協働主催という形で開催した。写真展といっても一般的にイメージされるような写真ではなく、フォトグラフィーのその次に来る写真というような内容で、また、今年が311から10年を迎えたこともあり、311を挟むような期間で開催した。振り返ってみると、311を考える上でポストフォトグラフィーが補助線になり得、その一方で、ポストフォトグラフィーを考える上で311が補助線になり得るような構成となっていた。

以下に、観客が『これは試されている』と思ったポイントと、私の気づきについて書いておきたい。なお、『これは試されている』は、北桂樹氏のブログ「アートワールドへの道、戦略会議」で3月12日に掲載された記事「戦略会議 #21 アートライティング/小山泰介 @「FISSION(分裂) and FUSION(融合) − POST/PHOTOGRAPHY 2011-21 3.11から10年目の、写真の今と未来」展」にあった北さんの言葉で、初めて読んだときに私は妙に納得してしまった。そういう理由でこちらでも拝借させていただくことにする。なお、以下に引用したのは北さんのブログの一部。

奥野ビルの306号室の開け放たれたドアを入った瞬間から「これは試されている」という妙な緊張感に襲われた。目の前には「写真」のアタリマエを大きく揺さぶる様々な異形の作品がこの空間や隣り合う他の作品との境界を侵食し合い、惹きつけ合い、音を立てながら蠢いているようであった。

芸術家は何かをつくる。そしてある日、大衆の介入によって、観客の介入によって、彼は認められる。

上の見出しはマルセル・デュシャンの言葉であり、100年前からこのようなことが言われていた。作品の価値を決めるのは観客だ、あるいは、正解を握っているのは作家だとは必ずしも言えない、と解釈できる。その一方で、観客の参加を促すような芸術という考え方もできるのではないか。今回の展示では、作品同士が境界を侵食し合うだけでなく、観客までもが展示に組み込まれ、作品と観客がそれぞれの境界を侵食し合っていた。一部を以下に紹介する。

今回の展示では、部屋の入り口付近に床に写真プリントを貼り、入り口の壁に映像を投影した。プリントを踏み、映像を浴びるという儀式を通過することが、観客との共犯関係を築くことに大きく関わっていた。

窓に貼られたシートの絵画風のプリントは、設営時の様子を撮影して翌日の展示オープン直前に設置した、前の日の306号室であり、ライブ感あるものだった。

室内に突然乱入するパフォーマンスは、観客からすれば積極的に参加するというよりも、不意に降りかかる厄介事であり、無理矢理パフォーマンスに参加させられてしまう状況であった。

また、作品以外に実物が設置されており、観客は実際に触れ、内容を見ることができ、これも参加型の要素となっていた。

306号室に元々ある木製ベンチは来場者が座れるように置いたままにしていたが、全体のインスタレーションの一部になっており、座っていいのか迷うようになっていた。

観客が試されたこと

展示タイトルに『3.11から10年目』とあるように、展示内容には311に関連するものもあるが、それが何かは開示されていない。そして、どの作品が311関連なのか気軽に聞けないような雰囲気になっていた。以下に、ある観客の独白を書いておく。なお、在廊担当はそれぞれフレンドリーに観客に接し、必要に応じて内容を解説するように努めていたことを記しておきたい。

入り口の左右と床の写真プリントと映像(松井祐生)は、波の画像であり、駅の人波であり、それらが撹拌されたもの。プリントを踏む、映像を浴びることで観客を試しているとも言えなくもないが、それ以前にプリントの抽象的な表象が十二分に異形である。

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次に目に入る左の部屋の大きな額装写真と水槽や本などから成るインスタレーション(伊藤颯)は、タイトルが何語なのかわからない本があったり、上から斜めに吊られた山の写真が大きな額で肝心な所が見えず、空の水槽の中に見える草木などの取り合わせが不気味である。その中で大きくて目を引く鹿の額装写真は、なぜこれを撮ったのか謎。

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左の部屋の窓際の、垂木と額装写真のインスタレーション(川島崇志)は、12本立てかけられた垂木は素の垂木ではなく、二面にプリントが貼られている。見えるのは波しぶきのようにも見えるモノクロの何かで、プリント内容の異形さと対照的なのは貼り方が端正であること。開きの腰窓左側に設置した額は垂木で見えにくい。額の中の写真はどうもファッショナブルに見える。見えにくい額には泥のようなものがついており、二重に見えにくくなっている。腰窓前にはベンチが置かれているが、座ってよいのだろうか。

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その隣の腰窓右側と右の部屋の腰窓には透明シートの絵画風なプリント(児嶋啓多)が計5枚貼られている。それらは、デュシャンのキュビズム時代の絵画にも見えるが、これも写真であるらしい。透明なため日中は日が当たって綺麗に見えるが、前に立っている建物の柄まで反映されてしまう。

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左の部屋の四辺には、それぞれに小ぶりの額装写真(緒方範人)が計4つ設置されている。いずれもどこかの部屋の中を撮影しているが、部屋の中には大きなスクリーンがあり、その中が異形。額も深めなためか、人や動物がかすかに見えるためか、ドールハウスのようにも見えてしまう。

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右の部屋の窓際付近の写真群(羽地優太郎)は、青いテープを貼った白い紙が散らばっている、写真にガムテープを貼ったようなものが立てかけてあるが、いずれも写真である。ガムテープが306号室の以前の居住者が貼った床のガムテープ、壁を補修したガムテープと共鳴するかのようだ。左の部屋と右の部屋の間にある小窓を塞ぐように2枚の写真が立てかけてあるが、落としてしまいそうで近づけない。

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塞がれた小窓の左側には小さなブラウン管テレビが置かれ写真が上から下へと流れている(野村秀樹)。いずれも古い写真だが誰のものなのか、被災者の写真なのか。

右の部屋の真ん中には、ロール紙にプリントされた小さな写真が等間隔に並んでいる(小山泰介)。ぱっと見明るくて綺麗で、ものによってはスイーツのクローズアップのようにも見える。ロール紙の半分の小さな写真は黒いモザイクが施されていて暗めに見える。これらは何を写したのか。またロール紙は全体が見えず、丸まって見えていない部分もあるが、それでいいのだろうか。

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同じ部屋の右側の丸い鏡がある壁の棚には、アクリルで作られた額に写真が5つ(赤石隆明)立てかけてある。布のアップ、布と泥みたいなもの、布が土に埋まっている状態、布が干されている状態など、なんらかの儀式にも見えてしまう。

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5つの写真の前には、写真屋さんでもらうような紙製の写真ホルダーに入った写真(小野寺純乃)が置いてある。写真ホルダーはだいぶ劣化していて、手に取ってご覧いただけますと書いてあっても、注意を要し、気軽に見られない。

その右隣には、日記帳(野村とし子)が3冊置いてある。小学生が書いた日記のようだが随分古い。これも被災物なのだろうか。

その右側のイーゼルにはモノクロの額装写真が(すがわらたかみ)。丸い鏡?窓?が見え、3.11の文字が鏡に映った像のように見える。鏡だとしたらこの部屋で撮ったのだろうか。暗い室内に人がいてパソコンのディスプレイだけが明るいのは、311当時なのか。

展示を見ていたら突然騒音を鳴らす人(加藤裕士)が部屋に入ってきた。どうも肩から下げたトートバッグに騒音の元が入っていて、それら(カセットテープレコーダーみたいなもの)を窓のところや棚に置いたり、位置を変えたりしている。誰も注意しないのは、これがDMに書いてあったソロライブってこと?どう見てもヤバい人にしか見えない。色々鳴らした挙句、気づいたらいなくなってた。

参加作家が試されたこと

今回の展示には以下の3グループが関わっていた。
(1)10年前の311に写真で反応した作家
(2)最近作家活動を始めた人
(3)306号室の会員(内、3人は311で家族が被災した)

想像するに、1グループ目の作家たちは10年前のものをそのまま出すわけにはいかないだろう、2グループ目の作家たちは先輩作家たちを凌ぐ作品を出したいだろう、3グループ目の人たちはアーティストの添え物になりたくないだろう。そういう三つ巴の状況が混沌状態を作っていたのではないか。

小山泰介の作品を例にとると、これは被災地の地面や床や壁の表面を撮影した小さな画像を等間隔に大きなロール紙にプリントしたもので、一部は被災地ではないものも含まれている。モノに着目すると被災地なのかそうでないのか区別がつかない。カラフルな写真はスイーツにも見えてしまう。全体的に明るくて美しく見える。黒いモザイクが施されたロール紙の半分は、時間を経た記憶の劣化を表した写真だ。記憶が鮮明な方が美しくて、記憶がおぼろげになった方をダークに見せているところが面白い。

このように、本来的にはきれいでないものから美を見出したのが1グループ目の作家たち。言い換えれば、写真のマジックを使う作家たち。例えば、赤石隆明も被災地の写真やコンクリートの爆破写真を撮り、その束を撮り、というのを繰り返し、最終的に布にプリントして綿を詰めクッションにした。被災、爆破という言わば暴力性を帯びた柄のクッションというのがユーモラスなオブジェクトであり、今回は、それを土に埋め、洗うというのを繰り返したプロセスを展示した。

ものを写しているようで実は実体がないものを表出させているのが2グループ目の作家たち。言い換えれば、写真のトリックを使う作家たち。例えば、児嶋啓多は今回の展示の搬入ではまだ作品を完成させておらず、搬入風景を撮影して作品化した。iPhone 12 ProおよびiPhone 12 Pro Maxに搭載されたLiDARスキャナ(深度を測れるセンサー)を利用するアプリで撮影した3D画像をアプリ上で指でなぞると(だけかどうかはよくわからないが)場所によって変形が激しくなり、絵画風な画像になる。

写真のトリック性が顕著だったのが、伊藤颯の鹿の額装写真。この写真は鹿を撮っていない。ゲームの中の一場面である。ある程度の加工を施し大きく引き伸ばし白木の額に入れた作品は、作家が撮りたいものではなく、そのような仕上げを行ったいかにもネイチャーフォトな成りに見えるトリックだ。作家によると、ゲームの中の都市を取り上げている人はいると言うが、それはおそらく割と見た目がかっこいいのではないだろうか(実際に見てはいないけど)。あえて動物を選ぶところが面白い。

写真のマジックにしても、写真のトリックにしても、まさにポスト・フォトグラフィーである。写真のその次とは写真の見た目ではなく、写真に対するアプローチであり、アプローチの仕方も一様ではないことを身体的に知ることができたのは個人的に嬉しい。

最後に3グループ目について書いておく。出し物をみると311の前、311、311の後に綺麗に分類される。日記帳とブラウン管TVの画像は311の前、モノクロの額装写真は10年前の3月11日を経験した人々の様子に見え、パフォーマンスは311に突然降りかかった状況を別な形で表したものであった。そして、流された写真をボランティアが洗浄して戻って来た写真は、311以前の記憶に洗浄による311後の痕跡が加わったものだ。さらには、展示により別な記憶が上書きされた、そのように写真の持ち主が語っていたのが印象に残った。

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