ルービックキューブの話

昨日、理由もなく気分がふさぎ込んで仕方がなかったので、本棚にあったブコウスキーの「死をポケットに入れて」をお守り代わりにして、よっこらしょ、と思いながら家を出た。

“わたしは人生に痛めつけられていて、調子を合わせてうまくやっていくことができない。”

という一文を駅のホームで見つけて、ちょっと救われた気分になり、えいっと電車に乗れた。(だけじゃなく、気付け薬としてレッドブルも飲んだ。)

電車に乗るという作業は、私が「社会」と捉えているものに、物理的に足を踏み入れる象徴的な行為だな、と思う。楽しい予定のときや、ものごとがうまく行っているときは、ひょいひょいっと軽やかに乗れるのに、なんだかなあ、私ってなんなんだろうなあ、と迷いながらだと、電車に乗るのが億劫で仕方がない。

TPOという言葉だとか、定時という概念とか、報告連絡相談の必要性だとか、そういう色々な人の「大切」で成り立つことで、色々な経済活動を形作っている「社会」というものが、私はたまに怖くて仕方がなくなる。もちろん七転び八起きの精神で立ち向かっていかなきゃいけないし、そうして出来ないなりにもがくうちに、すごく嬉しいことが起こるのも頭ではわかっているのだけど、向き合い方がどうも人よりへたくそな気がして、時々きびすを返して逃げ出したくなる。

「社会」にとって大切なことが、人並みにうまく出来ているときは問題ないのだけど、気候とか睡眠不足とかその他あまりにも些細なことで感情の歯車の調子が狂ってしまうスペックの低い私は、そういうときに自分がちゃんと出来ているのか、うまくできていないとしたら、自分が存在してしまっていること自体がものすごいお荷物なのではないか、と不安で不安で仕方がなくなってしまって、誰かが優しい言葉をかけてくれたとしても、それをそのまま受取れなくなってしまう。うまくいっていないときの自分に、ポジティブな感情がふさわしくなく、そういう、世界を美しく彩ってくれる感情は、真摯に頑張っているその他の誰かのためのものであって、私がそれを受取ることがとんでもない間違いに思えてくるのだ。


平日のぎゅうぎゅうに人が詰まっている電車は、ある駅を境にがらんとする。

人が集まるとルールができて、いろいろなことが細分化されて、便利になって、強度が増す。そういう異常な強度の駅が、東京にはたくさんある。が、私は、そういう超強度の駅に毎日降りるような超強度な生活は、たぶん送らないだろうな、となんとなく思っている。

次の駅で降りるので、ドアのそばに立ったまま小説の続きを読もうかどうか迷いながら視線をぶらぶらさせていると、斜め向かいからおじさんが現れ、空いた席にすぽんと座った。そして、ごく自然に鞄からルービックキューブを取り出して遊び始めた。真剣な表情で。(ちなみに、全然色が揃っていない。)

少し年を重ねたあとに、平日の通勤電車でルービックキューブを始めることの出来る人生って、本当に素敵だと思った。時間も空間も、味方に付けているような整合性があった。

なんだか「うわー」と嬉しくなってしまって、この話を誰かと共有しなくては、と急いた。そうじゃないと、このルービックキューブのおじさんとの奇跡的な出会いが、なかったことになってしまう。そういうことを忘れていると、私はまた些細なことで簡単に躓いてしまう。(というのは、少し大袈裟かもしれないけど)

誰かに自分のことを説明するとき、多くの人が信じているものや、多くの人が共有している価値観を取り出すと、色々なことがスムーズに進んでいく。そういう情報は社会にとってとても大事なので、住民票に書いたり、履歴書に書いたりすることになる。

だけど、そんなものを一番の価値観にしなくても、面白いを取りこぼさずに生きていく方法は全然ある!と気づけた。

その日、ここのところずっとうんうん唸りながら一生懸命やっていた作業を褒められたので、ランチをいつもより奮発した。

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