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小5のある夏の日

優しい両親と年の離れた姉兄、おまけに何でも買ってくれる近所のおばちゃんと、5月の潮干狩りで海から上がってきた時のバーベキューの火よりもぬくぬくな環境で育った誰よりも温厚な僕は、怒りの感情が他人に比べて薄い。ただ、そんな僕が人生で唯一、人を殴りかけたことがある。


小学校5年生のある夏の日。

その日はとても暑く、プール日和と呼ぶのに相応しい気候だった。僕はスイミングに通っていたこともありそれなりに泳ぐのが得意だったため、プールが大好きだった。朝から体育の時間を待ち侘びていたことを今でも覚えている。

2、3時間ほど教室で授業を受けた。こういう時はいつもより長く感じる。泳いでいる自分を想像して時間を潰した。そして授業終わりのチャイムがなった瞬間、僕は友達と更衣室まで全力でダッシュし、チンチンを鞭のように打ち付けながら水着に着替えた。1番にプールに着いたが、勝手に入ってはいけないので、先生にバレないように手や足を軽く水につけて友達と遊んだ。そしてチャイムが鳴り、ついに始まったプールの時間。僕のウズウズは頂点に達していた。冷たいシャワーを浴び、準備体操を終えた。その時点で十分気持ち良かったが、やっぱり頭から水に浸かるのがプールの醍醐味だ。周りの雑音が遮断され入り込んだ静寂の中、冷たい水に包まれながらプールの底に座っているのが好きだった。

準備体操の後、4クラスの生徒全員が25メートルプール全体に広がり、先生の笛の合図でいっせいに水中に沈み、次の合図でいっせいに浮上する、という水に慣れるための遊びが始まった。

ついに来た。僕は今日このために布団から脱出し、眠たい授業に耐えたのだ。

1人でウズウズしている中、前からの騒がしい声を耳が拾った。
1人前に同じクラスの仲の良い友達、ヒロシ。
その横に隣のクラスのヒロシの友達、ユウキ。
2人ともおちゃらけた人気者だ。

その頃の僕は人生で唯一、クラスの中で目立っていた。と言うのも、ヒロシと仲良くなったことが全ての理由である。ヒロシは勉強も運動も優秀で、おまけに明るくてモテる。完璧超人だった。周りにいるだけで「一軍」として認められる、そんな存在だった。そんなヒロシと出席番号が近かったことで喋りかけられ、そのまま遊ぶようになった。それまでは教室の隅っこに三角座りしていたのが、小5になった瞬間から真ん中で仁王立ちし始めたのだ。僕は小さな頃から大人しい性格であったため、この前両親にその話をしたら、度肝を抜かしてそのままドナーになっていた。

その頃2人でしていた遊びといえば、どれだけ面白い屁をこけるか選手権だった。その時の最高記録は、ヒロシの「プゥ〜ゥブブ……ボッ………プリッ」だった。今思えばしょうもなさすぎるが、ヒロシと遊んでいることで、今まで憧れていたクラスの中心人物になれたという実感を得ることが出来たのだ。僕は常にヒロシの隣に付いて行っていた。

そのヒロシは今、僕と同じクラスになる前から仲の良かったユウキと喋っている。周りから見て、そこに僕が混ざっていても違和感はないが、急に目立つ存在なったとは言え根暗なのは変わっていないので、友達ではないユウキに話しかける勇気もないし、何より今は話しかけて欲しくない。僕はとにかく水の中の世界に入りたかった。

ピイイイィッ

2人が静まるのを待つことなく、先生の合図が鳴る。

それに合わせて、僕は勢いよく潜った。

視界が青く染まる。同時に冷たくて優しい膜に全身を包まれ、まるでイヤホンをつけたかのように静寂がやってくる。気持ちいい。やっぱり暑い日はこれだ。

あぁ、このままずっと沈んでいたい。

サウナで整ったような感覚を味わいながらピタリと座っている僕の前で、2人がじゃれ合い出した。腕で小突きあったり、体をぶつけ合ったり、にらめっこをしたり。

しばらくすると、ヒロシがじっとしていた僕にもちょっかいを出してきた。

腕で小突いたり、体を引っ張ったり。

面倒だったのでほとんど相手にしないでいたが、あまりにしつこい。ただ、完全に無視するのも感じが悪い。ヒロシとの関係を悪くするわけにはいかない。悪い印象を与えないかつ、静かな時間を取り返す。

そこで一度ヒロシの体を強めに押して、じゃれ合ったフリをすると同時に物理的な距離をとることにした。再び戻ってこられたら面倒臭いが、とりあえずやるしかない。また2人で遊び始めてくれ。

そう思って腕を振り抜いた瞬間。

何を思ったか、斜め前にいたユウキが突然僕とヒロシの間にぬっと入ってきた。

ユウキとは喋ったことがない。彼を突き飛ばすわけにはいかなかったが、もう腕を止めることは出来なかった。

なんとか重心はズラし、ユウキを突き飛ばさずには済んだが、バランスを崩して3人がもみくちゃになり、合図が鳴る前にプールから顔を出してしまった。

「ハァ、ハァ、ハァ。」
最悪だ。あれだけ楽しみにしていた時間を邪魔された。内心苦虫を噛み潰したような気持ちになったが、何とか作り笑いでヒロシに話しかけようとした。その瞬間、プールサイドから怒号が聞こえた。

「オイッッ!!お前ら何ふざけてんねんッッ!!」

ドスの効いた声に思わず目をやると、僕らのクラスの担任がこちらに怒りを向けていた。担任は体育会系の出身で、ノリが良く普段は優しいが、怒れば学校一怖いことで有名だった。

どうやらプールサイドから僕らの様子を見ていたようで。言葉通りふざけていることに対してブチギレていた。

そのタイミングで合図が鳴り、僕たち3人を除いた生徒全員が浮上する。思い思いに顔を合わせ、ワイワイ盛り上がっている。

「お前らプールサイド上がれッ!!」

尋常ではない事態を察知し、生徒たちは一斉に静まった。反対に、外界の音が耳に一斉に入ってくる。大量のセミの鳴き声、校舎で授業を受けている生徒の声、周りの家が掃除機をかける音。事態を把握できていない生徒たちは驚いた目で、全てを分かっている各クラスの担任は冷ややかな目でこちらを見る。

僕たちはトボトボプールサイドに上がった。

「お前ら何ふざけてんねんッ!!あんだけ真面目にやれって言ったよなッ!?」

当たり前のことだが、プールの授業ではちゃんと先生の言うことを聞いて守れ、と毎授業、毎年言われていた。

「何してたかちゃんと説明してみろッ!!


_______しばらくの沈黙が流れる。担任は、3人がもみくちゃになった場面だけを見ていて、僕も一緒になって遊んでいたと思い込んでいるようだ。しかし例え事実であっても、「僕はちょっかいを出してきた友達を離そうとしただけです。一切ふざけていません。」と言う勇気はなかった。「2人でふざけていました。田中くんは関係ありません。」とどちらかが言ってくれるのを心の中で願った。

体感30秒ほどの沈黙をどう打開しようか頭を巡らせていると、ヒロシが口を開いた。

「…3人で水中に潜ったら遊ぼうって約束してました。」

西川きよし師匠バリに目を見開いた。
もちろんそんな約束はしていない。嘘をつくな。2人が勝手に遊んで、僕は巻き込まれただけだ。罪をなすり付けるな。反論を述べかけた瞬間。

「何してんねんッ!!プールの授業はなッ!ほんまに人が死ぬねんッ!!お前らもうプール入らせんッ!!この時間中ずっと掃除しとけッ!!」

僕たち3人は端の方に追いやられ、プールサイドの溝に落ちているゴミを拾わされた。

ビショビショの濡れ衣だった。それはもうビッショビショだった。暑さがピークの時期だったので、少しありがたくもあった。

悲しみと怒りがフツフツと湧いてきた。プールの時間を邪魔されたのもそうだが、何よりヒロシに嘘をつかれたことが原因だった。本当の友達になったつもりだったが、やはり裏では根暗な奴だと貶されていたのか。邪魔な存在だと思われていたのか。

僕たち3人は一言も交わさずに掃除を続けた。と言ってもほとんど何もせず、端の方をゆっくり歩いているだけである。そりゃそうだ。僕には掃除をする筋合いがない。途中、ユウキが小さく「あつ…」と額の汗を拭った。黙って掃除を続けた。

だんだんと怒りの色が強くなってきた。
ヒロシから謝りの言葉が無かったからだ。悪い奴ではないのは知っていたし、おそらく思わず口が滑ってしまったということも分かっていた。それでもヒロシのことを嫌いになりかけていた。

無言で掃除を続ける。真夏の太陽がジリジリと照っているのに、濡れ衣は乾くことを知らない。気付けば足元に水溜りができていた。僕たちはもう、掃除するフリも辞めていた。

相変わらずヒロシは黙ったままだ。時々ユウキが空気を変えようと、僕たちに聞こえる声で独り言のように何かを呟く。が、すぐに周りの声に紛れて消える。

僕はボーッとみんなが泳いでいるプールを見ていた。羨ましい。さっきまであの中にいたのに。大好きなプールの時間を奪われた上に、みんなの前で恥をかかされた。その張本人のヒロシは何も言わずにプールの方を見ている。この時にはもう、心の中は怒りで染め上げられていた。掃除をさせられた時点で取り返しはつかないが、それでも一言謝ってさえくれればここまで腹は立たなかったはずだ。なのにこいつは謝るどころか、あれから一言も俺に声を発していない。考えれば考えるほど腹が立った。

僕はとうとう、我慢出来なかった。

人生で初めて、人を殴ることを決めた。ヒロシとの関係が無くなれば、再び教室の隅に追いやられるのは分かっていたが、それも覚悟の上だった。今まで人を殴るなんてしたこともなかったのに、一度決断すると早かった。目一杯の力で拳を固く握りしめ、ヒロシを睨み付けて力強く歩き出した。一歩ずつ近づく。

殴り方は分からなかったが、とにかく目の前の相手を最大限傷付ける。それだけを考えていた。やってやる。一歩ずつ近づく。

そう言えば、拳の握り方を誰かに聞いたことがある。親指を中に入れて殴ると、骨折してしまうらしい。危ないところだった。固く結んだ拳を解き、親指を外に出してからまた締め直す。一歩ずつ近づく。

誰から聞いたんやっけ?拳の握り方。…………ヒロシや!
ヒロシがみんなの前で拳を指差していたのを思い出す。
コイツがなんかイキって言うてたんや。お前も人殴ったことないくせに。ありがとうヒロシ。お前から教えてもらった知識を使ってお前を傷付けるよ。一歩ずつ近づく。


_________?

さっきから全然進めてなくないか?

5、6歩進めばヒロシに辿り着く距離だった。確かに歩いたはずなのに、ヒロシとの距離は全く変わっていなかった。もう一度歩き出すが、数メートル先に見えるヒロシの大きさは変わらない。どういうことだ。

1人で混乱していると、ユウキがパニックになった様子で声をかけてきた。

「おい!!お前これどういうことや!?」

「…え?何の話?」

「何の話ってこれやん!!俺らが今浸かってるこれ!!」

ユウキが焦った様子で指差した下を見ると、なんと僕たちは胸の高さまであるプールに入っていた。

意味が分からなかった。さっきまでプールサイドに立っていた僕たちが、プールの中に入っている。どういうことだ、実はちゃんと歩けていて、気付いてない内に入ったのか?そう思い周りを見渡すが、他の生徒たちが入っているプールの位置は相変わらずだ。元々プールは2つあり、1つは25メートル、もう1つはその半分の大きさだ。2つとも僕たちがいる場所とは明らかに離れた場所に存在する。だが、僕たちは確かにプールに入っている。3つ目のプールなんて、記憶のどこを探しても存在しなかった。

________今生まれたのか?

ありえない仮説だった。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、そんな訳はない。これは幻覚か何かだ。そう思い直した僕の目にあるものが飛び込んできた。

「濡れ衣」だった。

そう、あの時ヒロシに着せられた濡れ衣だ。あまりの怒りで忘れていたが、この濡れ衣からは絶え間なく水滴が滴り落ちていた。僕たちが掃除している間もずっと。そう言えば、足元にプールサイドとは言えありえない大きさの水溜りが出来ていたのを見た気がする。そして今になってプールが出来るほど大きくなったのか。

唖然としていると、ユウキが突然「遊ぼうや!」と言って泳ぎ出した。プールが出来たことについての理解は全く進んでいなかったが、とにかく大好きなプールが返ってきたことが嬉しく、ヒロシも含めて3人で遊んだ。

腕で小突きあったり、体をぶつけあったり、にらめっこをしたり。

ちょっかいをかけられて先生に怒られたことも、プールの時間を台無しにされたことも、嘘をつかれて巻き込まれたことも忘れてずっと遊んだ。

疲れるまで遊び続け、日が傾き始めた頃、ヒロシが僕に頭を下げた。

「ごめん。僕らが勝手にふざけてただけやのに、思わず嘘をついてしまった。どうかしてた。ほんまにごめん。」

「プゥ~ゥ…バフッ…………………プリ…………」
僕が黙って屁をこくと、ヒロシは爆笑した。
それを見て僕とユウキも爆笑した。
ふと気が付くと、そこにあったプールが消えていた。

ビショビショに濡れた球体の上で悟った。
本当の「強さ」は許すことだ。

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