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10夢であったら(4)

「えっ、何これ。どういうこと」
 亜桜は混乱した。なぜ、夜のうちに安楽死が施行されているのか。しかも、亜桜の関与しないところで。施行医は――運野だった。
「あの……昨日、望月先生がお帰りになった後、20時ころから金沢さんの呼吸苦が強くなったんです。それで、モルヒネとかそれ以外のお薬とかも使ったのですけどあまり効果がなくて。昨日の当直だった運野先生に状況を報告したら『じゃあ、中断されていた安楽死を施行してしまいましょう』ってことになりまして……」
 看護師は、少し震える声で報告した。
――あり得ないことだ。
 そんな状況で、制度下安楽死を施行することなど、許される行為ではない。しかも、主治医である亜桜に何の相談も報告もなく。
――どうして、どうして、どうして!
 怒りと悔しさの感情が溢れてきて、亜桜は嗚咽を手で押さえながら泣き始めた。
「私が……私が今日こそ、今日こそと思っていたのに」
 髪の毛が逆立つような怒りを目の当たりにして、うろたえた看護スタッフたちが「ちょっと、運野先生に連絡した方がいいんじゃない」とコソコソ動き出した。
 5分ほどで運野は、いつものへらへらした笑顔でナースステーションに現れた。
「はい、おはよ~。ああ、望月先生もおはよ~」
 その声を聞いた亜桜は、かっとなって運野の胸ぐらにつかみかかった。
「ちょっと、どういうことか説明してください」
「何よ、いきなり。手を離しなさいよ」
 亜桜の手を払うと、運野は白衣をただした。
「僕は、望月先生の続きをやってあげただけじゃないですか」
 しれっと述べる運野の態度に、亜桜がまたつかみかかろうとするのを、看護師たちが止める。
「運野先生、説明してくださいと言っているんです。どうしてこんなことになったんですか」
「あのねえ。そもそもはアナタが昨日のうちにきちんと制度下安楽死を施行しなかったからでしょう。そのせいで金沢さんは苦しまなくてもいい時間を苦しむことになったんじゃない。できる治療は全てしたわ。そのうえで、金沢さんの症状は緩和できなかった。だから、中断されていた制度下安楽死を再開した。それだけよ」
「主治医である私に、何の相談も無しにですか」
「あの時間にアナタに連絡して、何かできることあった~?」
「そういう問題じゃないですよね。法律違反ですよ」
 亜桜が運野を睨みつけると、運野はニヤリと笑って首を振った。
「どうかしらね~。国家認定緩和医は多大な権限を国から頂いている立場よ。しかも慢性的に人手不足。そんな状況で、何らかの処分を受けるとも思えないのよねえ」
 亜桜は運野の自信たっぷりな表情を見てぞっとした。人の死をコントロールできる権限を与えられた人間は、ここまでも傲慢になれるものなのか。
「それに、金沢さんの方から僕に安楽死の施行を提案されたのよ」
「ウソです」
「ウソじゃないわ。それは昨日の看護師に聞けばわかるでしょ」
 亜桜が振り返り、夜勤の看護師に目線をやると、彼女はおずおずと頷いた。
――信じられない。
 朔人が運野を選んだ? 待っているって約束したのに。
 腰の力が抜けて椅子に座りこんだ亜桜に、運野が勝ち誇ったように畳みかける。
「制度化安楽死は、日本人がずっと待ち望んでいたものよ。誰からも生き方を強制されることのない、成熟した国における自由と平和の象徴! 今だって、この安楽な死を求めて患者は引きも切らないでしょう。僕たちは、その望みをかなえてあげる使徒よ。だから遅滞なく、あくまでも淡々と、その使命を果たすことこそが社会のためなのよ」
――違う。違う、違う、違う!
 亜桜の脳はもうオーバーヒートして、適当な反論は何もできない。ただ「違う」という言葉だけがリフレインして、運野の洗脳から心を守らないと、という本能だけが働いていた。
 反応に乏しくなった亜桜を、少し首を傾げながら運野は眺めていた。そして「じゃあ、そういうことだから」と言い残して、運野はナースステーションを出ていった。
 彫像のように座り、テーブルに突っ伏す亜桜に声をかけられるスタッフは誰もいない。

 国家認定緩和医・望月亜桜。まだその手で安楽死を施行したことはない。

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