見出し画像

12エピローグ(1)

 この日も病室は静寂だった。
 ベッドに横たわる患者がいる。家族もいる。看護師がいる。そして褐色の液体が詰まった注射器をもつ医師――望月亜桜がいた。
「それでは、はじめます」
 亜桜がそう告げて、患者の顔を見つめる。患者は、穏やかな笑顔で亜桜を見返し、目で頷く。亜桜が手を伸ばすと、患者は無言でその手を弱々しく握り返した。亜桜はその手を家族の手に渡し、注射器を握りなおす。
褐色の液体がゆっくりとチューブを進んでいく。
 1秒、2秒、3秒……。
 かすかに聞こえていた、患者の息遣いが消える。亜桜はゆっくりと、注射器を押し続ける。
 15秒、16秒、17秒……。
 全ての液体が無くなったあとも、亜桜は座ってしばらく患者の顔を見ていた。家族が静かに涙を流す音だけが、病室に響く。亜桜がすっと立ち上がり、ゆっくりと時間をかけて患者の胸に聴診器をあてる。
 90秒、91秒、92秒……。
「10時17分、ご臨終を確認いたしました」
 亜桜は聴診器を外し、死の宣告の言葉と共に深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
 家族は患者の手を握りながら「本当にいい顔をしてるね」とつぶやき、泣きながら笑った。

「亜桜先生、お疲れさまでした」
 亜桜がナースステーションに帰ると、赤垣が労いの言葉をかけてきた。
「ああ、ありがとう。これから凪さんも、死後のケア手伝ってくれるのかな?」
 亜桜が書類の準備をしながら返すと、赤垣は軽く首を振った。
「いえ、今日は別のスタッフが対応します」
「ああ、そうなの」
 亜桜は椅子に座ると、書類にペンを入れ始める。
「年を越してからこちら、すっかり平穏になってしまいましたね」
「そうね。でも、平穏な方がいいよ。あんな事件はもうたくさん」
 亜桜はふふっと笑った。
 朔人の制度下安楽死違反事件は年末に初公判が行われたが、運野が罪状を完全否認したために長期化する様相を呈していた。一方、国会で与党から「患者の権利法」および制度下安楽死の抜本的見直しに関する法案が提出されたことを機に、報道機関は事件のことよりも国会闘争について取り上げるようになり、照葉総合病院の周囲にも記者はほとんどいなくなっていた。
「ようやく、安心して通勤できるってものよ」
「でも、通うのが遠くなってしまったから大変ですよね。晨君の幼稚園も遠くなってしまったんですよね」
「そうなのよね……。クルマ買った方がいいのかな、ってちょっと思い始めてる。うちから駅も、幼稚園も、病院も、ぜんぶ微妙に距離あるからね」
 亜桜は事件後、記者たちの目を避けるためにマンションから実家に戻っていたが、ほとぼりがさめてからもマンションに戻っていなかった。
その間、一度だけマンションに戻ったとき、夫の蓮に「籍を抜きたい」旨を伝えた。蓮は驚いていたが、亜桜を引き留めるでも説得するでもなく、「少し考える時間が欲しい」とだけ呟くと、黙ってしまった。その後今まで、返事は保留になっていた。
「AIウォッチからの通知も、最近はクルマ系の情報が多いのよね……。ほらほら、これとかどう思う? 事前にプログラムしておけば全部自動運転で連れてってくれるクルマが、こんなに安くなっているんだって」
「亜桜先生は本当に、もうパーソナルAIに頼らない方がいいんじゃないですか。そもそも、夫さんと結婚して失敗したのだって、元をたどればパーソナルAIのせいだったんじゃないですか」
 赤垣が冷ややかに言う。
「あはは……。痛いところつくのね。まあ、そうなのかもしれないんだけど。これできっとパーソナルAIネットワークでも『失敗』って学習されたでしょ。次に生かされればそれでいいわ」
 苦笑する亜桜を横目に、赤垣が「ふーん」と呟く。
「そろそろ、夫さんとのこともケリをつける頃ですか」
 赤垣の質問に、亜桜は「うーん」と返す。
「まあ、それはあまり焦ってない。今のところ、別居していればストレスもないし。籍が残っていることでのデメリットもないし」
「そうですか。でも、籍があるのでは他の人との関係も作りにくいのでは」
「他の人との関係……ね。恋愛って意味なら、しばらくはいいわ。私には凪さんがいるしね」
 亜桜がニコッと笑って赤垣を見つめると、彼女は軽く目をそらして口元を緩めた。
「それにね、私まだ朔人のことも整理できてないから」
「金沢さんのことですか」
「うん……。朔人に対して抱いていた感情が何だったのか、ってことを考え続けてるの。確かに彼は私にとって『大切な人』だったわ。でも、大切って言っても色々あるでしょう。それこそ愛している、っていうのから兄弟みたいな感情っていうのまで。私、その感情をきちんとしないと、朔人に対しても失礼だと思うし、先に進めないと思って」
「亜桜先生、ややこしいこと考えるんですね。大切な人は、大切な人でいいじゃないですか」
「ダメよ。この感情をきちんと言葉にしていくことが、私にとっての供養なの」
 赤垣が軽くため息をつくのを、亜桜は睨んだ。
「わかりました。それは亜桜先生の自由ですから、私がとやかく言うようなことではありませんね。それに……」
「それに?」
「亜桜先生が、自分の感情にきちんと目を向けるようになったのはいいことだと思います」
 赤垣がふふっと笑ったので、亜桜もつられてクスリと笑った。

※明日の更新が最終回になります。
※お話を一気に読みたい人、更新されたら通知が欲しい人は、こちらから無料マガジン『褐色の蛇』をフォローしてね↓



スキやフォローをしてくれた方には、僕の好きなおスシで返します。 漢字のネタが出たらアタリです。きっといいことあります。 また、いただいたサポートは全て暮らしの保健室や社会的処方研究所の運営資金となります。 よろしくお願いします。