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09カウンター(5)

 木村の制度下安楽死は滞りなく施行された。
 刑事の郡司に連れられて、運野がへらへら笑いながら面談室に入っていく。郡司の嫌味を1とすると運野はそれに10の嫌味をもって返す、と聞いていた。明らかに対決を楽しんでいる運野に対し、暗く沈んだ郡司の表情を見ていると、若干だが気の毒になった。
 そこを、家族への挨拶を終えた五十嵐が、病棟の廊下をトボトボと歩いてきた。亜桜は五十嵐の前に出るとぺこりとお辞儀をした。
「ああ、望月先生。今日は少し長く居すぎたよ。ちょっとご家族が心配な方でね。あとは病棟スタッフの方でもフォローしてくれたまえ」
 そう言って歩み去ろうとする五十嵐とすれ違いざま、
「バー・イガラシ……」
 亜桜がボソッとつぶやくと、五十嵐はその歩みを止めた。
「そんな昔の話、誰に聞いたのかね。看護部長……いや、水原くんかな」
 五十嵐はバツの悪そうな表情で、鋭く亜桜を睨んだ。
「さっき、先生がおっしゃっていた『誓い』というのも、もしかしたらその当時のことなんですか? 前の部長先生との誓い……」
「昔の話だ」
「五十嵐先生……。私、五十嵐先生と前の部長先生が、この病棟で患者さんのためにいろいろと考えて活動されていたことに感動したんです。私、あのバーカウンターを復活させたいんです。先生、よろしいでしょうか」
「どうして、私に聞くのかね」
「いえ……あれは五十嵐先生と部長先生が大切にしていたものだから……。先生には知っておいてほしいと思って」
 五十嵐は「うーん」と言いながら顎を撫でていたが、やがて
「まあ、望月先生がやりたいと言うなら止めはしないが」
 と言い、少し間をおいて言葉を継いだ。
「患者と酒を酌み交わす。それは確かに得られるものも大きいが、それが緩和ケアにとって理想的な姿だと思わないように。緩和ケアにおいて『何かすることがある』『何かをしてあげている』というのは、医療者側が陥りやすい甘い蜜だ。酒を酌み交わして、言葉を織りなして、その先にあるものまで見るようにしないのでは、むしろ害の方が大きいからね」
「わかっています。私も、そんな軽い気持ちでバーカウンターを復活させたいと思っているわけではありません」
「そうか。それならいいが。まあここはもう私がいたころの病棟ではない。望月先生が自由にやってみたらいい。やってみることで、初めて見えてくるものもあるだろう。それと」
 そこまで言って、五十嵐は病棟の出口に向かって歩き始めた。
「あのカウンターをまた見つけてくれて、ありがとう」
 と、小さな声でつぶやきながら。亜桜はその背中に深く礼をして、五十嵐が階段を下りていくのを見送った。

 翌日、部長の岩田へバーカウンターの件を話すと、彼は露骨に嫌な顔をした。
「ええ~っ、あんなのずっと使っていなかったのに? 誰が管理するのよ」
「私が、責任もってやりますから! お酒も、他の飲み物も、自腹で用意します」
「お金は取れないんだよ」
「無論です」
 岩田はそれでもなお、渋い表情を崩さなかったが意外なところから援護射撃がきた。
「あら~、岩田先生。やらせてみたらいいじゃないですか~。望月先生のバー、きっと人気が出ると思いますよ~」
 奥でカルテを書いていた運野が振り返って参戦してきた。亜桜はその応援に喜びながらも、裏で何か企んでいるんじゃないかという疑念も消せなかった。
「そうかあ? 運野先生も賛成か……。まあ、じゃあ望月先生の責任で一度やってみなさい。以前にやっていたことだから、病院幹部からもOKは得られるとは思う。だけど、何か問題が起きたらすぐに中止にするからな」
「岩田先生、ありがとうございます!」
 亜桜がペコリと頭を下げると、岩田は首筋に手を置きながらのっそりとナースステーションを出ていった。
「運野先生もありがとうございます」
「いえ~。面白そうじゃない? 時間があったら私も飲みに行きたいわ~」
 それはぞっとしない。亜桜の口の端が引きつっているのを見て、運野がニヤッと笑う。
「望月先生はね、僕が何でもかんでも反対すると思っているでしょう~。でもね、そんなことないのよ。アナタがね、緩和ケアを実践するために積極的に動こうとすることは応援したいと思っているのよ~。だって、その先に制度下安楽死だってあるわけでしょ。僕だって、患者をどんどん安楽死させたいなんて思ってない。患者の望む生き方こそが大事なんだからね~」
「運野先生っぽくないご発言ですね」
「まあひどい! 僕だって、緩和ケア医なんですからね~」
 そう言って、運野は頬をぷうっと膨らませたが、すぐにまたいつものニヤニヤ顔に戻る。
「でもね、この病棟は本当に素晴らしいところよ。みんなが死を待っている。『安楽な死』をね。僕は、ここでその死出の旅路を演出できることにやりがいを感じているのよ。まるで、ウエディング・プランナーのようだと思わない?」
「そこが、私とは違うところですね。私は、患者さんが『生きる』というところに視点を置いています。生きて生きて生きて、その最後に行きつくのが死だと思っています。その生きる過程のひとつに、制度下安楽死があるというだけではないでしょうか」
 運野は、反論する亜桜を無言で見つめていたが、鼻で笑って椅子を立った。
「まあ、そんな大言もいいけどね。まずは1例でも制度下安楽死を施行して見せなさい。それからじゃないと、アナタとは議論する気にもならないわ~」
 運野は、ナースステーションから出ていこうとしたところで立ち止まり
「アッ、でもバーの件は本当に楽しみにしてるわよ~」
と言うと、振り返ってウインクをした。亜桜の二の腕に鳥肌が勢いよく立つ。
バーができることになったのは嬉しいしチャレンジしてみようと意欲も湧いたが、もしそこに運野が入り浸ったらどうしよう……と、また別の悩みもできてしまった。
「まあとりあえず、あのカウンターがあるスペースを片付けないと」
 亜桜も椅子から立ち上がり、レクリエーションスペースへと向かった。

 国家認定緩和医・望月亜桜。まだその手で安楽死を施行したことはない。

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