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#ずいずい随筆①僕にはできない~幡野広志『なんで僕に聞くんだろう。』を読んで

 今月から僕は、月額マガジン「コトバとコミュニティの実験場」をはじめた。

 このマガジンでは、いま連載しているまた別のマガジン「だから、もう眠らせてほしい」の副音声や、コミュニティナースダイアログのログ、他にもエッセイや写真などのコンテンツを不定期に投稿していく。

 そのマガジンの中で、当初はもうひとつ、取り組もうと思っていたコンテンツがあった。
 それが「人生相談」
 幡野さんや鴻上さん、高橋源一郎さんの人生相談を拝読しているうちに「自分でもやってみたい!」と思っていたのだ。もちろん、この方々のように上手に答えることは最初は難しいだろう。でもきっと、悩みを読み取って、言葉を探して、それに答えているうちに、僕なりの表現ができるようになるんじゃなかろうかという期待もあった。

 でも、最終的には僕は「人生相談」をコンテンツから外した。
 なぜか。
 ひとつはある人から「西さんは、人生相談には向いていないですよ」と言われたことが大きい。もちろん、それだけで止めたわけではない。「どうして向いていないのか」ということを説明してもらって、「確かに、そうだな」と僕が思ったから。そして、僕が無理にWeb上で人生相談をやっても、相談した人も、そして自分自身も、きっと納得できない結果になるだろうと考えたからだ。

完結している世界と対話の間の世界

 完結している世界で生きる人と、対話の間の世界で生きる人がいる、とその人は僕に教えてくれた。
 完結している世界で生きる人というのは、言葉を変えれば「自分の世界がある人」。その世界の中に自らの価値感があり、人の言葉を一度その世界に落としてから、自分の言葉に変えて生み出すことができる。自分の世界は自分の中に大きく広がっているから、妄想もぐいーっと広げて、自らの言葉を生み出していくこともできる。

 それに対して僕のように対話の間の世界で生きる人というのは、もう少し言えばコミュニケーションにおいて、「対話の中にしか世界はない」という感覚の人だ。対峙する人との関係性において、世界に最初から型がない。人と人との言葉との間にこそ、世界が生まれて、彩られていく。
 逆に言えば、対話のない世界において、僕は言葉を失ってしまう。

 例えば、幡野さんの『なんで僕に聞くんだろう。』には、こんな相談がある。

風俗嬢に恋をしました(S・K 34歳男)
『なんで僕に聞くんだろう。』p226より

 幡野さんは、この1行の相談に対して「1行の相談なので答えも1行でいいかなっておもいましたが」と書きながらも、その後6ページにもわたって言葉を連ねている。
 僕はこれを読んだ時に、
「ああ、確かに僕には人生相談はできない」
と思った。僕ならきっと、この1行の相談には回答しない。というか、できない。回答しようとしたら「なになに?とりあえず話を聞かせてよ」というセリフがまず出てきてしまう。

 以前にとある講演で、
「結婚はした方がいいでしょうか」
という質問が寄せられたことがあった。会場の誰かからではあるのだが、匿名なので誰の質問かはわからない。
 この質問に対して、他の登壇者は「結婚することのメリット・デメリット」「自分の結婚生活とは」といったことを次々に答えていった。でも僕はずーっと考えた結果、出した答えは
「そもそも、どうして『結婚はした方がいいでしょうか』って聞かれたんでしょうかねえ」
というものだった。
「パートナーが欲しい、という話なのでしょうか。パートナーが欲しい、というのにも色々な文脈がありますよね…。単に寂しい、とか人生のリスクを分散したい、とか…。子供が欲しい、という話かもしれない。でも、結婚はしなくてもパートナーも子供も作る方法はある時代です。じゃあ、それでも『結婚』というものにこだわるとき、そこには何があるのか・・・」
みたいなことをグダグダしゃべって終わった。僕の止まらない「問い」を聞かされた聴衆はどう思っていたんだろう。そしてその質問を投げてきた当事者に至ってはなおさら「何言ってんだコイツ」だったのではないだろうか。

 対話のない世界でひとつの問いを投げかけられたとき、僕の中にはそれに返す「問い」がいっぱいになる。そしてその問いを垂れ流すだけの回答になるんだろう。だから、Webでの相談に対して答えるというのは僕には向かない。

 ちなみに、誤解がないように言っておくがこの「完結している世界で生きる人」と「対話の間の世界で生きる人」は、どちらが優れている、という話ではない。世の中の大半の人は、「完結した世界で生きる人」ではないだろうか、と僕にアドバイスをしたその人は言っていた(自分もそうであると前置きしながら)。その人のもっているコミュニケーション特性と、世界観から生み出される言葉が、人生相談に向いているかどうかという話だけだ。
 幡野さんは著書の中でこうも書いている。

人生相談の答えって、よく人柄が出るんです。人生相談ってじつは相談をうけた人の人間性をはかる、とても簡単なリトマス試験紙です。
『なんで僕に聞くんだろう。』p152より

 本当にその通りだと思う。僕は人生相談ができない。それがまさに僕の人間性だ。
 でも、対話をすることはできる。それも僕の人間性だ。
 対話の中にしか答えはない。それが僕の強みであり、融通のきかなさでもある。対話がないと答えがないという前提は、妄想力を弱める。妄想力の弱さは、創作力や想像力の弱さにもなる。対話の中には何でもあると思いがちなのも僕の強さであり、弱さだ(話せば何とでもなる、と思いがちということ)。
 僕に相談をしたい人は、やっぱり直接お会いするしかないんだろうと思う。そして「問い」のシャワーを浴びて、結果として僕からは「なるほどね~、そういう考えだったんですか」と言われるだけになるんだろう。

これからも読み続ける人生相談

 今回、幡野さんの人生相談が一冊の本になったことは多くの人にとってひとつのチャンスだと思う。
 自分なら、この悩みに対してどう答えるか?それとも答えられないのか?答えが幡野さんと違ったら、または答えられないとしたら、それはなぜか?この本を読むことの本質は、幡野さんの回答を「なるほど」と読むことではないと思う。自分は世界とどう向き合っているのか、どこから言葉を生み出しているのか、そのことを確認する本だと思う。タイトル通り「なんで僕に聞くんだろう。」ということをひとりひとりが考えることなんだろうと思う。
 僕は、幡野さんの人生相談を毎週楽しみにしている。午前の外来を終えて、昼休みにご飯を食べながら読むのが月曜の日課のひとつになっている。これからも毎週月曜日、僕は僕と世界とのつながり方を確認するのだろう。それは僕にとってのかけがえのない大切な機会なのだ。

 ここから先の有料部分には、「僕が対話としての相談を受けた時にまず気にかけていること」について少し書こうかと思う。あ、ちなみに幡野さんの本を読んでいる前提で書くので、まだ読んでいない方はお買い求め頂いてからこちらも読んでください笑。

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