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10夢であったら(2)

「今日、五十嵐先生の診察でOKが出たから、あとは国から薬が届き次第いつでも安楽死することが可能になるわ。届くのに大体1週間程度かかるんだけど、朔人はいつ実施するのが希望とか、ある?」
 朔人の病室で、ベッドサイドに座りながら亜桜は尋ねた。朔人は壁に掛けてあるカレンダーを眺めていたが、
「そうだね……じゃあ、10月10日に」
「了解。10日ね。この日にしたのって何か理由があるの?」
「いや、別にないけど。何かきりがいいかなって。それに、命日として覚えやすいじゃん」
 朔人はそう言うと、ふふっと笑った。
「亜桜にフラれたのも、今くらいの季節だったかな」
「違うでしょ。あれはもう少し早かったでしょ。ほら、蝉がまだ鳴いている季節だから」
「蝉が鳴いていたかなんて覚えてないよ。それくらいショックだったんだから」
 苦笑する亜桜を横目に、朔人は正面を真っすぐ見据えて
「ねえ亜桜……もし僕が『やっぱり死にたくない』って言ったら、どうする」
 と言った。
「えっ……本気なの」
「冗談だよ」
 驚く亜桜を見て、朔人はニヤッと笑う。
「何よ。笑えない冗談だわ」
「正確に言うと、冗談ではない」
「……どういう意味」
「その通りの意味だよ。死にたい、もう終わりにしたいってずっと思ってきたけど、その一方で『死にたくないな』って声も一緒に聞こえてくる。どっちも本当の心の声だと思うんだ」
 亜桜は黙って朔人の顔を見つめる。
「もし、この病院で担当してくれたのが亜桜じゃなかったら……。『死にたくないな』ってこんなに思わなかったかもしれない。でも今、亜桜が隣にいてくれるから、もういつ死んでもいいやとも思えるんだ」
「……言ってる意味がよくわからないわ」
 亜桜が困惑した表情になるのを見て、朔人も困った顔になって笑った。
「そうだね。変なこと言ってごめんね。でも、本当にありがとう」

10月10日は昼過ぎから雨になった。
 部屋には朔人と彼の母、看護師は赤垣、そして監査医の五十嵐が立っていた。水原にも連絡はしておいたが、病棟が忙しいという理由で立ち会えないという返事が先ほどあった。
 亜桜は撮影機材をチェックし、録画ボタンを押す。そして、朔人の母に一礼。
「亜桜ちゃん、本当にありがとう。よろしくお願いします」
 朔人の母は、目に溜まった涙をハンカチで拭きながら深く頭を下げた。
「それでは、よろしいでしょうか。これから、金沢朔人さんの制度下安楽死を施行します」
 亜桜がゆっくりと告げると、部屋にいた一同が軽く頭を下げる。重苦しい空気。亜桜は鼓動が少しずつ高まっていくのを感じた。
「金沢さん、では確認していきますね。」
 亜桜は朔人のベッドサイドに椅子を寄せて座った。
「はい」
「まず、お名前を名乗っていただけますか」
「はい、金沢朔人です」
「生年月日を教えてください」
「20XX年4月12日です」
「では、ご自身の病気のことについて話していただけますか」
 ここからは、朔人自身で書いた原稿を読み上げていく。
「はい。僕は胃がんと診断され手術をしましたが、その後再発して抗がん剤治療を受けました。あまり効果がなく、肺にも病気が飛んで、1か月ほど前に緩和ケア病棟に入院しました」
「では、これから希望される治療についてお話ししてください」
「僕は、がんによって体も動かなくなり、今後トイレに行くことも難しくなります。それは人としての尊厳が保たれているとはいえないです。『患者の権利法』に基づいて、国家認定緩和医である望月亜桜先生の手によって、制度下安楽死を施行されることを望みます」
 朔人が読み終わるのを聞いて、亜桜は閉じていた目をゆっくりと開いて胸に手を当てる。
「お薬をいただけますか」
 亜桜が朔人の手を見つめながら赤垣に声をかける。赤垣はトレイに入った薬剤アンプルを録画装置に映したのち、亜桜に手渡す。
「ノントレック、20mLです」
 亜桜は無言でアンプルを受け取ると、その褐色の液体をゆっくりと注射器に詰める。そして、その注射器を朔人の腕につながれたチューブにつなげた。
「では、金沢さん。よろしいでしょうか」
「うん。ありがとう、亜桜」
 朔人はチューブがつながれた腕と反対側の手を、亜桜に向けて伸ばした。
――握手だ。
何度も握ってきた、朔人の白い手。これが、生きている朔人に触れる最後。
亜桜も手を伸ばして朔人の手を握ったが、その手は少し震えていた。朔人はその様子を見て、ふっと笑う。
「大丈夫かい、亜桜」
「大丈夫よ」
 亜桜は朔人の手を離して大きく深呼吸をし、注射器を握りなおす。
「じゃあ朔人、入れていくね」
「ああ、お願いします」
 朔人は目をつむって、枕に首を預けた。亜桜がシリンジを押し始める。褐色の液体が、チューブを通じて朔人の腕に進んでいく。
 1秒、2秒、3秒……
赤垣は時計を見ながら記録をしていたが、いつもに比べて時間がゆっくり過ぎることに違和感を覚えた。ふと、チューブを見ると液の進みが途中で止まっている。
「望月先生?」
 赤垣が亜桜に声をかけると、彼女の手は細かく震え、シリンジを押さえたまま止まっていた。
「……亜桜?」
 朔人も異変を感じ、亜桜に声をかける。そして、その頬にとめどなく流れる涙を見つけ、朔人は啞然とした。
 亜桜は、泣いていた。肩は震え、涙を止めることができなかった。
「……ごめんなさい……できません」
 亜桜が注射器から手を離したのを見て、五十嵐が腕をつかんで引き上げる。
「望月先生、ちょっと出よう。金沢さん、申し訳ありません。少々お時間をいただけますか」
 五十嵐が引きずるように亜桜を病室の外に連れ出し、廊下にあるベンチに座らせた。病室では一人残った赤垣が、朔人や母親と話をする声が聞こえる。
「望月先生、どうしたのかね」
 五十嵐も隣に座って、ゆっくりと声をかけたが、亜桜はうつむいたまま
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 と言うばかりだった。五十嵐は苦い表情を作って、腕を組む。
「……こんなこと、前代未聞だよ。国家認定緩和医が、安楽死手続きを途中で中断するなんて。望月先生が『できません』って言っても、金沢さんに注射をできるのは君しかいないんだ。そのことはわかっているだろう?」
「はい……」
「だったら、どうするのかね」
 五十嵐の問いかけに、亜桜は答えなかった。3分か、4分。亜桜はうつむいたまま黙っていたが、ようやく涙を拭いて立ち上がった。
「すみません、もう大丈夫です……やります。私しか、できないですもんね」
 五十嵐も、やれやれという表情で立ち上がり、亜桜が病室に戻るのについていった。

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