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10夢であったら(1)

 亜桜が緩和ケア病棟に復活させたバーは好評だった。
 1週間に1度、20時までという限定ではあったが、入院中の患者も、その家族もレクリエーションスペースに集ってお酒とおしゃべりを楽しんでくれていた。
 亜桜は今日も慌ただしく仕事を片付けると、バー用の衣装に着替えて緩和ケア病棟に戻った。時刻は17時を少し回ったところ。既に、何人かのお客さんが今日のお酒を待ってくれていた。その客の中に、車いすに乗った若い男性――金沢朔人の姿があった。
「朔人、今日も来たのね。無理しないでね」
「亜桜がマスターのお店だもの。毎回でも来たいなと思ってる」
 酸素チューブを装着した朔人は笑顔を作って見せるが、息を吐く最後に胸の奥がヒューと鳴った。

 朔人が入院したのは3週間前だった。
今回の抗がん剤治療は比較的効いているようだと、水原から報告は受けていた。しかしある日の亜桜の外来で「最近、咳が出るようになってきた」という訴えが朔人からあり、胸のレントゲン検査をしたところ肺に淡く小さな転移が広がっていたのだ。
「これが、僕の胸の写真?」
 朔人はじーっとレントゲン写真を眺め、やがて
「そうか。雪が降っているみたいだね」
 と、表情も変えずに呟いた。
 亜桜が水原に状況を報告すると、彼女は驚き「すぐに治療法を変更するわ」と話していた。しかし、その新治療が行われる前に朔人は自宅で呼吸困難となり、救急車で搬送されたのだった。
 緩和ケア病棟に入院後、酸素投与とモルヒネの調整で、症状としては緩和が得られていた。しかし、診断用AIの判定は「イエロー」。朔人本人も、「もう歩くのも難しくなってきたし、自宅に帰っても母に迷惑かけるだけだから」と緩和ケア病棟に入院し続けることを希望した。

「もうそろそろ、お終いかな」
 朔人に声を掛けられ、亜桜が時計を見ると、19時43分。何人もいた他の患者や家族も、もうそれぞれの部屋に帰ってしまっていた。
「そうね、あと15分くらいで閉めるわ」
 亜桜がグラスを拭きながら言うと、朔人はふっと笑った。
「うん。それもあるけど、僕のいのちの時間がね」
「ああ……そうね」
 亜桜は表情を変えずに、グラスを拭き続ける。先週すでに、五十嵐による1度目の診察は終わっていた。今週、2度目の診察。それが終わり、判定が「ブルー」になれば制度下安楽死が可能になる。亜桜から見ても、残されている時間はあと1か月あるかないか、といったところだった。
「朔人は、安楽死したいという気持ちは変わらない?」
「うん、変わらない」
 朔人は間を置かずに答える。
「今のままいけば、呼吸が苦しいのもモルヒネとかで緩和して、最後まで自然にいけるんじゃないかとも思うの。もし最後、苦しくなることがあったら緩和的鎮静……セデーションっていう方法で意識を落とすことだってできる。あえて今の状況で安楽死を施行しなくてもいいのかなって気もしているんだけど」
「亜桜は国家認定緩和医なのに、普通のお医者さんみたいなこと言うんだね」
 また、朔人は笑った。そして言葉をつなぐ。
「僕は、自分の人生って何だったのかなあってよく考えるんだ。親の人たちの言うとおりに『いい子』を演じて、いい大学に入って、いい会社に勤めて……。でも、病気になったらすべてお終い。仕事も辞めることになったし、友達もいなくなったし、僕にかけられてた期待も無くなった。それに、好きだった女の子ひとり、振り向かせることもできなかった」
 亜桜は知らない顔をして、聞き続ける。
「僕は何も残せなかった。何一つ自由になった気がしなかった。病気になって、いろんなものを失って、そしたら急に自由にはなったけど、今度は自分がコントロールできるものがほとんど残ってなかったんだ。だから、せめて自分のいのちだけは、その終わりだけは自分がコントロールしたい、って思っていた。そう思えたから、これまで楽に生きてこられたんだよ。その思いは最後まで持ち続けたいと思っている」
「……そうか、そうよね。前にもそんな話をしたよね。ごめんね、何度も」
「いいよ。きちんと僕のことを考えてくれているんだなって思えるから、うれしいよ」
「そろそろ、部屋に戻ろうかしらね。私、送っていくわ」
 亜桜はカウンターから出て、朔人の車いすを押した。元々細かった朔人の首はより細くなり、肩は肉がそげて骨が盛り上がって見えた。亜桜は黙って、病室へ車いすを押し続けた。
――明日には「ブルー」判定になるのではないだろうか
 と思いながら。

 五十嵐が2度目の診察に訪れたその日、AI判定が「ブルー」に変わった。
 例によって五十嵐が尋ねる。「さて、望月先生どう思うかね」と。
「金沢さんは胃がん、肝転移、肺転移のあるかたで、1か月ほど前から緩和ケア病棟に入院しています。身体症状についてはモルヒネその他の薬剤でコントロールできていますが、労作時の呼吸苦と体力の低下によって徐々に体の自由が利かなくなり、そのことに対する『耐えがたい苦痛』があると言明されています。診断用AI判定は本日『ブルー』となり問題なし。残されている余命は1か月程度と考えます。キーパーソンは母親で、本人が制度下安楽死を行うことへの同意は得られています。よって、『患者の権利法』に則り、金沢さんには安楽死の適応があると考えます」
 五十嵐は黙って亜桜のプレゼンを聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「プレゼンが、だいぶ上手になったじゃないですか」
「ありがとうございます。これまで何例も、監査医の先生方にプレゼンをしてきましたから……まあそれでもまだ誰も施行には至りませんでしたが」
 加藤の一件以降も亜桜が担当した安楽死希望患者は4名ほどいたのだが、ある人は施行前に同意撤回をし、またある人は途中で急変して亡くなってしまったりしていた。結局今日まで、亜桜が国家認定緩和医として安楽死を施行できたのはゼロ件。運野からは「もうアンタの臆病さに文句を言う気にもなれないわ」と呆れられていた。
 五十嵐は亜桜の言葉を聞いて眉をひそめた。
「望月先生、そこが今回の制度下安楽死について私の懸念しているところなのだが」
「懸念……ですか」
「そう。金沢さんは、聞くところによると望月先生の昔からの知り合いということじゃないか。この病院を受診する前はしばらく会っていなかったということだが、友人関係にあったということは事実だ。そういった関係性にあった人に対し、望月先生が制度下安楽死を実施して大丈夫かね、という懸念だ。しかも、それが運野先生のように経験豊富な医師ならまだしも、望月先生は初めてだという。その1例目が知り合い、というのが危なくないかと思うのだよ」
「それは、初診の時に水原先生からも心配されました。だけど、大丈夫ですとお伝えしたんです」
「大丈夫なものかね……。まあ今さら言ってもせん無き事ではあるがね」
 五十嵐は少しのけぞるように身を引いて、軽く首を振った。
「それで、いつ制度下安楽死を施行する予定かね」
「本人と相談してからですが、1週間後くらいには」
「わかった。日時が決まったら必ず私にも連絡をくれたまえ。私も立ち会いたいのでな」
 五十嵐はゆっくりと立ち上がると、ナースステーションを静かに出ていった。亜桜はすぐにカルテ・タブレットを開き、安楽死専用薬であるあの褐色の薬をオーダーする。あとは、希望の日時を朔人と相談するだけだ。オーダーボタンを押すとき、心の奥底からかすかな声がし、指が少し震えた気がした。

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