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錬金術を「分解」で止めるな!~「スピリチュアルペインが理解できない」への答え

先日、とある緩和ケア医療者の集まりで、看護師のひとりが
「私、スピリチュアルペインが何なのか理解できないんです」
と、他の医師に質問していた。
尋ねられていた医師は、50代くらいの緩和ケアの専門医である。ここでは仮にA医師としておこう。

ここで僕が横から
「スピリチュアルペインというのはね・・・」
と口を出すことは簡単だ。でも聞かれているのは僕ではない。A医師がどう回答するのかな、と耳をそばだてる。

看護師は続ける。
「スピリチュアルペインって、いろいろ本に書いてありますけど、結局その内容って精神的苦痛とか社会的苦痛で説明できそうなものばかりで。純粋なスピリチュアルペインって存在するんですか」

なるほど。

そもそもスピリチュアルペインとは、その理論体系のひとつである「村田理論」では「自己の存在と意味の消滅から生じる苦痛」と定義され、「生きていること自体が無価値・無意味に感じられる」とか「自分自身をうまくコントロールできている感じがしない」などといった表現をされる。
そしてその「自己の存在」の部分は細かく3つに分類することができる。
つまり、
・時間存在:未来を喪うことで「今の自分」があやふやになる。
・関係存在:他者を喪うことで、関係の中で定義されていた自己が保てなくなる。
・自律存在:自立性や生産性を喪うことで、自己の価値を見出せなくなる。
という内容だ。
この「村田理論」は日本においては広く用いられ、スピリチュアルペインを理解するのに都合がよくわかりやすい。

しかし、冒頭の看護師が言っていたように、この理論におけるスピリチュアルペインは「他の苦痛」と見分けがつきにくいのかもしれない。例えば「関係存在」の喪失によるスピリチュアルペインとは、他者との関係性によって規定されるものなのだからそれは「社会的苦痛」のひとつであるともいえる。「自律存在」の喪失によるスピリチュアルペインも同様に、人間が社会的な存在であるがゆえに「自律していること」が喪われることが尊厳の喪失につながるのではないか、という見方もできる。
そう考えていくと、純粋にスピリチュアルペインとだけ定義できるものとは具体的に何なのか?という疑問にぶち当たるのも無理はないのかもしれない。

さて、その医師の回答とは?

ここまで考えたところで、僕は質問されたA医師が何と答えるのかが楽しみだった。
実際には、スピリチュアルペインはそれ以外の苦痛とは明確に分けて考えることは可能である。僕が先ほど述べた「関係存在の喪失による苦痛は、社会的苦痛と見分けがつかない」は間違いである。それを理論的に説明することもできる。でも、そうしたところでこの短時間で看護師が「わかった!」の域に到達することは無いのではないか、とも考えたのである。
もし僕が回答していたらきっと、「上から目線で悦に入った、おっさんの独り語り」の域にとどまってしまっただろう。

さて、A医師の回答やいかに。

A医師は、少し目線を落として数秒間考えて、答えた。

「いま、あなたの中で『理解できない』とされている苦痛を全て、スピリチュアルペインと考えてみたら良いんじゃないですか」

僕は、この回答を聞いて唸った。なるほど、そういう答え方があるのか、と。
「いま現時点では理解できない」、だったらそれは全てスピリチュアルペインの「枠の中」に入れておいて後から考えれば良い。いま、この時点で、全て「わかった」にならなくて良い。
なんて救いと深みのある回答だろう。その看護師が、これからも悩み続けることを丸ごと肯定しているのだから。

曹洞宗の道元の著作『正法眼蔵』の、ひろちさやさんという方の解釈で「迷いの中に悟りがあり、悟りの中に迷いがある」という一節がある。この解釈は誤りという見解もあるようだが、僕は個人的にこの解釈が好きだ。「悟り=真理」に到達するためには迷ってはいけない、つまり「正しい道を歩まなければならない」とされるのは苦しい。でも「迷いの中に悟りがある」のであれば、この迷い続ける状態そのままに、真理に到達することができると信じられる中に救いがある。
僕はこのA医師の言葉の中に「迷いの中に悟りがある」と同じ響きを感じたのである。

そもそもスピリチュアルペインとは誰のための言葉か

また、この回答にはもうひとつの深みがある。
それは、
「結局のところ、スピリチュアルペインが社会的苦痛と見分けがつかない、とか精神的苦痛と分類できない、などと医療者側が悩んでみても、患者側にとっては関係がない」
という事実だ。
以前、SNS医療のカタチONLINEで語ったように、患者が体験している苦しみは「ひとつの痛み」であり、身体的とか精神的とかスピリチュアル、などと分類するのはあくまでも「医療者がわかりやすくするため」に過ぎないのである。

A医師はこの回答ののち、
「結局のところ、苦痛を分類して理解しようとしたとしても、もう一度『統合する』プロセスを経なければ、それは患者さんにとって意味あるものにならない」
といった意図の言葉を話されていた。
つまり、医療者は得てして患者の状態(身体・心理)を「分解」し、「わかったような気になる」ものの、それをもう一度、例えば患者に合う「物語」といった形で再構築しなければ、患者自身の実益につながらないのである。

鋼の錬金術師でも言っているではないか。
「錬金術の基本は、理解・分解・再構築だ」
と!

しかしカンファレンスなどでは、この「分解」のところまでで錬成を止めてしまっている例が散見されるのだ。お前たちは「傷の男(スカー)」なのかよぉ!と。

話が逸れたが、結局のところ緩和ケアにおいては、分解の部分が多少間違っていたとしても、「患者さんの『ひとつの苦しみ』を正しく見る」という基本さえずれていなければ、それを元に再構築していくプロセスの方がよっぽど大切なのである。

ここまで読んでくれてありがとう!この先のマガジン購読者限定部分は、スピリチュアルペインについて先ほど語らなかった「上から目線で悦に入った、おっさんの独り語り」をしていこうと思う。興味のある方は定期購読お願いします!

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