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#ずいずい随筆⑩:豊かってことは選べるってこと

 BuzzFeedの岩永さんが取材した記事が話題だ。

 96歳の男性が介護施設にて、夜中に「ラーメン食べたい」と言い、おいしそうに食べる動画。10日前まで病院でペースト食しか許可されなかったそうだが、退院して「好きなものを食べたい」という気持ちがあふれ、介護スタッフがそれに応えた形だ。
 しかし、その動画がTwitterで公開されると、批判が殺到した。「肺炎になるリスクがあるのに無責任だ」「同意書はとっているのか」「介護スタッフの負担も考えろ」などなど。

 もちろん、この動画に賛同する声も多くあがった。「本人の自由」「この顔を見ればよかったってわかるでしょ」「尊厳を守るということ」などなど。

 さて、皆さんはどのように感じただろうか。

選べるということが自由への第一歩

 僕が昨年6月に発刊した『がんを抱えて、自分らしく生きたい』の中に、似たような話があるので、こちらもちょっと読んでもらいたい。

「カネコさんは、何度も肺炎を繰り返していて、もう普通の食事を食べることは不可能でしょう。栄養は24時間の点滴でとることにして、口から食べるのは栄養ゼリーだけにしてください」
と主治医から告げられたカネコさん。
「もう病院でできることはありません。訪問診療の先生を紹介しますので、あとは自宅で好きなことをしながら過ごしてください」
と説明され、退院した。
 カネコさんにとって「好きなこと」とは?それは「食べること」だった。その希望が完全に奪われた今、「好きなことをしながら過ごしてください」と言われても、その頭の中に浮かぶのは真っ白な情景だけだった。
 その1週間後、近隣のクリニックからの訪問診療が始まった。カネコさんは、訪問診療に来た医師たちに、暗い顔で語りかけた。
「もう私は死ぬまでゼリーしか食べられない、って病院で言われたんです。何も悪いこともしていないのに、この甘ったるいゼリーだけが1日3食、しかも毎日ですよ…。食べることが大好きだったのに・・・。特にウナギが好物だったんです。それももう、一生食べられない。もう生きていく希望が何もない…」
 家族に聞くと、カネコさんは退院してきてからというものの、毎日ベッドで寝てばかり。口を開けばこうして愚痴をこぼしているのだそう。家族もすっかり憔悴し、その顔からは希望を感じ取ることはできなかった。
 医師は黙って、カネコさんの話をしばらく聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「カネコさん。もし、あなたや家族が良ければ、食べたいものを食べてもらっても構いませんよ」
 医師の言葉に、カネコさんは驚いて顔を上げた。この医師は何を言い出すのだ・・・、それができないから、私たちはこんなに苦しい思いをしているのに・・・。医師は、そんなふうに考えているカネコさんの表情をみながら丁寧に、ゆっくりと、一言ずつ言葉を選んで語りかけた。
「私は医師として、むせ込みのリスクがある食事をお勧めするわけではありません。ただ、そのリスクをカネコさんや、ご家族の皆さんに理解してもらったうえで、普通の食事を食べてみるという選択肢はあってもいいと思うんです。もちろん、いずれにしても飲み込みのリハビリや、看護師や家族による痰の吸引といった体制は整えさせてもらいます。安全を優先するならしばらくはゼリー中心の生活を続けた方がいいと思いますが、仮に命を縮めるリスクがあっても自分が望むように生きるというのもひとつの選択肢ではないでしょうか」
 カネコさんは、医師の言葉を聞き、しばらく考えていたが、
「なるほど、よくわかりました。家族とも相談して、どうするか決めます」
 と答えた。
 そして、1週間後に医師が再度訪問した時、カネコさんは、
「先生、決めました。私、このままゼリーで生きていきます」
 と、笑顔で告げた。医師は、意外ですねという顔をして尋ねた。
「どうして、そうしようと決めたのですか?」
「先生に、『リスクをとって生きる生き方もある』って言われて、どうしたいのかもう一度考えたんです。そしたら、私が大切にしたいことは食べたいものを食べるということよりも、家族とできる限り長く過ごせることだと思って。だから、リスクを避けてゼリーを注意して食べる生き方を選びます」
「それが、あなたが決めた生き方なんですね」
「そうです。これが私が決めた生き方です」
「わかりました。でしたら、私たちはその生き方を全力でサポートしていきます」
と、医師は笑顔で話した。
 それからというもの、カネコさんは変わった。ゼリーを食べることに対し、悲観的なことを一切口にしなくなった。そして、デイサービスに通ったり、歯科医らによる飲み込みの機能を改善させるリハビリに励み、筋力も徐々についていった。そして1年が過ぎたころ、
「先生、誕生日にトロ食べられました」
 と、カネコさんは満面の笑みで医師へ告げた。食べやすいように妻がトロの線維を取り、おちょこ1杯分だけだが、むせることなく食べられたのだそう。歯科の先生方からも、飲み込みの力がだいぶ改善してきているとの評価を頂いていた。
「先生、次の目標はウナギです」
カネコさんと家族は笑い合った。

(本文より。一部改変)

 カネコさんは、「医師から命令された」ゼリー食のときはずっと悲観的だった。しかし「自分で選んだ」ゼリー食になってから、突然前向きになった。
 この違いは何だろうか。

 僕は冒頭の記事を読んで、「リスクがあっても好きなものを食べるのがいい/悪い」という議論になるのはちょっと違うのではないかと思った。この96歳の男性にとって良かったのは、ラーメンを食べられた、ということではなくて「選べるという自由があること」なんだと思う。それはカネコさんが、選べるという自由の中でゼリー食を選んだことと同じ。
 もちろん、その選択は多くの専門職や社会にサポートされてのもの。その中で選択肢が広がっていくっていうことが自由であり、「豊か」ということなんだろうと思う。

自由→豊かを全肯定する前に考えること

 ただここで考えないといけないことは、選択肢が豊富にあり、それを選べる自由があるってことが「豊か」、だからそれは素晴らしい!って全肯定していいのかってこと。
 自由に選択をする、ということはそれに伴う意思と責任が伴うということ。それって実は、生き方としてはしんどいという面もあると思わないだろうか。
 選択肢が一つしかない、となれば腹も括れる。そこにしか道がないから、仮にそれが茨の道であっても、それをどううまく渡ろうか、と試行錯誤もできる。でも選択肢がたくさんあって「あなたが自由に選んでいいんですよ」っていうのは、自分の中に明確な生き方の軸がないと、実はしんどい。なんとなく選択して、その道が茨だったら「やっぱりあっちの道の方がよかった」って後悔して立ち止まってしまうかもしれない。「あっちの道」のほうが実はもっと激しい茨かもしれないのにね。

 結論から言えば、自由であることは豊かである、というのはあるべき社会だと僕は思う。ただ、それを享受できる社会というのは、一人一人が精神的に成熟した社会。人がどう生きるのかってことを、それぞれが考えられる社会が必要だと思う。

豊かさの陰に

 もうひとつ考えてほしいことは、この「豊かさ」を作り出しているのは誰かってこと。
 このラーメンを食べる動画を批判する声に、「生きる尊厳を与えろ!」って批判をするのは簡単だ。でも、医療や介護の現場でいま何が起きているのか、その尊厳が守れなくなっているのだとしたら、それは果たして医療・介護職だけの責任なのか、ということも立ち止まって考えてほしい。
 医療・介護職も、好き好んでペースト食を食べさせたいわけではない。少しでも普通の食事が食べられるように、どの病院・施設でもできる限りの努力をしている。その結果として、食べる能力を劇的に回復する方もいれば、どんなに努力をしても絶対に食べられない、という方もいる。
 生活の中で、食べたいものを食べながら生きていける、それを支えてくれる専門職がいる。それは豊かな光景だろう。あなたもこう生きたいと願うだろうか。
 でも、あなたの大切な人が仮に、同じ状況でラーメンをのどに詰まらせて亡くなってしまったとしたら…。あなたはそれでも「豊かな社会、自由の選択の結果だ」と言えるだろうか?
「豊かな社会」は、成熟した一人一人の意思の結果だ。あなたが自分の生きたいように生きたいと願うのと同時に、他の人――あなたが大切に思っている人の生き方も、その人の生きたいようにと願えるかどうか。それが仮にあなたの生き方と正反対だとしても。

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