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緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか~安楽死制度を議論するための手引き08

論点:緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか

 前回の記事では、子どもに対する安楽死制度の適応についてみてきましたが、その適応条件となる「緩和ケアを受けても苦痛が緩和されず、余命が限られた患者」が実際にはかなり特殊な状況でほとんど存在しないのではないか、ということを書きました。
 その理由として、理論上「終末期におけるあらゆる苦痛は、適切な緩和ケアによって取り除くことができるはず」だからです。そしてその要となるのが、終末期において麻酔薬に近い薬を使って意識の状態を落とし、苦痛を感じずに済むようにする緩和ケアの手法である「緩和的鎮静」であるという話をしました。緩和的鎮静を含むあらゆる緩和ケアの手法が適切に用いられる前提において、終末期のあらゆる苦痛は取り除かれるはずなのです。

 ただ、実際にはこの「緩和的鎮静」の運用をめぐっては、緩和ケアの専門家の中でもいまだに議論が続いている部分でもあるのです。

 そもそも緩和的鎮静とは、終末期において麻酔薬に近いもの(鎮静薬)を投与することで、患者さんの意識レベルを低下させ、「苦痛を感じさせずに済む」ようにする医療的処置です。患者さんの状況や、苦痛の程度によって「夜間だけ眠れるようにする(間欠的鎮静)」や「声かけをすれば目が開く程度の意識レベルにする(浅い鎮静)」、また「二度と目が覚めないレベルまで眠ってもらう(持続的な深い鎮静)」などがありますが、いずれも鎮静薬を用いて意識レベルを下げる、という意味では同じです。なお、近年ではこういった「苦痛の程度に応じて鎮静薬を用い、苦痛を感じないように意識レベルをコントロールしていく」ことが主流となってきており、それを全般的に「調節型鎮静」といった言い方をしています。この概念が出てきたことにより、昔のように「苦痛を感じながらも意識レベルを保つ」か「死までの間、完全に目が覚めないようにする」か、つまりはゼロか100か、のような二択では無くなりました。
 そしてこの二択ではなく、調節型鎮静の概念が生まれたことで患者さんや家族、そして医療者が煩わされていた葛藤も少なくなりました。つまり、ゼロか100かの二択しかなければ、「もう二度と目が覚めないようにする」決断をすることはつまり「ある時点をもってして(魂としての)今生の別れ」をしなければならない、という意味であり、特にそれを家族や医療者が決断することは、やはり「安楽死をさせている」ような感覚を与えているように感じられたのです。しかし、調節型鎮静の登場によって「眠らせることで患者さんの魂の時間を終わらせる」ことにフォーカスするのではなく、「苦痛を緩和するために鎮静薬を用いる、その結果として眠ってしまうかもしれない」というアプローチが生まれたことで、治療行為としての色合いが濃くなり、前述したような葛藤はかなり少なくなりました。実際、この調節型鎮静を始めると、「持続的な深い鎮静」に至る前に「もうろうとはしているものの、苦痛が取れて穏やかとなり、家族とコミュニケーションが取れる」レベルとなる例もよく見られるのです。

 しかし一方で、やはり「持続的な深い鎮静」でなければ苦痛を緩和できなかったり、また最初からそのレベルの鎮静を求める患者さんもいます。それに対し、「持続的な深い鎮静は安楽死と同じだ」「苦痛が取れないのはその医者のウデが悪いからだ」などと言って、絶対に緩和的鎮静をかけない、と主張する医者もいます。
 少し話がそれてしまいますが、病院や医者によって鎮静率に大きな差があることは事実です。鎮静率20%、という病院もあれば0.1%以下という病院もあります。では、鎮静率20%の病院は、それが0.1%の病院よりウデが悪いのかと言われたら、そうではないと答えます。緩和ケアの現場にいるとわかりますが、最先端の技術を駆使しても緩和するのが困難な苦痛というのは存在します。それでも何とか鎮静薬以外の方法でやりくりしようとするか、早めに鎮静薬を使うか、についてが医者それぞれ、といったところで「20%」と「0.1%」の差が生まれるというところです。
 ただ、僕個人の考えとしては、それはどちらも患者さん主体とは言い難いのでは、と感じます。医者個人のポリシーで、早めの鎮静や逆に遅い鎮静が左右されるのではなく、患者さん本人の希望やこれまでの生き方などを踏まえて、相談をしながらやっていく・・・とすれば、持続的な深い鎮静まで必要となる患者さんは5%前後にとどまるのではないかなと思っています。

 さて、ここまで解説してきたように、持続的な深い鎮静を含めた調節型鎮静を駆使することで、「終末期におけるあらゆる苦痛は、適切な緩和ケアによって取り除くことができる」ようになります。つまり、前回にお話したような「緩和ケアを受けても苦痛が緩和されず、余命が限られた」状態というのはかなり特殊な状況であるとした論拠がここです。
 ただ、ここで問題となるのは「余命が限られた」の定義が、オランダ・ベルギーの解釈と日本における解釈では大きく違うのではないかという部分です。余命=半年なのか、1~2か月なのか、それとも1~2週なのか。安楽死制度では余命半年、とされる場合も適用可能ですが、緩和的鎮静は余命半年が見込めるとしたら基本的に適応となりません。緩和的鎮静はあくまでも、終末期における緩和困難な苦痛を取り除くための手段だからです(ここで僕らが言う「終末期」とは余命が少なくとも1~2週程度と考えているということです)。
 しかしここでもうひとつ考えなければならないのは「余命半年以上残されている状態で、終末期と同様な苦痛に苛まれるといった状況があるのか」という点です。ここについては、特に日本においてはその「特殊な状況」が存在してしまっている、といった問題点を挙げていかなければなりません。

 少し長くなってきたので、今日はここまでとして次回は「終末期と同様な苦痛があっても延命される日本」といったテーマを取り上げましょう。ではまた。

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