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安楽死報道のあり方~安楽死制度を議論するための手引き16

論点:この日本において「国民的議論」は可能なのか

▼前回記事

 先日、安楽死に関するドキュメンタリー番組がフジテレビで放送されていました。

 子宮頸がんから全身に転移をし、視野や平衡感覚なども失われた40代の女性。止まらない咳や、痛みに耐えるシーンもそのまま映されていました。
 そして、彼女の夫と二人の娘が登場し、夫との出会いや娘さんが誕生してからの家族との交流が描かれていきます。その後、病気を発症してから、安楽死をめぐる家族の中でのやり取り、そして最後はスイスに夫婦で赴いて、オンラインの向こう側では娘さんたちが見守る中、息を引き取るまでの様子、そしてその後の家族の生活・・・。

 スイスでの安楽死を取材した報道は、ここ最近では年に1~2回程度、どこかの局で放送されています。
 例えば、今回の放送と同じディレクターが手がけた「最期を選ぶ ~安楽死のない国で 私たちは」は2023年の放送。

 TBSでの報道特集は2024年。

またNHKが手がけた、安楽死の特集は2019年の放送でした。

 その他にも15分~20分くらいの特集番組という形では、いくつか放送があったと記憶しています。

 では、こういった繰り返される報道を通じて、安楽死制度の議論は「前に進んでいる」と言えるでしょうか?

安楽死に関する報道に何を期待するか

 今回のフジテレビのドキュメンタリーは、本人の考えや生き方、家族の思いを淡々と流すに務め、それを良いとも悪いとも評価しない番組の作り方をしているように見受けられました。
 一方で、これまでの番組の中では、安楽死を望んだ方と対にするように、安楽死に反対する方を登場させ、まるで「両論併記」といった構成での放送も多くありました。また、番組内でコメンテーターなどが登場し、安楽死制度の説明から、世界の情勢までを解説しながら、スタジオ内で賛否両論のディスカッションを行うといったものもありました。

 僕個人としては、フジテレビの放送のように、ただあるがままの姿を報道する形の方が望ましいように思います。それは、個々人の人生を「正しい」とか「間違っている」といった軸で評価するのが、安楽死に関する議論を進めていくうえで害になりうると考えるからです。
 この連載の中では、「安楽死制度が必要な人は、少数ではあるが存在する」という前提で議論を進めてきました。しかし一方で、大多数の人にとっては安楽死制度は必要ないですし、僕ら医師としては、「本来は安楽死制度が必要なかった人」が安楽死で死に至ることを防ぐ使命があります。そういった構造になっているところに、一人の人生を取り上げてその「評価」をするのは、大多数の論理で一人の生き方を潰す行為につながりかねず、安楽死制度の前提として必要な「個人の尊重」に反する流れを生み出してしまいます。

 ではこれからも、安楽死を望む方々の声や生き方を、そのまま放送し続ければ、安楽死制度がある未来へ向けて、議論が熟成していくのかと言われれば、それも疑問です。
 そもそも、いまの日本において「国民的議論」を行うことなど可能なのでしょうか?
 一昔前の、「お茶の間で家族全員が食卓を囲みながらテレビを見る」といった光景が失われ、多様性が尊重されつつある今、報道によって国民全体をひとつの方向に向けての議論を巻き起こせるほどのパワーは期待できないでしょう。
 少なくとも、ドキュメンタリーを年に1~2回流し続けるだけでは、その時その時はSNSなどでも話題に挙がるものの、単に一時の花火で終わるだけ・・・。
 次の報道番組が作られるときには、また熱量ゼロからのスタート。その繰り返し。

 いまの日本において、本当に「国民的議論」を醸成していきたいのであれば、報道にも長期的な戦略が求められるのでしょう。
 しかも、安楽死制度はセンシティブな話題であるため、「賛成」「反対」どちらの色を濃くして報道したとしても批判を浴びる可能性があります。特に「賛成」の側に立ちすぎてしまうと、最近のポリコレの風潮によって番組自体が潰されてしまう可能性もあるかもしれません。

 では、どのような役割を報道に期待できるでしょう?
 僕であれば「今現在、安楽死制度の議論はここまで来ている」といったニュースを、10分ほどで良いから3~4か月ごとの定期的に報道する、といった戦略を考えます(実現可能性については置いておいて)。つまり、報道に「マイルストーン」の役割を担ってもらうということ。

「いま世界はこういった現状になっている」
「日本においてはこの部分は議論が進んでいるが、この点については停滞している」
「この論点における賛成・反対のこれまでの意見は以下の通りだが、現在はこの意見の中でこの部分を中心に進んでいる」
などについて、SNSや有識者の意見をまとめながら細かく発表していくということ。こういったマイルストーンがあれば、国民にとっては議論全体がどういった流れで進んでいるのかが分かりやすいうえに、1時間番組を見るでもなく、朝の10分間報道の中で定期的に話題に触れさせられることで、興味関心を持ってくれる方も増えていく。少なくとも、毎回毎回「いま初めて安楽死制度の議論が始まりました」といった雰囲気から番組が作られることも無くなるでしょう(もちろん、途中から興味を持ち始めた方のために、議論の歴史を振り返る番組も時々は必要でしょうが)。
 しかも、この報道の仕方であれば「いまここまで議論が進んでいます」を示し続けるだけなので、特に賛成・反対どちらにも加担することなく中立な立場で報道を続けることができます。

 こういった報道を可能にするためにも、安楽死制度に関する世界的な議論の論点整理は大事なのです。一度にたくさんの論点を取り扱おうとするから、議論の中身は薄まり、その内容を深掘りするでもなく番組の時間を使い切ってしまいます。
 この連載の中でずっと取り上げてきましたが、「患者の権利法」「余命要件」「疾病要件」「緩和ケアによる代替可能性」「すべり坂」「子どもの安楽死」「認知症の安楽死」などなど、それぞれひとつの論点だけをとってみても、数時間は議論できる内容です。それを雑に「日本における安楽死の必要性を考える1時間」などと括ってしまうから、ただでさえ環境的に議論が起こりにくくなっている中で、国民的議論に発展する可能性を削いでしまうのです。

 ただ、問題点があるとすると安楽死制度には「論壇」を象徴する場が明確に存在しないことでしょう。政治の場で俎上にのぼるような議題でもなく、また学会のような機関もありません。定期的にフォーラムを開催したり機関誌を発行するような全国的な組織でもあれば別ですが、そういったものも存在しません。つまり「いま国民的議論はここまで進んでいます」といった根拠を見つけに行くのがかなり難しいということです。

 ただ、国民的議論が発生しないのは、安楽死制度反対派にとって有利に働きます。「まだ議論は始まってもいない」「制度化するには時期尚早だ」などと口実を作ることがいくらでもできますからね。ただ黙っているだけで反対派が有利になっていく・・・この状況は、フェアとは言えませんよね。せめて、論壇を発生させる、議論の場を設けるといったことで機会を均等化させなければ、建設的な議論に進みようもありません。

 インターネットの普及に伴い、その影響力が衰えたと言われるテレビや新聞ですが、まだまだ大きな力をもっていることは事実です。僕は、報道機関が協力すれば、こういった「議論のプラットフォーム」を作れるのではないかと期待しています。

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