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 今年も数え切れないぐらいコンサートを聴いた。数えるのが怖いぐらい、とも云える。
 年の瀬にあたり、電車に揺られたりしている時などに、今年聴いた中で記憶に残るコンサートを心の中で挙げてみたりする。武蔵野で聴いたアチュカロのリサイタル、小澤/水戸室内管弦楽団とアルゲリッチ、プレトニョフ指揮東京フィルのハチャトゥリアン「交響詩曲」、プレトニョフのリサイタルで聴いた晩年のリスト、ムーティ/バイエルン放送響のシューベルト、ブロムシュテットN響のモーツァルト「ハ短調ミサ曲」…。どれもが記憶に鮮やかで、どれが一番なんて決められない…。
 と思っていたら、極月に入ってとんでもない伏兵が飛び込んできた!これは今年一番の収穫かも…。ゲルギエフのチャイコフスキー!伏兵と書くのは勿論不適切な、世界的指揮者ゲルギエフとその手兵マリインスキー・オペラだし、チャイコフスキーも勿論嫌いだったりはしないけれど。聴いた事が無いチャイコフスキーのオペラ、しかも舞台では無くコンサート形式、ここまでやられるとは予想だにしていなかったので不意打ちを喰らった感じ。勿論嬉しい不意打ちだ。

ヤンソンスに捧げられしコンサート

 開演予定時間10分前まで開場せず。よほど念入りにリハーサルをしていたものか。そもそも一昨日・昨日はチャイコフスキーの別のオペラ「スペードの女王」を演奏していたのだ、この方たちは!三連戦の最終日に別のオペラをやる事自体恐るべし。ゲルギエフ/マリインスキーに関して言えばよくある話ではあるけれど。他のオケ/オペラでは考えにくい。それだけ音楽に、お客に、真剣に向き合っているのだろう。もっと楽なプログラムを組んだっていいはずなのだ。他のオケはAプログラム、Bプログラムと2種類ほど用意して適宜振り分けて何カ所が巡業して帰って行くのだから。日本に稼ぎに来ましたというスタイルではないこの人たちの真摯さにまずは感服。

 そして開演は10分遅れ。合唱団、オーケストラとゲルギエフが揃ったところでアナウンスがあった。「ゲルギエフとマリインスキーは、この演奏を昨日亡くなったヤンソンスに捧げます」と。アナウンスを受けて演奏者と観客はともに故ヤンソンスに暫し黙祷を捧げたのであった。

 ゲルギエフの妥協のなさは其処此処にみられる。休憩も変更とのアナウンス。全三幕のオペラで、二回の幕間に20分ずつ休憩の筈だったが、第二幕第一場終了時点で1回のみ20分の休憩とのアナウンス。

 合唱団はオーケストラの奥の客席で歌う。オーケストラは大編成で、歌手たちの歌うスペースも舞台前部に取ってあるため、確かに合唱団の入る隙間は無い。男声32、女声27、計59人の合唱団。

 配置は対向配置。ハープは中央ちょっと下手あたり。この曲ではマリアの心に寄り添う実に重要な役回りなので此処なんだな、と聴き終わって思う。

名曲!圧巻の演奏!

 チャイコフスキーはオペラを聴かずに語っちゃ駄目だ…、と痛感。素晴らしい名曲だ…。

 どうしても交響曲(特に後半3曲)、三大バレエあたりでチャイコフスキーは語られがち、私も含め。思わず、吉田秀和が小林秀雄の「モオツァルト」を批判して記した「モーツァルトを器楽曲だけで語っちゃ駄目。声楽曲も含めて語らねば」を思い出した。チャイコフスキーもそうだな…、と。

 序曲からもう感動。名曲であり、名演である!序曲に続く花を摘む乙女達の合唱で早くも物語に気持ちを一気に持っていかれる。素晴らしい…。舞台で観たい!と強く願う。

 音楽だけではない。ストーリーも実に起伏に富んでいる。プーシキンの物語詩「ポルタワ」に基づきブレーニンが台本を書いたもの、その台本にチャイコフスキー自身が相当手を入れている。帝政ロシア下のウクライナでコサックの統領マゼッパが虎視眈々とロシアからの独立の機会を窺う。72歳のマゼッパと18歳のマリアの恋愛と結婚が描かれる、と書くと歳の差が有り過ぎる二人に感情移入しづらそうだが、二人は真剣に愛し合っている。そしてマリアに恋する同年代のアンドレイの悲恋。アンドレイという人物を入れたのはチャイコフスキー。非常に効果的だ。

 ウクライナを描いた背景としてはチャイコフスキー自身、父方がウクライナ出身とのこと(因みに母方はフランス系移民の子孫)。ウクライナに寄せる思いがあったのだろう。舞台には登場しないが、ピョートル大帝が誤った判断を下す筋書きであり、これを舞台化するのに障碍は無かったのかな?と思ったりもする。このオペラはウクライナの人たちのみが舞台に登場するロシアのオペラ、だ。

 第一幕、アンドレイ初登場時にいきなりの、血の滲むような「マリア!」の叫び。熱唱、名曲。
 と思ったら、そのあと出てくるマゼッパの歌も、コチュペイの歌も、みな熱唱、名曲。終幕の「復讐を待つがよい!」が恐ろしくも強く心に刺さる。
 第二幕の序曲もいいな。第二幕では愛に悩む老マゼッパの独唱もよかった。真にマリアを愛していることが伝わる。

 オーケストラも勿論素晴らしかった!弦も木管も、金管も、打楽器も。特にオーボエとクラリネットが素晴らしかった…。いい音、すばらしい技術。そして第3幕でマリアの悲劇を哀切に歌い上げるソロを弾くコンサートミストレスも素晴らしかった…。皆さん、ソリストレベルの素晴らしさだ。
 ゲルギエフは指揮台を置かないスタイル。前からそうだったかな?以前聴いたときの記憶が無い…。3時間半、微に入り細に入り指示を飛ばす熱演ぶりで、美しくかつ圧倒的な音楽を紡ぎ出してくれた。

 チャイコフスキーのオーケストレーションも実に見事。オーケストレーションの魔術師だな、と思う。
 オーケストラだけでも満腹なのに更に第二幕ではバンダまで登場。Trp3、Trb3,Hrn1、Tuba1、大太鼓1、スネア1。処刑のシーンで彼らが連隊の楽隊となる。最高の演奏。コチュペイらの痛切な思いを演出する。
(但しその後更に増強されたバンダのOb、Cl、Fgは、ほぼ聞こえなかった。意味不明…)

 第二幕の民衆の合唱も素晴らしかったし、第三幕のアンドレイによる絶唱も、狂乱のマリアも深く心に沁み入った…。

 しかし、オペラには女性が狂乱する筋書きが多いな…。切なくなる。

サントリーホール、ありがとう

 しかしまあ、改めてサントリーホールは本当にいいホールだ。2階席から聴いたが、ここでも全く問題なく楽しめる。このホールはどこで聴いても、よく見えてよく聴くことが出来る。合唱団の歌声は満場に響き渡る。歌手達のピアニッシモの歌唱もよく届く。最高のホールだ。
 このコンサートが捧げられた故ヤンソンスについては昨日以下の一文を書いた。

 その中でも紹介した池田卓夫さんの記事

にも有るとおり、

ヤンソンスは「日本のサントリーホールと愛知芸術劇場コンサートホール、札幌コンサートホール・キタラ、ミューザ川崎シンフォニーホール。この4つが私にとって理想のホールで、ミュンヘンにも同水準のホールがほしいと長く、願ってきた」と、日本の音響設計への信頼を明らかにした。

というのだ。こんなホールに恵まれていることを私たちはもっと感謝しなければならないな、と思った次第。

ゲルギエフとマリインスキー

 なお、昨日のヤンソンス追悼文には「16年の長きに亘るオーケストラと指揮者の関係性はなかなか稀有なものだと思う」と書いた。その思いは変わらないが、ゲルギエフとマリインスキーに至ってはゲルギエフがレニングラード音楽院を出た1977年からずっと助手、芸術監督、総裁、と立場を変えながらも42年の長きに亘って続いている。これはロシアという国の特殊性から来ているとも云えようが、やはりスゴいことだ。その堅固な関係からこそ、今日の名演はあるのだな、と感得したことであった。

鳴り止まぬカーテンコール

 途轍もない感動を味わっていたのは私だけでは無かった。休憩20分を挟んで3時間半あまりに亘ったオペラが終わった時、ブラヴォーの嵐が巻き起こった。お義理の拍手では無く、興奮状態の拍手が舞台に降り注いだ。
 アンコールなんて当然あるわけでもない。もう帰路が気になる時間でもある。しかし殆どの人が残って惜しみない拍手を贈っていた。
 遂にはオーケストラが引き揚げても、半分ほど残った観客はスタンディングオベーションを続けていた。ゲルギエフと歌手達が、出てきてそれに応えてくれていた。素晴らしい夜だった。
 This is the opera! This is the concert! This is the night!

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