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 昨日は夕刻に仕事を終えて数時間、鹿児島市内を散歩で旅した。

 明けて今日は1日オフ。薩摩半島を知覧・指宿を中心として巡るつもり。鹿児島中央駅そばでレンタカーを12時間借りて、さあ、出発。

 一路、知覧へ。指宿スカイラインで一気に南下したが、レンタカーのナビは知覧ICまで行かずに手前の川辺ICで下りるようにと指示を出す。素直に従って高速を下り、一般道を進んで行くと「清水(きよみず)磨崖仏群」という案内板が目に入る。磨崖仏にも目がない私、「一路」は撤回して、寄り道開始。これも車旅の醍醐味だ。

 間もなく駐車場へ着く。観光客は一人もいない。折からのスコールのような雨に降られ、折りたたみ傘をさしながら独り、川沿いを歩く。この地はホタルの群生地とも立て看板から知る。小雨に変わった雨。そぼ濡れた川沿いの道を独り歩くのは、実に気持ちのいいものだ。ほどなく磨崖仏群の地へ到着。以前はその間近まで行って観ることもできたようだが、今は崩落の危険ありということで対岸から観ることとなっている。対岸に置かれた展望台から一望、驚きの風景が広がっていた。

清水磨崖仏群(鹿児島県南九州市川辺町)

清水磨崖仏群(一部)

 なかなか写真からでは伝わらないだろう。まさしく磨崖仏「群」と呼ぶに相応しい。
 通常磨崖仏というと、千葉の鋸山(のこぎりやま)、大分の臼杵石仏、アフガニスタンのバーミヤン石仏に観るような、巨大なものが思い浮かぶ。
 しかしここの磨崖仏は一つ一つは小さい。そして素朴だ。
 案内板を見て得心した。これらは平安時代の終わり頃に初めて彫られ、それから鎌倉、室町、明治の各時代に彫られたものとのこと。

 線彫りの素朴なものから、浮き彫りまで。板碑、梵字、五輪塔、宝筺印塔など描かれたものもバラバラ。時代時代に応じて、技巧も、様式も、彫られる対象も変わる。

 しかし一貫して見られるのは、無名の人々の祈り、だ。
 最後期、明治時代に彫られたものは年代が近いこともあり、はっきりと彫った人の名前がわかっている。吉田知山という名の知れたお坊さんが彫ったものだとのことで、技巧的にも優れている。
 しかしそれ以外のものは、名も残っていない人々が祈りながら彫ったものだ。
 亡くなった人を弔うために彫られたものもあった。
 あるいは、自分の供養を死ぬ前に自分で済ませるという興味深い倣わしに沿ったものもあった。これは室町時代の「逆修思想」に基づくものとのこと。
 二つ並んだ夫婦のものと思われるものが微笑ましい。

夫婦のものと思われる磨崖五重塔

 しかも、上に掲げた写真のものは、多く彫られている場所からは少し離れた場所に彫られている。あの世へ行ったあともできるだけ二人きりでいたいと思ってのことだろうか。仲の良い夫婦だったのだろうな。

 低い位置に彫られたものはわかるとして、高い位置に彫られたものは一体どのようにして彫ったのだろう。往時の人の知恵、技術、意志、祈りには驚くばかりだ。

 思いがけず立ち寄った清水磨崖仏群。おかげさまで心洗われる時をいただいた。さあ、知覧へ向かおう。

宝光院跡の仁王像

 …と車を走らせ始めて1~2分、路傍に見捨てておけない看板がまたあった。「宝光院跡の仁王像」。なかなか知覧へ行けないがこればかりは仕方が無い。車を停めた。
 なぜ見捨てておけなかったか。それはこの薩摩の地が全国でも一番と言っていいほどに廃仏毀釈が徹底して行われた地であったからだ。果たして、目にした仁王像と説明板は廃仏毀釈のすさまじさを物語っているものであった。
 ここ宝光院は川辺町一帯を昔治めていた河辺氏の菩提寺であったという。相当大きな寺だったということだが、明治2年の廃仏毀釈によって壊されてしまい廃寺となった。
 参道入り口に置かれたこの仁王像も顔を削られ、腕を折られて打ち捨てられていたものを地元の方たちが、のちに元の場所に戻したものだという。

顔を削られ、腕がない仁王像二体

 単に明治新政府の命令だからというだけでなく、島津斉彬以来の西洋化を急ぐがゆえに…とか、水戸学の影響とか、諸説あるようだ。いずれにせよ、ここが徹底的な廃仏毀釈が行われた地方であったことを目の当たりにした機会となった。
 なぜここまでしたのだろうか。一日旅しているだけの者にはすぐには理解できるところではない。
 いずれにせよ、これだけ立派な仁王像が薩摩半島の山間部、この川辺の地にあったのだ、それを覚えておきたい。

清水磨崖仏群は廃仏毀釈から逃れたものと言えるのだろうか

 ふとそこで考えた。清水磨崖仏群はなぜ廃仏毀釈の対象とならなかったのだろうか。ほんの数kmしか離れていないのに。
 一つは宝光院が平地にあるのに対し、磨崖仏群が山間(やまあい)にひっそりと隠れているということがあるだろう。
 また、彫られているものが仏の姿そのものではなく、板碑、梵字、五輪塔、宝筺印塔などであったからでもあろう。のちの明治28年に吉田知山が訪れて阿弥陀如来など文字通りの磨崖仏を彫るが、廃仏毀釈の嵐吹き荒れる頃は、仏の形をしたものは無かったあるいは少なかったからかもしれない。
 そして、清水の人々が守ったとも想像する。中央からの苛烈な政策に抗して、先人たちが脈々と祈りを捧げてきた川沿いの地を地元の人々は隠し通したのではなかったろうか。
 ふと目にした看板から立ち寄った清水磨崖仏群と宝光院跡の仁王像を見て、往時に思いを馳せたひとときだった。

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