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2020年3月 アン・フーンさん法話 「インナーチャイルドを癒す」

プラムヴィレッジは、3/25~3/29の期間、「In the Footsteps of Thich Nhat Hanh」と題する、プラムヴィレッジの著名なダルマティーチャーたちの法話や瞑想指導が受けられるオンライン・サミットを実施しました。その中の、アン・フーンさんの法話です。

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では、静かな時を持つことから始めましょう。心地よい姿勢で座ってくださいく。自分の呼吸に戻って、身体をリラックスさせて、呼吸を共に楽しみましょう。3つの鐘の音を聞きながら。私たちのプラクティスコミュニティでは、鐘の音が私たちを愛する場所へと帰してくれる考えます。我が家へといざなってくれるのです。だから鐘の音を聞いた時に微笑んで、それに対して「Yes」と言います。愛しい呼び声に対して「Yes」と言い、命に対して「Yes」と言います。今、ここで。リラックスしてこの小さな鐘から聞こえてくる美しい音をたのしんでください。(鐘の音)

鐘の音が聞こえるたびに自分の中で唱えている短い詩があります。それはこのような詩です。「私は聴いている。私は聴いている。この素晴らしい音は私を本当の我が家へと戻してくれる。私は聴いている。私は聴いている。この素晴らしい音は私を本当の我が家に戻してくれる。」

その後私は鐘の音に耳を澄ませて、自分の入る息と出ていく息に帰ります。そうすると私は今ここにある本当の我が家にたどり着いたと感じます。私は完全にそこにいて、過去への後悔も、未来への不安も、現在への嫉妬から自由です。それは素晴らしい感覚です。

大地にいることを感じて、力を抜いて、とても心地よい気持ちになります。私たちの多くにとっては、大人になっても、自分がかつて子どもだったということを忘れてしまいます。子ども時代の記憶は今もそこにあるのです。私たちの中には、この瞬間にも私たちの身体と心と意識の中にいるのです。だから大事なことは、この瞬間に戻ってきて、自分の感情を認識して抱きしめます。私にとっては自分の根っこを上にあげるまでには時間がかかりました。

子ども時代の記憶、子どもとして感じていたこと、そのことは私の関係性、特に私自身と私の愛する人との関係に影響していました。だから聞いて理解するということが重要なのです。喜びと、痛み。愛と、怖れ。私の中の小さな女の子の中にあるそれらの気持ちを。それらの気持ちを抱きしめて、自分の中の小さな女の子を抱きしめます。そうすれば、彼女と良い関係を築き、彼女を癒すことができますから。それは私が癒されるということでもあります。

私は子供としてベトナム戦争の時期に育ちました。私は多くの分離と苦しみが私の周りに起こっているのを目撃しました。私は自分の小さな家族の中では愛と安全を感じていましたが、愛と安全は戦争中にあっては非常に脆いものでした。私は多くの苦しみが周りにあることと愛と安全のもろさを目撃しました。でも、私にとっては自分の身近に愛と安全感があるということは小さな子どもとしてとても重要なことでした。

私たちはベトナムをボートで脱出しました。私たちはボート・ピープルと呼ばれる人々の一部でした。私は1979年の12月にアメリカにたどり着きました。1980年の秋に、私は大学に受かって大学で勉強し始めました。そこで大学一年生になりました。大学一年生の一学期にはとてもうまくやっていましたが、ある時点で勉強できなくなってしまいました。私はただ勉強できなかったのです。立ち行かなくなってしまいました。

他の人たちを助けるために大学で上手くやりたいと思っていましたが、集中することができませんでした。私の先生にその話をした時、先生は課題を出してくれました。その課題とは、自分にある幸せの条件を全て書き出すことです。私に今ある恵みです。その宿題をやりましたが、最初は簡単ではありませんでした。でも、続けていくうちに、簡単になっていきました。1ページ、次のページと。

私はしおれた花が、もう一度生き返ったように感じました。茎を水の中に入れて切ると、花が蘇りますね。それが、私が感じていたことでした。そしてまた勉強に戻ることができました。

私がその課題に書いていたことは、目があって見ることができること、心臓が健康に動いていること、強靭な脚があって歩き回れること、私の足の裏を使って大地にキスできること。私がアメリカに無事にたどり着くことができたのはとても幸運なことでした。ボートピープルの中には海で命を落とした人々も多くいました。またその期間、マインドフルな呼吸と歩く瞑想を熱心にプラクティスしました。大学のキャンパスを歩きながら歩く瞑想をして、花に微笑み、太陽の光に微笑み、雲に微笑んでいました。授業と授業の間には一歩一歩、一生懸命歩きました。

私はいわゆる危機から回復することができました。それは奇跡でした。今から振り返ってみると、私の先生がくれた課題に加えて、シンプルな呼吸と歩みのマインドフルネスのプラクティスが、私がこの瞬間に戻ってくることを可能にしてくれました。地に足がついて、リラックスした状態になることができました。安全だと感じて安らぐことができました。そして美しいものと命の不思議を染み込ませることができました。私は非常に滋養を与えられたと感じました。

そして、その後新しい私になりました。その課題の前は私は行き詰ってどうしたらいいか分かりませんでした。でも、その課題の後、座る瞑想や歩く瞑想、呼吸の瞑想などのシンプルなマインドフルネスのプラクティスによって、新しい私が現れました。それは、幸せな私です。それが新たな私でした。

何年かして気がつきました。私の中にいる小さな少女が、大学を始めた時に戻って来ていたのだと。だから私は18歳の大学1年生の勉強したいという望みと、自分の中にいる、孤独で圧倒されて混乱していた小さな少女とのの間で行き詰っていたのです。新しい国に来て、すべてが新しいことでした。

プラクティスはその波に乗ることを助けてくれました。その危機を乗り越えることを。この話をする時はいつも自分の先生とプラクティスに深く感謝します。

マインドフルネスのエネルギーと新しい私、それがその時の私の中の小さな少女の感じていたことへの道を教えてくれました。そして、それらの気持ちをゆるめて、それらの気持ちをケアして、自分の中の小さな少女をなだめました。

ある意味では私は数年後になるまで分かっていませんでした。マインドフルネスのエネルギーは太陽の光のようなものです。マインドフルである時に呼び起こされるエネルギーはすべてに深くにしみ込んでいきます。身体、感情の一つ一つに。自分がたとえその感情がそこにあると気がついていなくても。

私たちのリトリートに来た皆さんとよくシェアする話をお伝えしたいと思います。蜘蛛と子どもとお母さんの話です。ある午後、小さな少女が昼寝から目覚めると蜘蛛が寝室の天井にいることに気がつきました。彼女はお母さんの助けを呼びました。でも、お母さんは何かをするのに忙しくて、「自分でなんとかしなさい」と言いました。その女の子は「どうしたらいいか分からない」と言いました。「怖くて、どうしたらいいか分からないの」と。お母さんは「殺せばいいでしょ」と言いました。すると、その女の子は寝室から出て泣いていました。

その女の子は安全だと感じたかったので、蜘蛛がとても怖かったから、寝室から逃げ出しました。それが彼女にとっての怖れに直面した時の方法だったのです。寝室から逃げ出すということが。それが安全策でした。彼女の心や意識では信念がゆっくりとだんだん形づくられました。

なんだと思います?彼女はどんな信念を持ったと思いますか?その少女が思ったことはこうです。誰も私を大事にしてくれないのだ。私のためにいてくれる人は誰もいないんだ。私は一人なんだ。これらの信念が作られて、それが安全策となったのです。

その少女が大きくなって、独立して、ものごとに自分で対処するようになりました。その少女はたまたま、私の友人のうちの一人となりました。大人になって、自分の家族を持ちました。結局、片親となりました。一生懸命働いて、子どもを大学に入れてやりました。彼女は人生のすべてで一生懸命だったので、ある意味では彼女は自信を持っていました。やりたいことはなんでもできました。達成したいと思ったことは何でも達成しました。でも、その一方で、彼女の健康、肉体的な健康は悪化していきました。彼女は自分の人生が枯渇していると感じていました。それが再びつながるチャンスの時なのです。何年もつながりを失った後で。

いくつかの例について考えてみましょう。例えば私たちが子どもだった時何かが起こって泣いたとします。そうすると、大人やあなたの親は「泣くのを止めます」と言います。そして泣くことを止めます。安全で、愛されていて、大人から受け入れられたいと思うからです。だから泣くことを止めます。でも心の内側で作られていく信念は「誰も私の側にはいてくれない」ということです。泣くことは安全ではないのです。

そして人生を続けていく中で私たちの感情面での身体や人生は枯渇していってしまいます。私たちの心の扉は閉じられます。私たちは段々ロボットのようになっていき、自分の感情とつながることができなくなります。自分の心の扉が閉じられている時、命とつながることもできなくなります。外に出て、何かをやって、自分の好きなことをやっているはずだけど、しかし避難するために私たちはつながりを断ってしまったのです。自分自身と自分の周りにある、生きていること、愛、平和とのつながりを。

だから子供として取った安全策、信念となるのです。そして私の女友達の例を考えてみると、彼女は大人になって疑いを持って苦しみ、怖れを持っていました。難しい感情に苦しんでいました。それから逃げようとしていたからです。今、図をお見せしたいと思います。仏教心理学で人間の心理について表したものです。この図を見てみると人間の意識には8つのレベルの意識があることが分かります。8つのレベルは、人間の意識の8つの働きを理解するためのものです。まず蔵識(阿頼耶識)です。すべての過去の経験、すべての感情、心地よいもの不快なもの、人生で起こったことすべて、そして祖先に起こったことを全てがそこにあります。蔵識は土地のようなもので、土壌があり、そこに種があって栄養を与えていきます。すべての種は蔵識に眠っています。それぞれの種は経験であり、感情であり、蔵識の深くに並んでいます。愛や平和や信頼の種、信心や忠誠心、マインドフルネス、憎しみ、怒り、孤独、そのすべてが蔵識にあります。

誰かが私たちを幸せにすることを言った時、蔵識にある幸せの種が目を覚まします。そして上のレベルの意識である顕在意識に現れてきます。幸せだと感じて、周りの人々にも幸せを感じていることが伝わります。幸せが種の形で蔵識に眠っている時には、私たちは幸せだと感じません。幸せの種が顕在意識のレベルに現れて来た時に幸せだと感じるのです。マインドフルネスの種は私たちみんなの中にあります。たとえ忘れっぽい日々を送っていたとしても、マインドフルネスの種はそこにあるのです。蔵識の中に。マインドフルネスのプラクティスを始めた時、マインドフルネスの種が芽吹き、そこに現れるようになるのです。そして、生き生きとして、喜びに満ちて、マインドフルになることができます。マインドフルネスの種に水やりされたので、顕在意識に現れたのです。

時として蔵識は地下室のようなもので、顕在意識はリビングルームだと表現する人がいます。リビングルームあるものは見ることができますが、地下に保存されているものは見えません。私たちが顕在意識でマインドフルネスのプラクティスを行って、自分の注意を入ってくる息と出ていく息に向けていると、顕在意識でそれを行うことができます。

顕在意識にはすぐに散漫になるという傾向があります。止まって考えることができないのです。過去に囚われて、未来に囚われてしまうのです。あらゆる方向に走っていってしまいます。散乱していくというのは顕在意識の一つの働きです。顕在意識の働きのいくつかあるうちの一つです。

だから、マインドフルネスのプラクティスをする時、意識を一点に向けるのです。集中するために。マインドフルだと、拡散の状態が一旦停止します。そうすると、平和や生きている喜びを感じることができます。意識があらゆる方向に行ってしまうことを止めた時。

でも、ここで強調したいのは、末那識と呼ばれるレベルの意識です。末那識は別名、精神状態と呼ばれます。末那識の根は蔵識にあります。蔵識のある部分では無知や差別や欲望、渇望、思い込みでいっぱいです。末那識は蔵識のある部分を起源としていますが、蔵識に戻っていって一部をつかんでもいます。そして自分というものを作り上げています。これはちょっとおまけのようなものなので、これがどういうことかを今理解しなくていいですが、並べておきたいのです。末那識の特徴はいくつもあるので、もっとよく理解できる機会があるでしょう。

末那識というのは私たちが生き残るための本能です。虎が私たちに向かって走ってきたら、私たちは虎から逃げますね。私たちは、危険から逃げていくのです。それが末那識の役割です。

ここに末那識の特徴があります。止まらない思考。自分と他人を差別して考えることを止めないこと。足ることを知らないこと、貪欲さ。苦しみの良さを無視する。快楽を追求して、渇望の危険を無視します。秘密裏に作動し、忘れやすく、変化することに対して抵抗します。なぜかと「自己」というものにしがみつくからです。切り離された自己という幻想です。

なぜなら自分を変えるということは自分が溶けてなくなるということだからです。末那識というのはこの特徴から分かるように、無知のベールのようなものです。

もし、私たちの中のマインドフルネスの種に水やりされないと、忘れたまま生きることになります。顕在意識の中に光がなくて、末那識を照らしてもくれません。そのためマインドルネスの光がないので、見ることができません。

私たちの信念は、人生を通して形づくられて発展していきます。例えば「誰も私の側にはいてくれないんだ」というような。「誰も私を見てくれない」「私を愛してくれる人なんて誰もいない」「私は一人きりだ」「私は不十分だ」「私はいつも間違っている。何をしたって間違っている。」これらはみんな末那識の特徴です。

末那識は自分を守るという目的のために、誤った信念を作り出すのです。安全策ですが、誤った信念です。そしてそれらの誤った信念の結果、誤った認識に陥ります。私たちが苦しむのは、自分自身に対してや他の人に対して、そして人生に対して誤った認識を持つからです。

それが私たちの苦しみの根っこです。それは誤った認識です。でも、その誤った信念はその基礎となっている考えと、言葉と行動があります。それによって、自己破壊をしているのです。

私たちはプラクティスできる言葉を思いつきました。異なる声、私たちの中のインナーチャイルドを囚われの身にしている力、癒すことを妨げているもの、最終的には自己破壊をもたらすものを認識するのです。

ある末那識を描写したイメージがあって、それみたら楽しんでもらえるかと思うのですが、それは蛇が蚊に刺されているイメージです。蛇はとても苦しみます。なぜなら蚊は蛇の身体を離れたいと思わないからです。蛇を刺し続けます。蛇はとても苦しんでいましたら、とてもいい考えを思い浮かびました。道路に出て、横たわって、車が蛇の身体の上を轢いていくまで待とうという考えでした。そうすれば、蚊を殺すことができて、蚊に刺されないで生きることができるからです。それは真実ではありません。もし車が来て蚊が死ねば、蛇もまた殺されてしまうからです。

末那識が考えることは、頻繁に考えるのは理由があって、もしお香を燃やしたら火は線香の先がありますが、すごい速度で線香をぐるぐる回したら、光の輪を見ます。末那識が考え続けるのは、それなりの働きがあるからです。それは光の輪があるのだという幻想を作り出すことです。それが自分というのは他の人から切り離されて存在するという考えです。だから、蚊の健康と蛇の健康というのは分けて考えることができないのです。

もう少し敵意(ill-will 仏教用語で五蓋の瞋。仏教が教える煩悩のひとつ。瞋恚(しんに)ともいう。怒り恨みと訳され、我(自分)に背くことがあれば必ず怒るような心、害意、敵愾心、「自分がないがしろにされた」という思い。憎しみ。嫌うこと、いかること。心にかなわない対象に対する憎悪。~Wikipediaより~)についてお話したいと思います。敵意というものは、末那識が行動になったものです。力、傷ついた私たちの中の子どもを牢屋に閉じ込め続けるとても強い力です。私はインナーチャイルドが眠っているイメージを持っています。深い洞窟の奥で眠っています。私たちの意識の奥深くの隅っこです。

そして、その洞窟の入口の扉は警備員がいます。それが敵意です。それが洞窟の中にはいるのを邪魔します。それはまるでインナーチャイルドがその警備員である敵意に誘拐されたようなものです。

だから、この状況を理解してどうしたらいいのかを知ることがとても大切です。私たちの心の中に長年連れている傷ついた子どもに辿り着くために。「誰も私を愛さない」「私のやることはみんな間違っている」というような信念は、末那識が自分を守るという名の元に作り出した信念です。敵意は私たちの人生を動かし、強いエネルギーと力を呼び起こします。それが私たちの人生の方向を決めてしまいます。その信念によって私たちは人生の決断をしてしまいます。

例えば、私がリトリートに来た時、私の頭の中の声がリトリートの最初の日にたくさんの知らない人々の間にいる時に語りかけてきます。私の頭の中の声は「ここは安全ではない。ここは沈黙しているから。」サイレント・リトリートで、それは子供時代のことを思いださせるから。私の家で子どもの時、沈黙が意味していることは罰だった。つながりがないということ。話さないこと。沈黙扱い。だから、最初の瞑想リトリートでの沈黙の経験は、自分の内側の小さな女の子の古い記憶の怖れの引き金となってしまう。このような時に敵意が働きます。敵意は「ここは安全じゃない」と言います。「行って、荷物をまとめて、去ろう」そして、最初の夜が終わった後、オリエンテーションが終わってから、自分の部屋に行って、スーツケースの中に荷物を詰めて、静かにリトリートを去って、車で自宅に帰るのです。

このようなことが人生ではしばしば起こります。敵意は、とても強力なエネルギーを持っていて、それはいつも私の頭の中の声と物語の形で現れてきます。そして私たちに急に何かをさせたり、決めさせたりします。まるで、それをしないと死んでしまうかのように。

そしてその結果としてその敵意の声を聴くと、苦しみの道を歩くのです。自分に苦しみを起こして、自分の周りの人々も知らず知らずのうちに苦しめます。

なので、マインドフルネスのプラクティスはいつも集中と共にあります。そして洞察と一緒です。洞察とはその敵意が私の人生を動かしている、と気づくことです。

私たちには洞察が必要です。私たちはマインドフルネスのプラクティスについての新しい理解が必要です。自分の状況に光を投げかけて自分の中の奥深くの暗い洞窟の牢屋に長年閉じ込められている子どもが、癒されていく道を続けるためにはどうしたらいいのかを知るために。

今ある図をみなさんと共有したいと思います。それはとてもシンプルな図で、みなさんの多くが知っていると思います。それは八正道です。八正道は、幸せの道です。心と身体の健康の道を歩んでいきたいと思っていますし、幸せの道を歩みたいと思っています。

愛する人それから周りの人々の手を取ってその道を歩んでいきます。八正道は正見から始まります。それが正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、そして正見に戻ります。これは循環なのです。プラクティスをすればするほど、より多くのマインドフルネス集中力、洞察を得るでしょう。洞察、私たちの正しい見方。新しい理解。

だから、自分の安全策としてかつては子供として、そして今は大人として信念を抱えています。それらの信念を今も持っていて、でも、それらの信念は誤った信念なのです。それらは本当の信念ではありません。誤った信念です。子どもだった時にその信念はあなたを助けてくれたかもしれません。自分の声をあげることができなくて、無力でした。混乱して、怖れていて、ものを言えませんでした。

私たちは安全だと感じる必要があります。でも、今は大人です。それらの信念は私たちに苦しみの道を歩ませています。なぜなら、それによって誤った認識をもっているからです。現実をそのまま見ることができないのです。愛や安全、美しさ染み渡らせることができなくなってしまいます。愛や安全や美しさはそこにあって、私たちを待っているにも関わらず、です。でも、私たちは愛や温かさや信頼や平和、喜びを受け取ることができないのです。なぜなら、自分のものの見方となったその信念に貼りついているからです。

一旦その信念が自分の信条となると、その自分が抱えている見方が、八正道のプラクティスをしても、暗闇の中を生き続けています。それは私たちの中にいる傷ついた子どもがいまだに私たちの心と意識の洞窟の中に閉じ込められているからです。

八正道のプラクティスは、そのことに気がつかなければ本当に始めることはできません。その信念のシステムにより正しい見方が阻害されていることに気がつかなければ、今までの見方を壊して新しい洞察がやってくることはできないのです。
(翻訳・書き起こし:Kumiko Jin)

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ティク・ナット・ハン「マインドフルネスの教え」
HP: https://www.tnhjapan.org/
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