2004年1月14日ティク・ナット・ハン師法話 Surrender Yourself to the Present Moment(この瞬間に身を委ねる)

2004年1月14日、レイニーリトリートの中でディアパーク僧院で語られたタイ(ティック・ナット・ハン師)の法話です。

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先週私たちは「I have arrived, I am home(私は着いた、本当の我が家に)in the here and in the now (今この瞬間に) I am solid, I am free. (私は揺るぎなく、自由) in the ultimate I dwell(究極の次元の住処で)」というガーターを学びました。座っている時、歩いている時、横になっている時、立っている時にこのプラクティスをすることができます。1日の終わりにはあなたはベッドに入って横になります。そしてこの「I have arrived. I am home.」のプラクティスができます。

眠っていて夢を見ながらも走ることをやめることができない人もいます。なぜなら動き続けることが癖になってしまっているからです。昼も夜も走り続けているのです。だから「I have arrive. I am home」とプラクティスをすることがとても大切なのです。もうこれ以上走ることを止めて、横になって本当に休むために。自分の呼吸の音楽を聴いて、心臓の音楽を聴いて、肺の音楽を聴いて、その音を楽しむことができます。その中で感情が出てきても、ただ呼吸の音楽を聴きその感情を抱きしめまた平和に休むことができます。そのようにこの「I have arrived. I am home.」のガーターは「座る」「立つ」「歩く」「横になる」の4つの姿勢で活用することができます。

これは「立ち止まる」プラクティスなのです。それは仏教の伝統において非常に重要なプラクティスです。何もしないでそこにただ座っていたり、横になっていても、私たちの身体が本当に止まっているとは言えません。身体の中に緊張があります。私たちを前に押し出し、身体を動かし、走らせ何かをさせようとするエネルギーがあります。だから止まるということは単に頭や心を止めるというだけでなく、身体を止めるということでもあります。身体にもまた走り続ける習性がありますから。身体の中には「休めていない」感覚が残っています。

心と身体は相互に関係しています。身体は心や頭を含み、心や頭は身体を含んでいます。お互いがお互いを含んでいる。だから思考を止めようと思ったら身体を止める必要がありますし、身体を止めようと思ったら頭を止める必要があります。どちらかだけということはないのです。身体が止まれば思考を止めることを助けてくれます。だから、瞑想では身体を使うのです。

止まることを仏教では「Samataシャマタ」パーリ語で「サマタ」と言います。その最初の意味は「止まる」ということです。止まることができなければ様々なことをすることはできません。ディアパークに来てみなさんは止まるプラクティスを楽しむことができます。座っている時、歩いている時、走っている時でさえ「止まる」プラクティスができます。走りながらもすでに止まっているということは可能なのです。何かを追われてやるのではなく、何かの目的のためでなく、自分が平和で穏やかでそこにいることができたら「シャマタ」はそこにあります。

簡単なように聞こえるかもしれません。でも、トレーニングが必要です。なぜなら私たちの身体と思考の中の走る習慣はとても強固なものだからです。走る習慣の習慣のエネルギー(習気)は私たちの両親から引き継がれたものでもあります。両親は生涯を通じて走り続けていたかもしれません。そしてその習慣はまた祖父母や祖先から引き継がれたものであるかもしれません。だからその習慣のエネルギーはとても強いものなのです。

でも私たちはブッダの教えと出会うことができました。ブッダは「子どもたちよ、止まりなさい」と教えてくれています。そしてその習慣のエネルギーを変容させる機会を得ることができました。そしてもしその変容に成功することができれば、私たちの中にいる祖先たちもまた立ち止まることができるのです。「I have arrived. I am home.」それが意味していることはもうこれ以上走り続けなくていいということです。私が探し求めているものは、今ここのこの瞬間に他ならない、と気づくことです。その智慧によって自分の内側が本当の意味で止まることができるのです。

その智慧はどこからくるか、それは「vipasyanaヴィパッシャナー」です。ヴィパッシャナーとは智慧を得るため深く内側を見つめることです。中国語では「観」と書きます。サマタとヴィパッシャナーは二つの翼です。その翼によって運ばれると智慧を得て本当に止まることができます。智慧を得た時、あなたは自分がなりたいものにすでになっているのです。それはブッダです。そして自分がそれ以上走る必要がないことに気づきます。智慧がなければ本当に止まることはできません。サマタはヴィパッシャナーなしには成り立たないのです。そしてヴィパッシャナーがなければサマタもありません。鳥が片方の羽で飛んでいるところを想像してみてください。非常に難しいですよね。

サマタの一つ目の意味は「走ることを止める」ということです。私たちがこのようなリトリートにいる時には止まるということを学ぶ非常に良い機会です。あなたはどこか負傷しているかもしれません。癌しれません。魂が傷ついているかもしれません。絶望しているかもしれません。怒りがあり、感情的に傷ついているかもしれません。身体と意識に痛みを抱えてここにきている人もいるでしょう。

癒しは可能です。私たちが止まることができた時に。止まることができなければ癒すということもできません。サマタのプラクティスがあなたを癒すということを助けてくれるのです。息を吸った時、癒しとなる呼吸ができます。息を吸うことは戦うことではありません。吸う息はたどり着いたということであり、どこにもいく必要がなりということです。それを本当に実践できたときにそこには癒しが起こります。その吸う息はすべての緊張をほどき、身体と心がほぐれることを許します。ブッダが言っていたように息を吸って身体がゆるむのです。そして自分の感情もゆるめることができます。

「息を吸って自分の身体をゆるめる」その時あなたが止まっていなければ身体がゆるむことはできません。あなたの吸う息には「止まる」という力があるのです。そしてその時喜びを感じることができます。それは戦いではなく、喜びです。その時、一つ一つの吸う息に癒しの力が宿ります。吸う息で止まることができた時、身体がゆるんだ時、あなたは戦う必要がないことが分かり、そこに癒しが起こります。それを感じた時、それを信じることができます。吸う息への信頼です。ブッダや神への信仰は必要ありません。吸う息への信頼があればいいのです。なぜならあなた自身が呼吸によって自分の身体がリラックスできるかどうかを感じることができるからです。吸う息が立ち止まり、こわばりから自由になることを助けてくれます。自分の吸う息に深くふれることができれば、自分の吸う息の中に癒しの力があることを感じることができるでしょう。

マインドフルであったらあなたの一歩一歩が止まることを助け、今この瞬間に立ち止まることができ一歩一歩が癒しとなります。(フランスプラムビレッジの)アッパーハムレットからロウアーハムレットまでの道が一歩一歩癒しとなります。なぜそれをしないでしょう。一歩一歩が癒しとなったら、歩みは「戦い」ではなくなります。あなたの一歩一歩に身を任せるのです。それは今この瞬間への完全な降伏です。自分自身を癒しに明け渡します。自分の意識の力ではなく、自分の中に自然の力に明け渡します。自然には癒しの力がありますから。

あなたが野菜を切っている時にマインドフルではないために指を切ったとします。でも、パニックになる必要はありません。水で洗い流して、自分の身体の中に自分を癒す力があることを信頼すればいいのです。あなたがすべきことはただ、自分の身体に自分を癒す機会を与えてあげることです。動物が傷ついた時には、ただ止まり休み、静かに横になります。他の動物を追いかけたり何かをすることをやめてただ休みます。自分の身体の癒しの力をただ信頼するのです。私たち人間もかつては自分の身体の中の癒しの力への信頼を持っていました。しかし、その力への信頼を失ってしまいました。医者に診てもらって、薬を取り入れて、何とかしなくてはとパニックになってしまいます。そして本当の意味で休むということができなくなってしまったのです。

人間は休むという力を失ってしまいました。休むことができなければ自分自身を癒すことはできません。休むことができないのは恐れがあって「何かしなければ」と思うからです。ただ休み、自然が自分の中で働くことをゆるせばいいのです。「時間がない」と不満を述べている人が多くいます。でも、2・3週間休みをもらうと実際にはどうしていいか分からずどこかへ出かけ、帰って来た時には休みの前よりも疲れてしまっていることもあります。休むということができないのです。

だから「休む」ことを学ぶことはとても大事なのです。ブッダはどのように私たちの身体と心を休めたらいいか教えてくれています。「息を吸って、身体をゆるめる」と自分に語りかけます。座っていても横になっていてもマインドフルな呼吸はあなたが本当に休むことを助けてくれます。

プラムビレッジでは「深いくつろぎの瞑想」のプラクティスを行います。それは仏教の教えの中にあるものでもあります。座りながら横になりながら自分の身体が完全にリラックスすることをゆるし、マインドフルな呼吸をすることで休むことを可能にします。まず、自分の身体を1つの有機体として考える必要があります。「息を吸って、自分の身体に気づく」と気づくことによって自分の身体がそこにあることに気づきます。

日常の中では、自分自身の身体を無視して、苦しめて、自分が自分の身体の敵のような存在になってしまっていることもあります。このプラクティスよって身体に気づいて友人になります。

「今まで長い間無視してごめんね。今からあなたと一緒にいるからね。」ということです。自分の身体に微笑み和解します。マインドフルネスで今ここにいて自分の身体を認識することが最初のステップです。自分の感情を抱きしめたいと思ったら、自分自身の身体に優しくする方法をまず学ぶ必要があります。「帰って来たよ。ここにあなたのためにいるよ。」と身体に語りかけるのです。マインドフルネスのエネルギーをつかって今この瞬間に留まり優しく抱きしめます。

それは「愛する」ということでもあります。「愛しい人よ。ただいま。あなたのケアをしたいと思っているよ。」ということです。もう一つのエクササイズは「息を吸って、身体をリラックス」です。息を吸う時、自分の身体を認識し、息を吐く時、自分自身の身体に微笑みかけます。微笑みかけるということは愛と関心と慈悲があるということです。

経典の中に身体に関する話が出てくるものがありますが、そこではある農夫が建物の中でいくつかのシートがどんな材料からできているのかを一つ一つ見わけていきます。マインドフルネスのプラクティショナーも自分の身体に対して同じようなことをします。横になった時に、自分の髪、自分の鼻、自分の目に気がついて、微笑みかけます。「息を吸って自分の脳に気づく、息を吐いて自分の脳に微笑む」というように呼吸をして、頭のてっぺんから足先まで一つ一つ意識を向けます。それはX線のようなものですが、マインドフルネスのX線です。20分ぐらいでできます。自分の心臓に気づいて微笑みかけます。それはなんてやさしいことでしょう。もしかしたら人生で初めて心臓に気づくかもしれません。心臓はあなたを生かすために日々働いてくれています。あなたは夜は眠りますが、心臓には休む時間はありません。24時間あなたのために働き続けています。それなのに、心臓に対してあなたはあまり親切にしてこなかったのではないでしょうか。タバコを吸ったり、お酒を飲んだり、心臓に負担をかけるようなことをたくさんして、心臓は苦しい思いをしてきました。それは心臓に対して優しくありません。今心臓に意識を向けて「あなたに気づきました。今帰って来たよ。長い間あなたを大事にしてこなくてごめんね。これからはあなたをケアするよ。」と語りかける時です。これが愛の瞑想です。

そのようにして自分の心臓としばらく一緒にいることができれば、心臓がいやされます。そして肝臓に気づき。肝臓を抱きしめます。肝臓に気づき呼吸をして微笑み、慈悲を向けます。お酒や脂肪などの毒を分解してくれてます。SOSを肝臓が送っても完全に無視してきました。今は気づくチャンスを得て、気づいて呼吸をすることができます。息を吸って自分の肝臓に気づき、息を吐いて肝臓に微笑む。もし何か問題があれば長く一緒にいてください。長くいることを肝臓は必要としているのです。一緒にいることによってそこに癒しが訪れます。肝臓のために、何をしたらいいか、何をしない方がいいか分かるでしょう。どのように自分をケアするかということをしらなかったら、どのように愛するか、ということを知らなかったら、どうやって他の誰かを愛することができるでしょうか?

ブッダが教えてくれたことは、まず自分の身体を全体として認識すること、2つ目は自分の身体のそれぞれの部分を見つめることです。横になってマインドフルネスを使って自分の身体をゆっくり部分部分に分けて見つめます。癒しを必要としているところとは長く滞在します。そのことによって癒しが起こります。そうすれば多くの薬は必要なくなります。少しだけの薬で十分になるのです。

そしてこのプラクティスは困難な重労働ではありません。楽しむことができるプラクティスなのです。横になって、座って、深いくつろぎの瞑想をして、呼吸に気づき、自分の身体の部分を認識して抱きしめることは喜びです。それができた時に癒しが起こります。そしたら自分の子どもやパートナーや友人にも同じように助けることができます。

その時間が必要です。お金や車なのか、それとも健康な身体なのか。あなたは選ぶ必要があります。消費は減るかもしれません。でも、幸せは増すのです。お金や名声を得るために多くの時間を費やさないでください。あなたの時間を生きて、愛して、自分をケアするために使ってください。そして愛する人との時間のために。ブッダの教えはとても実践的なものです。マインドフルの呼吸は実際に多くの癒しと変容をもたらしてくれます。

そのように朝ご飯を食べることができたら、朝ご飯を食べることも癒しになります。朝ご飯を食べることは単にカロリーとエネルギーを得ることではありません。食べるは喜びと幸せを得るプラクティスであると同時に立ち止まるプラクティスもできます。15分か20分、あるいは25分時間を取って朝ご飯を食べる時、それがトータルリラクゼーションともなります。何も考えずに、何の心配もせずに、忙しくなく、完全に自由な人間として食べることができれば、朝ご飯が癒しの時間になります。一日のどんな時間も癒しの時間となります。歩くこと、座ること、お皿を洗うこと、それが完全な休む時間となります。あなたはそれが可能ですし、ブッダはそのやりかたを教えてくれました。そしてブッダはそれを実践していました。

ここにいて一歩一歩に気づいて止まることができれば、そこには癒しがあります。1日のプラクティスで大きく変わりますし、そのプラクティスを帰ってからも続けることができます。

ディアパークにいる動物たちや木々を見てみてください。彼らはとてもリラックスしているように見えますね。きっと私たちが静かに休めるように静かにしてくれているんでしょうね。

「止まる」ということは「本当にここにいる」ということです。走ることをやめるということ。この瞬間にここにいるということ。誰のために?それは自分のためです。自分の身体と感情、自分の苦しみのためにここにいてケアをするということ。もし、あなた自身があなたのためにそこにいなかったら、誰がそこにいてくれるのでしょう?

だから自分自身に帰ってきてください。そして自分自身のケアをしてください。自分の感情や思いなど自分自身の中にあるもののケアをです。サマタというのは走り続けることを止めること。自分自身が本当にこの瞬間にいるために。身体と心の全体でこの瞬間にいるということ。マインドフルネスのエネルギーはそれを助けてくれます。マインドフルネスのエネルギーはマインドフルな呼吸と歩みによって育むことができます。マインドフルな皿洗いによっても。

本当にこの瞬間に存在できるということは、本当にこの瞬間に生きていられるということです。本当にこの瞬間に生きていなかったら、愛する人のそばにも本当の意味でいることはできません。自分自身に帰ってきて、本当に存在するということは、あなた自身のためにもなりますし、あなたが愛する人のためでもあります。そして命の不思議にふれることができます。命の不思議はこの瞬間にしかありません。神の国もブッダの国もこの瞬間にしかありません。このようにサマタのプラクティスはヴィッパシャナーのプラクティスとつながっています。

サマタのもう一つの働きは「認識する」ということです。何を認識するというのでしょうか?この瞬間に起こっていることです。日常の中では私たちはよく迷子になります。心配や不安やコンプレックスの中で迷子となり、この瞬間があることが見えません。あなたは今も生きていてこの瞬間に命の不思議がそこにあるのです。この瞬間に素晴らしいことが起こっていることを認識することができません。マインドフルネスのエネルギーはまさに、私たちに今この瞬間に起こっていることに気づかせてくれるのです。息を吸って、あなたは今も生きている。それは素晴らしいこと。そこにいるけれども死んでいるかのように人生を送っている人もいます。恐れや後悔に囚われて生きているのは、毎日死体を運んでいるようなものです。命というものに出会うことができません。浄土に出会うことはありません。50年や60年そうやって生きていたらその人は本当に生きることができません。マインドフルネスのエネルギーをそういった人に伝えることができたら、あなたはその人を「今この瞬間」へと救うことができます。そして命と出会うことができます。あなたはその人を助けることができるのです。それはブッダになるということです。一日に何人も助けられます。

サマタは私たちに今この瞬間を認識することを助けてくれます。あなたは生きてて、笑うことができて、慈悲の瞳で見つめることができて、他の人が再び生き生きとすることを手助けすることができます。それは素晴らしいことです。ブッダやジーザスのように人を助けることができます。家に帰った時に素晴らしい命にふれることができます。

青空はいつもあなたのためにそこにあります。あなたの心配事のために、それが見えなくなってしまいます。青空はあなたのためにそこにいます。本当に家に帰って、この瞬間に帰ってくることができれば、そこに青空があることに気づくことができます。だから認識するということは命の不思議に触れることに助けてくれる。

そして私たちの周りには私たちを癒してくれるものが多くあることに気がつきます。鳥の声を聴いて、小川のせせらぎを聞いて、風の音を聞いて、木々や青空に思いを馳せた時に、それはあなたを爽やかな気持ちにさせてくれますし、あなたを癒してくれます。だからそれに気づくことができれば、癒されるのです。それをしなければ、毒が自分の身体の中にたまっていきます。忘却によってネガティブな思考をためて、怒りや絶望や恐れを膨らませていけば、癒されることはありません。私たちの日常の中ではプラクティスをしていないと、簡単に毒性のあるものが私たちの身体の中に入ってきてしまいます。子どもたちの中にも簡単に毒が入っていってしまいます。だから自分の家に帰って、癒され、滋養を育むということがとても大切なのです。命の庭にそれはあります。エデンの園はそこにあります。

認識するため、ふれるため、滋養を得るため、癒すため、立ち止まるのです。「なんのためにプラクティスをするのですか?」と聞かれたら私は「止まるためです」と言います。それは十分な理由です。止まることができれば、認識することができて、命のすばらしさにふれることができて、滋養を育むことができて、癒しを得ることができます。だからサマタはとても大切なプラクティスなのです。もう一度言いたいと思います。私たちにとって一瞬一瞬を癒しとして生きるということは可能です。歩くときには歩みの中に癒しがあることを確かめてください。リラックスできる歩みです。息を吸う時には、吸う息の中に止まる力、癒しの力があることを確かめてください。これがブッダの声です。あなたに直接向けられた、あなた自身からの声です。何か外側からの声ではありません。

(翻訳・書き起こし:Kumiko Jin)
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ティク・ナット・ハン「マインドフルネスの教え」
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