2004年3月25日ティク・ナット・ハン師法話「ネガティブな習慣の悪循環を終わらせる」

ティック・ナット・ハン師による法話 2004年3月25日 ディアパーク僧院
ベトナム戦争の際のタイや焼身により平和を訴えたタイの友人であるティック・クアン・ドゥク師の話、キング牧師との話や国外追放になって最初の2年間の苦しみなど、タイにとって大切なお話が詰まった貴重な法話です。「I have arrive. I am home. 私はたどり着いた。本当の我が家に。」の理解も深まります。
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観音菩薩というのはとても深く聞くことができる存在の名前です。理解する方法を知っています。深く聞くことによって、人々に多くの安らぎをもたらします。それは慈悲深く聴くプラクティスと呼ばれています。観音菩薩はベトナム語ではNam mo ba tat quan the amと言います。中国語ではGuanyinです。

私たちの心の慈悲によって、私たちは他の人の声を聴くことができます。相手が多くの苦しみを抱えていたとしても、誤った認識や怒りを抱えていたとしてもその人の声を聴くことができます。そうすることによってその人の苦しみは少なくなり、安らぎます。

観音菩薩は私たちの外にいる誰かではありません。私たち一人一人が慈悲と理解の種を持っています。そして自分の中の理解と慈悲の種に水やりすることができれば、慈悲と理解のエネルギーが外に現れます。そうすると私たちも慈悲と理解を持ちながら聴くことができます。

だからチャンティング(お経を唱えている)の間は、マインドフルネスの集合的なエネルギーが湧き上がり、私たちを助けてくれます。私たちの中野慈悲と理解の種に水やりをしてくれます。そして観音菩薩は現われてくるでしょう。私たちの中から。

ですからどうぞチャンティングを楽しんでください。自分の吸う息と吐く息に注意を向けてください。身体がリラックスするのに任せてください。サンガのエネルギーが染み込んでいくことを感じてください。自由に私たちの身体と心に入っていきます。私たちを満たして癒していきます。サンガの集合的な慈悲のエネルギーがあるからです。

菩薩には癒しの力があります。私たちは何もする必要がありません。ただチャンティングを通してエネルギーが自分に染みていくのに任せてください。自分の身体がただゆるんでいくのに任せてください。自分の意識はチャンティングただ向けます。

(チャンティング)

親愛なる皆さん。私たちは鐘の音を聴いたとき、鐘の音を深く聴くプラクティスをします。たいては誰かが鐘を招いたときです。私たちは「鐘を叩く」とは言いません「招く」と言います。鐘の音がするように。まず鐘を半鐘で目覚めさせます。でも、それをする前にマインドフルな呼吸のプラクティスが必要です。

ベルマスターのための詩もあります。息を吸って、息を吐いて、その人が鐘のためにそこにいることができるように。ベルマスターとして相応しくなるように。ただ棒を手にして音を出すだけではないのです。あなた自身の準備を整える必要があります。その棒をお借りしていいですか?

このように棒を手にして、マインドフルな呼吸のプラクティスをします。何度か呼吸して心を穏やかにします。真のベルマスターとなるために。

そしてこのような詩を唱えます。「身体と言葉と意識が完全に一つとなる。鐘の音と共に自分の心を送ります。これを聴いている人が失念から目覚めることができますように。不安と悲しみを超えていくことができますように。」これは四行の詩です。あなたが真のベルマスターとなるための。

「身体と言葉と意識が完全に一つとなる。鐘の音と共に自分の心を送ります。これを聴いている人が失念から目覚めることができますように。不安と悲しみを超えていくことができますように。」するとあなたは穏やかな気持ちになって、完全に気づいた状態でそこにいることができます。そうしたらあなたは鐘を招くことができます。

鐘を招きます。最初は半鐘を届けて、コミュニティ全体が気づけるようにします。実際の鐘の音全体を聴くことができるように。すべての人が思考やおしゃべりをやめます。鐘の音を受け取る準備をします。鐘の音はブッダの声です。あなたを本当の我が家に呼び戻してくれます。

プラクティスセンターの中では鐘の音は内からのブッダの声です。あなたを本当の我が家に呼び戻します。だからベルマスターは半鐘を鳴らし、準備できるようにします。ブッダの声のすべての音を受け取ることができるようにします。あなたは話していることを止めて数秒の間話していることを終わりにして、思考を止めます。話していることだけでなく、考えていることも止めます。

我が家に帰るのです。自分自身の呼吸を通して。そして呼吸を楽しみ鐘の音に備えます。鐘の音は自分の内からのブッダの声で、あなたを本当の我が家へと呼び戻してくれます。ベルマスターはあなたに少なくとも一つ息を吸って息を吐く時間をくれます。そうして鐘を招きます。そしてすべての音がコミュニティに届けられます。全員が鐘の音を楽しみます。息を吸って吐くことを少なくとも三回します。

息を吸った時に言います「私は聴いている。私は聴いている。」そして息を吐いて「この素晴らしい音は私を本当の我が家に連れ戻してくれる」と言います。「私は聴いている。私は聴いている。この素晴らしい音は私を本当の我が家に連れ戻してくれる。」

思考はありません。ただ聞くのです。鐘の音を深く聴きます。今ここという我が家にあなたを連れ戻してくれます。話をしていた人は話を止めて次に何を話そうか考えることを止めます。そして吸う息と吐く息を深く楽しみます。本当の我が家にいることを楽しみます。それが生きるダルマです。あなたの本当の我が家にいるということです。

話を聴いていた人も話を聴くのを止めて、そして自分の吸う息と吐く息を楽しみます。それは癒しとなります。

フランスのプラムヴィレッジでは、そのセンターの鐘の音を楽しむだけでなく、近くの教会の鐘が鳴った時にも、私たちは立ち止まり鐘の音を楽しみます。教会の鐘の音だけでなく、時計が音楽を奏でた時にも、15分に1回ごとに私たちは立ち止まって考えと会話を止めて入る息と出る息を楽しみます。それが例え、ダイニングホールやキッチンにいても同じことをします。時計や時計の音でも。

それは私たちを本当の我が家に戻す助けをしてくれる気づきの鐘です。我が家を楽しむためのものです。また、電話が鳴った時にも、プラクティスをします。電話へと走ることはせずに、どこにいても一度そこで止まります。電話の音もブッダの声です。あなたを本当の我が家に戻してくれます。どこにいてもそこに留まり、入る息に帰ります。

「聴いています。聴いています。この素晴らしい音が私を連れ戻してくれる。」そして2回ほどそのようにプラクティスをしてから、電話に向かって歩く瞑想をします。そして電話に出て返事をします。

もしくはあなたの方が、電話をかけていたら、まず電話をかける前に準備をします。自分という我が家に帰るプラクティスをします。それがプラクティスできる詩もあります。「詩や言葉ははるか遠くに旅をする。私の言葉から互いの理解と愛が生まれるように。宝石のように輝く言葉。花のように愛らしく咲く言葉。」そしてあなたの電話をかけるための準備は整いました。

そして電話の向こうで音が鳴っているのを聴きます。あなたは相手が電話の向こうで相手が息を吸って息を吐いてその音を聴いていることを知っています。相手と共に呼吸する機会だと気がつきます。だから二人ともが同時にマインドフルに呼吸をしているのです。それはとても美しいプラクティスです。私たちはそれを電話の瞑想と呼んでいます。

プラムヴィレッジでやディアパークではコンピューターには15分に音が鳴るようにプログラムされていて気づきの鐘が鳴るようになっています。作業を止めて我が家に帰れるように。そして吸う息と吐く息を楽しみます。

だからプラムヴィレッジやディアパークに電話した時に最初のベルの音ですぐに電話に出ると思わないでください。息を吸って、吐いていますから(笑)

「聴いている、聴いている。この素晴らしい鐘の音が私を本当の我が家へと連れ戻す。」深く吸う息と吐く息を三回楽しみます。今夜のベルマスターはニュージーランドから来た僧侶です。気づきの鐘と、入ってくる息、出ていく息を三回楽しんでください。(鐘3回)

違った詩を使いたかったらこのような詩も使うことができます。「私は辿り着いた。本当の我が家に。私は着いた。私の家に。」もしくはこういうのが良いかもしれません「私は聴く。深く聴く。この素晴らしい音は私を本当の我が家に連れ戻してくれる。」

もしくは「息を吸って、穏やかさを感じてリラックスする。息を吐いて、微笑む。穏やかになり、微笑む。息を吸って、この瞬間に自分を築き上げる。息を吐いて、これが素晴らしい瞬間だと気がつく。穏やか、微笑み。今この時、素晴らしいこの時。」

息を吸って、この瞬間という我が家に帰って来た時、あなたは完全に生きて存在することができます。あなたは今ここにある命にふれることができます。あなたは自分が生きていると感じます。自分が生きているという奇跡に出会います。生きているということが一番の奇跡なのです。一つの吸う息でその奇跡にふれることができます。だからあなたは言うことができるのです。「今この時、素晴らしいこの時」と。

友人があなたに「ねえ、人生で一番良い時はもう来た?」と尋ねたとします。その人は人生で最良の時があなたに訪れたのかどうか知りたいのです。最良の時がまったくなかったら残念なので「うーん、どうやらそのような素晴らしい瞬間はまだ来ていないようだけれど、でも、近い未来にやってくると確信しているよ。」我々はそのように答える傾向があります。

でもこれからも、過去20年と同じように生きていたら、それはこの先20年間もやってくることはありません。私たちが思う人生最良の瞬間はずっと来ないかもしれません。そして多くの人にとってその瞬間は、まったく訪れないのです。死ぬまで。

ブッダは「この瞬間を人生最良の瞬間にしなさい」と言いました。それは可能なのです。

なぜならもしあなたが、今この瞬間という我が家に帰ることができれば、完全に生きることができて、完全に存在することができます。自分と自分の周りにある命の不思議と出会うことができます。あなたにあるすべては不思議です。あなたの眼、耳、鼻、あなたの身体と心。

マインドフルでない時には、深く出会うことができないので、それが不思議だとは思いません。死ぬ時になって自分はまったく生きてなかったと後悔します。だから本当の我が家を今ここで見つけなくてはいけないのです。今ここで出会うことができます。

私の本当の我が家は場所や時間によって限定されていません。私の本当の我が家はベトナムではありません。アメリカでも、アフリカでも、パレスチナでも、イスラエルでもありません。

ベトナム政府は私をベトナムに入れてくれませんが、それでも今ここに本当の我が家はあります。

そして彼らはベトナムにいても我が家はありません。だから私は自分が犠牲者であるとは思いません。だから彼らは私の敵ではありません。彼らこそが怖れの犠牲者なのです。彼らは私がもしベトナムの家に戻れば、私が連帯や友情、兄弟愛の雰囲気を作り出すだろうと考えています。それは彼らの権力にとって脅威なのです。それは恐怖です。それが邪魔になっています。

私は彼らを怖れから自由にしたいと思っています。彼らは的でなく助けたい相手なのです。彼らは私の慈悲と理解のプラクティスの対象です。私には敵はいません。

ベトナム戦争の時、声をあげるということは非常に困難でした。私たちのほとんどは戦争を望んでいませんでした。

戦争は兄弟に兄弟を殺させていました。外国からの武器を使って、外国から来た思想によって殺すのです。共産主義と反共産主義は輸入されたものです。そして武器も輸入されたものでした。共産主義者が使う武器は輸入され、反共産主義者が使う武器も輸入されました。彼らは私たちに銃と思想を与えてそしてお互いを殺し合うように駆り立てました。

私たちは「兄弟を撃ってはいけない」という運動を始めました。私たちの声は争っているグループの両方から黙殺されました。私たちは声をあげようとしました。戦争を望んでいないことを言葉にしようとしました。外国製の武器で外国から来た思想のために、お互いを殺したくありませんでした。

でも私たちはそうするように強制されていました。マインドフルネスのプラクティスをしていた私たちは、理解と慈悲のプラクティスをしていましたから戦争を受け入れたくありませんでした。私たちが望んでいたのは和解です。

でも、我々の声は聴いてもらえませんでした。時にはメッセージを伝えるために、生きたまま自分を燃やさなくてはなりませんでした。ティック・クァン・ドゥック。私の友人です。ある日彼は自分に火をつけました。そして彼の写真は国際的な報道に取り上げられました。私はその時ニューヨークにいて、ニューヨークタイムスの一面でその写真を見ました。彼は私の友人でした。

ニャット・チィ・マイ。最初のOIメンバーの6人のうちの1人で、私の弟子です。彼女は和解を求めて自分自身に火をつけました。

彼女は朝非常に早い時間にトゥニェム寺院に行きました。早朝の2時か3時で、彼女は聖母マリア像と、観音菩薩の像を持っていきました。彼女は手紙を残しました。彼女はいくつかの手紙を残していました。それは北ベトナムの大統領と、南ベトナムの大統領、そしてすべての人にあてた手紙で、お互いを殺すということを一緒になって止めることを求めていました。

そして彼女はガソリンを浴びて火をつけました。ニャット・チィ・マイはシスターチャンコンの非常に親しい友人でありシスターでした。私は動揺しました。彼女は私に手紙を残していました。

「先生、心配しないでください。平和はやって来ますから。苦しみすぎないでください。心配しないで。」

彼女は死のうとしていましたが、自分の師匠である私を慰めようとしていました。

私たちの問題意識を声にするのは非常に困難でした。私たち戦争を望んでいない人々は国の中で多数派であったにも関わらず。私たちは戦争を望んでいませんでした。

私の詩の本で、平和の詩が書かれたものがあります。私はそれを反戦の詩というよりも、平和の詩と呼びたいと思います。それは北ベトナムでは避難されて南ベトナムでは没収されました。

だからコーネル大学が私を招待してくれた時に、いくつかの講義をして、外に出る機会があったので、平和を呼びかけました。

そして6月1日、その年は1966年で、マルティン・ルーサーキングにシカゴで会いました。ちょうどその1年前、1965年の6月1日に私は彼に手紙を書きました。なぜ我々が自分たちを燃やしているのか説明しました。それは自殺ではなく、愛の行為なのだと。メッセージを伝えたいと思っているのに、でもほかに手段がないのだと。メッセージを伝えるためには自分を燃やすしかないのだと。メッセージを伝えるために自分をみゃした僧侶の苦しみ、愛と慈悲のメッセージは十字架の上で死んだイエス・キリストと同じなのだと。憎しみから死ぬのではなく、怒りからでもなく、慈悲によってのみ死んでいったのだと。後に残していったのは、平和と兄弟愛を求めるための慈悲深い呼びかけなのだと。

ちょうどその一年後に私はシカゴで彼に会いました。何度か話をして、その後報道陣に会うために出かけました。彼はその日、ベトナム戦争への反対を表明しました。私たちはその日、ベトナムでの平和運動とアメリカでの市民権運動を融合させました。

2年後にもう一度彼にジュネーブで会いました。世界教会協議会によって主催されたある会議があって、ライナス・ボーリングなどの人物がその会議に参加しました。彼(キング牧師)は11階に滞在していて、私は4階にいて上で一緒に朝ご飯を食べようと誘われました。

私は報道陣につかまっていて、行くのが遅くなってしまいました。彼は私のために朝ご飯を温めて、待っていてくれました。

彼に「マーティン、あなたはベトナムで菩薩と呼ばれているよ」と言いました。菩薩、光を与えてくれる存在です。他の生き物を目覚めさせてくれます。そして慈悲と理解へと導いてくれます。

それを言う機会があって嬉しく思います。彼はその数か月後にメンフィスで暗殺されてしまいましたから。

私たちはフランスにいて、事務所を持っていました。ベトナムの仏教コミュニティを代表するものです。声なき人々の代表になりたいと思っていました。声をあげる機会を与えられていない人々のために。パリの中で私たちの事務所は貧しい地区の11番目の通りにあって、その一角は住民の多くがアラブ系の人たちでした。

アメリカに行くためにビザの申請をすると、自動的に拒否されました。彼らは私をアメリカに来ないでほしいと思っていました。なぜかと言うと彼らは私が害になるかもしれないと信じていたからです。ベトナムにおける戦争のために費やしてきたことの邪魔になるかもしれないと思っていたのです。

だからアメリカに行くことが許されませんでした。イギリスに行くこともできませんでした。毎回私がアメリカツアーに生きたいと思ったら手紙を書かなければなりませんでした。例えば上院議員のマクガバン氏やロバート・ケネディ氏などのような人に招待状を送ってくれるように頼みました。

その手紙はこのようなものです。「ティック・ナット・ハン氏、ベトナム戦争の様子についてもっと知りたいので、どうか来て教えてください。もし、ビザに関して心配があるようだったら、この番号に電話をしてください。」そのような手紙があって初めてビザをもらうことができました。そうでもしなければ不可能でした。

私はある日日本からパリに戻ってくる途中、ビザを持っていませんでした。乗り継ぎのためにシアトルにいて、本当は東京から飛行機に乗ってシアトル経由でニューヨークに行って、そしてパリに戻る予定でした。ニューヨークで平和活動家の友人に会いたいと思っていました。「和解のフェローシップ」のアルフレッド・ハスラです。

そしてシアトルに着いたとき、私はその場で拘束されてしまい、誰にも会うことができませんでした。周りを見回すと「指名手配」の写真がいくつもありました。彼らは私のパスポートも取り上げてしまいました。彼らは私に許可を与えなかったので、誰にも連絡することができませんでした。彼らは飛行機が飛び立つときになってようやく、パスポートを返してくれました。

それはとても困難な状況でした。ある日私がワシントンDCにいる時に、バルティモア・サンがレポーターとして知らせてくれました。サイゴンから急ぎの知らせがあって、それによるとアメリカ政府とフランスとイングランド、イギリスと日本がディック・ナット・ハンにパスポートを与えないようにしていると。なぜなら彼の発言は彼らの特にならないことで、共産主義者との戦いの助けとならないからだそうです。

そしてベトナムでは私の本や私の書いた記事、私の詩は禁止されました。共産主義者と反共産主義者の両方によってです。私は自分がやったことのために国外追放の危機にあり、逮捕される危険性をありました。それは平和を求めることであり、戦争に反対することに声をあげたということでした。

私の意図としては単に三か月の間、コーネル大学で講義をして、ツアーをアメリカとヨーロッパでやって、ベトナムに帰るつもりでした。私は若者の社会奉仕の学校のために友人と働いていました。ヴァンハン仏教大学あ私が1964年に設立したもので、私の友人や仕事仲間はみなベトナムにいました。長い間ベトナムを離れたいとは思っていませんでした。三か月の間だけそこで過ごすつもりだったのですが、それから38年になってしまいました。故郷に38年間帰れていません。

だから私は、ヨーロッパやアメリカや他の国々の友人たちとプラクティスを分かち合い続けているのです。でも、私は自分で本当の我が家を見つけたので、苦しんでいません。

本当のことを言うと、国外追放になって最初の2年間は困難でした。とても難しかったです。

私はすでに40歳で、すでにダルマティーチャーで多くの僧や尼僧を弟子として持っていましたが、私にとっての本当の我が家を見つけることはできていませんでした。仏教や実践について良い講義をすることはできました。でも、私は、まだ辿り着いていませんでした。

知的には私は仏教をよく知っていて、訓練も受けていました。仏教組織に数年いて、16歳の時からプラクティスをしていました。若い僧だった時、仏教を新しくしようとしていました。仏教をアップデートして現実の状況の苦しみに応えられるように。

それは社会参画仏教徒呼ばれています。それは社会からの火急の質問に対して答えを届けてくれる仏教です。それは戦争についてや権利の侵害について、社会的な抑圧や貧困について、暴力についてなどの問いです。

国外追放となった最初の2年間、それは非常に難しい状況でした。私の意図は世界に情報を伝えることでした。それはそれまで人々が伝えなかったふれられなかった情報でした。戦争に関わる人たちがマスコミも握っていましたから。

講演のツアーで私はだいたい、各地で一晩か二晩で過ごしました。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどで。いつも夜に目が覚めると、自分がどこにいるのか分かりませんでした。とても困難でした。辛かったです。その後息を吸って、息を吐いて、自分がどこにいるのか考えなくてはなりませんでした。どの街にいあるの、どの国なのか。

故郷に帰っている夢を見ました。中央ベトナムの自分のルーツのお寺です。私は丘を登っていました。緑の丘です。美しい木がありました。丘の上に向かう道の半ばで目が覚めました。そして自分が国外追放されたのだと思いだすのです。同じ夢を何度も繰り返して見ました。

私はとてもアクティブで、友人を作っていました。カトリックの司祭たちや、プロテスタントの聖職たち、教授たち、若者、子どもたちなどたくさんの人たちです。私のプラクティスはマインドフルネスの実践で、今ここを生きて、私の日々にある命の不思議にふれようとしていました。そのプラクティスにより生き残ることができました。

ヨーロッパにある木々はベトナムとは大分違います。果物も、花も、みんな違います。そして人々もちがいました。だから私は友人を作って、ドイツやフランスの子どもたちと遊びました。アメリカの子ども、イギリスの子ども。私は彼らと親しい友人となりました。イギリス国教会の牧師やカトリックの司教、プロテスタントの聖職者と友人になりました。

でも、プラクティスのおかげで今ここという本当の我が家を見つけることが可能でした。そして苦しむことを止めました。同じ夢は見ないようになりました。

人々は私がベトナムに帰ることができなかったので、苦しんでいると思っていました。でも、そうではありませんでした。

もしベトナムに行くことができればうれしいです。そこにいる僧や尼僧、芸術家や作家などの人々に教えを届けられますから。でも、もしいけないのなら、苦しむ必要はないのです。私は他の人に会うことができます。中国や韓国、日本、スペインやイギリスやカナダなどにいる人々に会えますから。

そしてこの言葉があります「私はたどり着いた。本当の我が家に。」

これは、私のプラクティスの表現、具現化です。それはブッダの教えの私の理解の表現です。それは私のプラクティスの一番大事なところです。「私はたどり着いた。本当の我が家に。」

自分の本当の我が家を見つけたその時から、私はそれ以上苦しまなくなりました。過去ももはや私にとっては牢獄ではなくなりました。未来もまた私にとって牢獄ではなくなりました。今ここを生きることができるようになり、自分の本当の我が家とつながることができました。だから未来もここにあるのだと理解することができました。今を通して出会うことができます。

これが私が見つけたことです。もっと深く今とつながることができれば、過去ともつながって、今を通して出会うことができます。これが私が見つけたことです。もし今と深くつながれば、過去ともつながります。そして今を適切に扱う方法を知っていたら、未来を癒すことができるのです。

多くの人は過去はすでに去ってしまって、もう何もできないと考えます。過去に戻って修正することはできないと。でも、ブッダの教えによれば、過去は今も痛みと苦しみと共にそこにあります。今この瞬間という我が家に帰ってくることができれば、今この瞬間と深くつながることができて、過去にもつながることができます。そして、過去を癒すことができます。そして、自分を癒すことができると、あなたの祖先も癒すことができます。それは可能なのです。

私の祖先は私の中で苦しんでいました。でも私が、この瞬間と深くつながることができてから、私は自分自身を癒すことができて、自分の祖先を癒すことができました。それは私の両親を含みます。私の父、母、弟、妹、祖父、祖母。

歩く瞑想のプラクティスをする時、自由のエネルギーを呼び起こします。そして揺るぎなさを。私の歩く瞑想のプラクティスを通して祖先全てが自由と揺るぎなさを楽しんでいることを感じます。

なぜかというと私にとって祖先たちはいつも私の中にいるからです。私の中の細胞の一つ一つに彼らは確かにいて、私が自由になると彼らも自由になります。私が癒されれば、彼らも癒されます。揺るぎなさと自由と共に歩いたときに、彼らもみんな私と一緒に一歩を踏み出しています。

自分の全存在をかけて一歩を踏み出す必要があります。完全なる気づきです。自分のすべての集中力で行います。その一歩が揺るぎなく自由であるために。命のつながり、その瞬間の命と一つとなるように。それは癒しです。そしてあなたを豊かにしてくれます。

だから一歩を踏み出すということは、自由になるということです。それは自由への解放です。自分自身を解放し、そして祖先たちを解放します。

それは革命的な行いです。どうか、私を信じてください。そのような一歩のためには、自分の身体と心のすべてをかける必要があります。100パーセントです。

息を吸う時には、自分自身のすべてを一つに集めます。身体と心を合わせて、あなたは一つになります。マインドフルネスと集中のエネルギーを身にまとい、一歩を踏み出します。あなたの内側は本当の我が家となります。あなたは生きて、完全に存在し、命とつながります。それが現実となります。

あなたの本当の我が家とは抽象的な概念ではありません。それは揺るぎない現実で、自分の足や手を使ってふれることができます。そして、あなたの心で、神の国、またはブッダの浄土にふれることができます。私からするとそれらは抽象的な概念ではありません。それはどの瞬間にも出会えるもので、あなたはどの瞬間にもそこを生きることができます。それは今ここにあるのです。

自分自身がそこにいるための方法を知っていたら、神の国はそこにあります。浄土もそこにあります。あなたの本当の我が家もそこにあります。そして誰も、その本当の我が家を取り上げることはできません。

誰かがあなたの国を占領するかもしれません。そうです。彼らはあなたを牢獄にいれるかもしれません。そうです。でもあなたの本当の我が家と自由は誰も取り上げることができません。

とても大事で、根本的で基礎となるのは、自分自身が本当の我が家とつながることです。そうすればあなたはあなたの本当の我が家は今ここにあるのがわかるでしょう。そしてそれを可能にしてくれるエネルギーは、マインドフルネスと集中のエネルギーです。それは、ブッダのエネルギーです。

私たちみんなが、マインドフルネスと集中の種を自分の内に持っています。それは事実なのです。なぜなら、私たちの誰もがお茶をマインドフルに飲むことができるからです。

お茶を飲む時には、本当にお茶を飲みます。息を吸って、自分の意識を我が家である身体に戻します。今ここに自分を築き上げます。あなたは完全にそこにいる必要があります。そしてあなたが完全にそこにいることができた時、お茶はあなたのために完全なものとしてそこにあります。

あなたがそこにいなければお茶は単に幽霊のようなものです。リアルではありません。マインドフルネスはあなたが、完全にそこに存在することを助けてくれます。そして今ここを完全に生きることの助けとなります。

長い時間をかける必要はありません。たた一歩の歩み、一つの呼吸でそれは可能です。そして一歩を踏み出すことや息を吸うことによって、自分の意識を身体に戻すことができます。

日々の中では、自分の身体はここにあっても、あなたの意識はどこか別々のところにあります。それらは2つの違う方向に進んでいて、あなたは気が散ってしまいます。意識と身体はバラバラになっているのです。あなたの意識はもしかしたら、計画や怖れや怒りで占められているかもしれません。過去や未来に囚われているかもしれません。

でも、あなたの意識と身体の間にあるものがあります。呼吸です。呼吸を通して、自分我が家に帰る、「息を吸って、息を吸っていることに気づく」、するとすぐにあなたの身体と意識は一つになります。

息を吸っている間、他のことは考えません。入ってくる息にただ意識を向けて集中します。集中するのです。自分の100%を自分の吸う息に注いだ時にあなたは吸う息となります。自分の吸う息に対する集中とマインドフルネスがあり、集中していると吸う息は身体と意識を一つにしてくれます。たった一瞬で。するとあなたはすぐに完全に存在し、完全に生きることができます。

そのような状態で、お茶を手にした時、お茶は現実のものとなります。幽霊ではありません。そしてお茶を飲む時には、ただお茶を飲みます。それはマインドフルにお茶を飲むということです。何も考えずにただお茶を飲みます。深く飲むのです。あなたは現実にいて、お茶も現実にあります。

あなたが現実でお茶も現実にある時、命もまた現実のものとなります。多くの人は、夢の中を生きています。それは、この瞬間に生きていないので、この瞬間に何が起こっているのかを知らないということです。

でも、自分の意識を身体に戻すことができれば、あなたは完全に存在できるようになり、何が起こっているのかに気づくことができます。今起こっていることは、お茶を楽しんでいるということです。思考はそこにはありません。そこにあるのはただ、お茶を飲んでいるということだけです。その瞬間お茶を飲む時間を深く生きています。

息を吸った時、吸っている息に完全に気がつきます。入ってくる息がマインドフルネスの対象となります。入ってくる息が私の集中の対象となります。だから私の意識が私の身体へと戻ってくるのです。そして私は完全に存在することができます。

想像してみてください。あなたが何人かの人たちと一緒に美しい夕日を立って見つめていたとします。もし過去について考え続けていたり、未来のことやプロジェクトのことについて考え続けていたら、あなたは実際には夕日を見つめてはいません。夕日はあなたのためにそこにはありません。

息を吸って息を吐くプラクティスをしたら、あなたは今ここにいることができるようになり、その美しい夕日はあなたのたまにそこにあります。息を吸って、夕日がそこにあることに気がつく。息を吐いて、美しい夕日に微笑む。その瞬間、命は現実のものとなります。そしてあなたには本当の我が家があります。

この瞬間に帰ってくることができた時、命の不思議に出会うかもしれません。それは私たちを癒し、生き返らせてくれます。あなたはもしかしたら、苦しみに出会うかもしれません。暴力や憎しみ、怖れ、差別に出会うかもしれません。あなたが良いプラクティショナーであれば、あなたにはそれを扱うのに十分なマインドフルネスがあります。たとえどんなものを扱うことになっても。

自分の中に怒りが湧いてきたと想像してみてください。それはある種のエネルギーです。プラクティショナーとしては、あなたの中にある怒りを放っておくことはしません。怒りを放っておけば、怒りはあなたの身体と心に多くの問題を起こします。そして周りの人に対しても。

だから怒りにマインドフルに気がつくプラクティスをします。息を吸って、自分の中の怒りに気がつきます。息を吐いて、自分の中の怒りに微笑みかけます。私は自分の怒りを抱きしめるのです。

あなたの中の奥深くには怒りの種があります。でも、あなたの奥にはマインドフルネスの種もあります。あなたの中には慈悲の種もあります。怒りの種が触発された時、そは怒りと呼ばれる種類のエネルギーとなって現れます。

これが自分の意識だと考えてください。ここには二つの層があります。下の層は蔵識(阿頼耶識)と呼ばれます。上の層は顕在意識と呼ばれます。

あなたは怒りの種をここに持っています。あなたはまた喜びの種も持っていますし、マインドフルネスや、慈悲や無差別の種も持っています。怒りや絶望、嫉妬や差別の種もあります。あなたの意識の深いところにそれらはあります。

怒りの種が蔵識の中で放っておかれている時、もしあなたがそれに水やりをせずに、誰からも何もされなかればあなたは大丈夫です。笑って楽しい時を過ごせます。でもそれは怒りの種がないということではありません。誰かがあなたの怒りの種にふれるようなことを言っているのをきいたり、あるいはされたりすると、顕在意識の領域に現われたエネルギーとなります。

仏教ではこれを「心の形成物」と呼んでいます。怒りは心の形成物です。私の伝統では、51のカテゴリーの心の形成物があります。私たちの中には差別の種があり、無差別の種もあります。それは真実なのです。

もし毎日差別の種に水やりされればそれが強くなり、無差別の種が現れてくることができなくなります。もし怒りの種が、毎日どんどん強くなれば、慈悲の種は現れるチャンスが少なくなります。

だから、ネガティブな種が触発されて表に出てきた時には、そのケアをする必要があるのです。だから、怒りに対するマインドフルネスについてお話しています。マインドフルネスとは何が起こっているかを知る力です。そこで起こっているのは、怒りが現れているということです。

プラクティショナーとしては、マインドフルネスの種も同時に現れるように頼みます。そして、あなたが一生懸命プラクティスをしたら、あなたの中のマインドフルネスの種は十分強くなり、簡単にそれにふれて、招き、来てもらうことができます。そして上の層に上がってくるとエネルギーの領域となります。

怒りはエネルギー1だと考えてください。マインドフルネスはエネルギー2です。マインドフルネスとは何かに対する気づきで、ここでは怒りへのマインドフルネスです。ここでのマインドフルネスは、どのように機能しているかというと、怒りを怒りとして認識をするという働きです。

マインドフルな呼吸とは、息を吸っている時に入ってくる息に気がつく、息を吐いている時に出ていく息に気がつくということです。吸う息を吸う息と認識し、吐く息を吐く息だと認識します。飲み物を飲んでいる時には飲んでいることに気がつき、歩いている時には歩いていることに気がつきます。それがマインドフルネスの働きです。

だから、マインドフルネスのエネルギーは、呼吸や歩みによって呼び起こされて、怒りを怒りとして認識する力を持っています。息を吸って、私は怒りが自分の中にあることに気がつく。息を吐いて、怒りのケアをする。怒りを認識して、その怒りを抱きしめます。

それがアート(技)であり、それがプラクティスです。闘う必要はありません。マインドフルネスは、怒りと闘うために呼び起こされたのではなく、怒りを認識して、とても優しく抱きしめます。それが仏教の実践です。自分自身を戦場へと変えてしまわないでください。善とエゴとの闘い、それは仏教ではありません。

なぜならあなたがマインドフルでかつ怒っている時、マインドフルネスはあなたのお姉さんの役割を果たします。怒りという苦しむ妹を抱きしめて、彼女が変容するのを助けてくれるのです。

お母さんが、台所で働いている時に、赤ちゃんが泣いているのを聞いたら、赤ちゃんのお世話をすぐにします。台所で歩いていたら止まって、何を手にしていてもそれを一旦置いて、赤ちゃんがいる部屋に行きます。

お母さんはまず赤ちゃんを抱き上げて優しく抱きます。それがお母さんです。赤ちゃんに何が起こっているのかまだ分かりません。それでもまず、赤ちゃんを抱き上げてマインドフルにあやします。プラクティショナーとしては同じことをします。怒りや絶望が起こった時にいつも、マインドフルネスのエネルギーを呼び起こします。それによって、認識できるようになり、優しく抱きしめることができます。優しくです。

もしマインドフルな歩みや呼吸のプラクティスの方法を知っていたら、マインドフルネスを引き出すことができます。そして、そのエネルギーを認識し、抱きしめることに回します。するとあなたは安らぎを感じることができます。なぜなら、マインドフルネスのエネルギーは別のエネルギーである怒りを抱きしめられるからです。お兄さんが弟を抱きしめるように。

お母さんがまだ、何が悪いのか分からなくても、赤ちゃんを優しく抱いていることが赤ちゃんに安らぎをくれて、時には泣き止みます。お母さんが赤ちゃんを優しくマインドフルネスに抱き続けていたら、何が問題だったのかが分かります。もしかしたら、お腹が空いていたのかもしれませんし、熱があったのかもしれない、もしかしたらオムツがきつすぎるのかもしれません。お母さんはすぐにその理由を見つけます。

プラクティショナーとして、あなたも簡単に見つけることができます。なぜその怒りがあるのか。そして、その怒りの根が分かります。

お母さんは赤ちゃんにとって何が問題なのか分かると、その状況を変えることができます。すぐに、赤ちゃんがお腹が空いていたらミルクを与えます。オムツがきつすぎたら、一度外してもう一度着けます。

だからあなたの怒りを優しく抱きしめた後、あなたマインドフルネスな呼吸と歩みのプラクティスを続けて、自分の怒りの性質を深く見つめれば、自分の怒りの根が何なのかを見出すことができます。認識して、抱きしめて、深く見つめます。

なぜならマインドフルネスは、エネルギーの一種で、集中のエネルギーも運んできてくれます。マインドフルネスがあるところには集中もあります。自分が吸う息にマインドフルネスである時、自分の吸う息に集中しています。自分のお茶にマインドフルである時、あなたはそのお茶に集中しています。

だから、マインドフルネスがパワフルになればなるほど、さらなる集中力をあなたは得ます。マインドフルネスと集中力と共に、深く見つめるプラクティスをします。そうするとあなたは洞察を得ます。そして洞察はあなたを自由にしてくれます。怒りを変容させてくれるのです。

ある話があるのですが、若い男の子がいて、毎年夏にプラムヴィレッジに妹と一緒に来ていました。彼らは子どもたち向けのマインドフルネスのプラクティスをしていました。その子は父さんとの関係が難しくて、お父さんを非難していました。彼が転んで怪我をするとお父さんはいつも近くに来て助けてくれる代わりに怒鳴っていました。

だからお父さんとの関係は難しいものでした。そして彼は自分が大きくなったらお父さんのようにはならないと心に決めていました。もし自分に子どもが生まれてその子が転んで怪我をした時にはその子にその子に怒鳴るのではなく、その子に近づいて行って助けると心に決めていました。

ある日彼はプラムヴィレッジのロウアーハムレットで遊んでいて、妹ともう一人小さな女の子と一緒にハンモックで遊んでいました。その女の子は転んで怪我をして、血が流れていました。彼は急に自分が怒っていることを発見しました。彼は「バカが!なんでそんなことをしているんだ!」と怒鳴りたいと思っていました。

でも、彼はマインドフルネスのプラクティスをしていたので、怒鳴ることをせずに、認識することができました。自分がまさに自分のお父さんのようだということを。妹に近づいて行って助ける代わりに、彼女に向って怒鳴ろうとする傾向があるのだと。彼は自分の中にあるものを嫌っていました。でもマインドフルな呼吸のプラクティスをすると、分かりました。それは彼の中にいるお父さんからの継続なのだと。彼は自分のお父さんと別のものではないのだと分かりました。

その洞察を得て、振り向いて、ゆっくりと歩くプラクティスをしました。誰かが妹を助けようと近づいているのを見た時、彼はゆっくり歩きながら彼はお父さんの継続なのだと認識しました。怒りのエネルギーはお父さんから引き継がれて、プラクティスをしなければ、
まさにお父さんのようになってしまうのだと。そして、プラクティスをしなければいつか将来自分の子どもを同じように扱ってしまうのだと。それは輪廻転生と言われます。継続するということです。

そして彼には急に望みが生まれました。家に帰ってお父さんに、彼もお父さんと同じ種類のエネルギーを持っていて、お父さんも招いて一緒にプラクティスをしたいと伝えたくなりました。その望みが生まれた時、彼のお父さんに対する怒りや憤りは溶けていきました。

彼が得た洞察とはどのようなものでしょうか?それは彼がまさにお父さんのような人間で、同じような習慣のエネルギーを持っていること。だから彼はプラクティスをしたいと思い、自分はそのエネルギーの被害者なのだと分かりました。彼に伝えられた習慣のエネルギーの被害者なのです。そしてお父さんも、その伝承の被害者なのだと分かりました。

彼のお父さんはもしかしたら、彼のお父さんはもしかしたら、そのお父さんから引き継がれたのかもしれません。彼はその洞察を得た時、彼の怒りはそれに応じてただ止まりました。彼は変容させたのです。

私が思うにそれは、その12歳の青年が達成した素晴らしい偉業です。我々の苦悩を変容させてくれるのは洞察で、マインドフルネスにはその力があります。認識して、抱きしめて、深く見つめる力です。洞察を得て、あなたの奥深くを変容させてくれます。そしてあなたは自由になります。変容と、癒しと、自由。

彼が自分を解放できた時、彼の中のお父さんも解放されました。彼の中の祖先もまた解放されました。そして輪廻転生の輪も解放されました。

その青年が悟ったことは何かというと、彼はお父さんの犠牲者ではないということです。彼はその習慣のエネルギーの犠牲者だったのです。そして彼のお父さんもその習慣のエネルギーの犠牲者なのだと分かりました。

そして自分を変容させることができた時、あなたは相手の変容を助ける立場にいます。それは、あなたを抑圧してきたとあなたが信じている相手です。あなたの苦しみの源です。

それが私のプラクティスです。私には敵はいません。たとえ、彼らが多くの苦しみや不正義を作り出し、私を抑圧するために私を殺そうとしても。それでも、彼らは私の敵ではありません。私が助けたいと思う相手です。

なぜなら私は自由になり、自分を変化させて、自分自身を変容させましたから。だから、私はもはや、自分を被害者だとは思いません。自分自身を変容させることができれば、彼らの変容を助けることができるのだと知っています。

もしあなたがプラクティスをして、自分の意識と心を変容させることができれば、あなたは菩薩となります。そして、あなたは他の人を助けることができます。それは、あなたを抑圧してきたとあなたが思っている人たちです。あなたを搾取し、差別してきたとあなたが考える人たち。あなたを抑圧し、殺そうとした人たち。

彼らまた自分の無知と怒りの被害者なのです。彼らは自分自身の渇望や怒り、暴力や怖れをどのように取り扱ったら良いのか知らないのです。だから道というのは、自分自身を菩薩へと変容させることなのです。多くの、理解と、洞察と、慈悲によって。

そして、そのエネルギーがある時、あなたは自由になります。そしてあなたが他の人々が自由になるのを助けることができます。それがブッダによって示された道なのです。

私たちの一人一人が、その人自身の内側にマインドフルネス、集中、洞察の種を持っています。あなたはその3種類のエネルギーを育くむことを通して、自分自身を解放し癒すことができます。

そして同じ種類のエネルギーを世界を変容させて癒すために使うことができます。上を見上げた時にあなたはお寺を見るでしょう。お寺はあなたの心の中にあり、蓮の花があなたの心の中にあります。その下にはsmurtyという言葉があります。それは「マインドフルネス」という意味です。そして、samadhiという言葉があり、それは「集中」という意味です。そしてprashnaという言葉があります。それは「洞察」です。それは私たちのお内側にあるエネルギーで、育み伸ばすことができます。それは私たちの中にあるブッダのエネルギーです。変容のエネルギーであり、癒しのエネルギーです。

私たちのリトリートの間、マインドフルネスな呼吸のプラクティスをし、マインドフルに歩くプラクティスをします。だから私たちは、自分たちの時間をプラクティスのために使うように勧められています。もし、お喋りのためにたくさんの時間を使えば、自分の呼吸、歩くことを楽しむ時間はありません。

お互いに話すことを推奨されている時間もあります。ダルマ・ディスカッションの時間です。私たちが得た洞察を分かち合い、どのように苦しみを乗り越えたのか分かち合います。

お昼ご飯や朝ご飯を食べる時にもプラクティスをして、考えないようにします。私たちは今ここに自分を築き上げます。自分が食べている食べ物にだけ注意を向けます。パン一切れを手にする時には、過去や未来について考えません。ただ、そのパンに深くであいます。すると、そのパン一切れのことが分かります。そのパン一切れの中にすべてが詰まっていることが分かります。

あなたの手の中にある一切れのパンは、宇宙の塊です。少しでもマインドフルであれば分かるのは、一切れのパンは宇宙からあなたへの大使だということです。その一切れのパンの本当の性質を見ることができたら、それを口に入れることができます。

それ以外のものは、口にしてはいけません。例えばあなたのプロジェクト、怖れ、怒り、それらは不健康ですので、ただパンを口にして、パンを噛みしめてください。マインドフルに喜びを感じながら食べてください。あなたの悲しみや怒りを噛みしめないでください。それは健康によくありません。

そこには思考はありません。そこにあるのはマインドフルに噛みしめるプロセスだけです。朝ご飯を楽しむことに時間を使います。時として一旦休んで微笑みます。あなたの前にいるブラザーはあなたで、あなたの左側にいるシスターはあなたです。彼らはみんなサンガに属していて、みんなで一緒になってマインドフルネスのエネルギーを呼び起こします。

集合的なマインドフルネスのエネルギーは、歩く時や座る時、食べている時集合的であることによって強力になります。それは私たち一人一人に染み込んでいきます。集合的なエネルギーに癒されて滋養を与えられます。

自分一人でリビングルームででも、マインドフルネスのエネルギーを呼び起こすことは可能です。でも、集合的なマインドフルネスのエネルギーに比べるとそこまでではありません。だからサンガの中にいて、サンガによる集合的なマインドフルネスのエネルギーを染みわたらせるようにすることはとても大切なことです。だからサンガとして集まることはとても大切なことです。それは奇跡です。

そして私たちはその利益を得るべきです。集合的なサンガのエネルギーを自分の中に流れてくることに任せて、サンガに抱きしめてもらいます。私たちの苦悩、痛み、悲しみを抱きしめてもらいます。

サンガは船です。苦しみの川で浮くことを助けてくれます。あなた自身がサンガに運ばれるのに任せてください。それは集合的なマインドフルネスのエネルギーです。

食べている時にはサンガと一緒にいる時間を楽しみます。プラクティスの途中で、ブラザーシスターに微笑みます。サンガの集合的なエネルギーに自分自身が育まれるのに任せます。

日々の中のどの瞬間にも、マインドフルネスは今ここにいることを助けてくれます。本当のプラクティスとは、どの瞬間も喜びに満ちた瞬間にすることです。それは自分とサンガによって引き起こされた、マインドフルネスと集中のエネルギーによって可能になります。

明日私たちは、歩く瞑想を朝おこないます。一緒に、神の国を作るように歩きます。今ここにある、現実としての神の国です。今ここにある、現実としての神の国です。プラクティスに慣れている人たちも何人もいるので、一緒に歩いて集合的なマインドフルネスのエネルギーを一緒になって呼び起こします。そして、神の国、浄土がそこにあると分かるでしょう。

(翻訳・書き起こし:Kumiko Jin)
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ティク・ナット・ハン「マインドフルネスの教え」
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