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ロリィタファッションに殺されないために 後

昨日の続き。

ロリィタファッションをやめるときが来てしまったのだろうかと絶望したあと、だからといってどうやめたらいいのかということが問題だった。
人にやめると宣言するのか、自分の中だけで折り合いをつけるのか。人にいわなかったとしても、いずれ知られる時は来る。近しい人たちには公にしていた趣味だからだ。そのときになんと説明すればいいのだろうか。
「やっぱり似合わないからやめる」なんて説明するのは、これまで着てきた自分に対して無責任だと思ったし、お洋服に対して不誠実だ。そんな終わらせ方をするくらいならやっぱり死ぬしかない。

お洋服たちを処分することも考えた。転職のため福岡から大阪に引っ越して、お金もほとんどなかったのでメルカリに出したりリサイクルショップへ持っていけばそこそこの金額になるだろうということも。けどそうなると、さすがにクリーニングに出してからのほうがいいだろうかとさらに考える。ならばクリーニング代もかかる。何着も出せばもちろん金額も膨らむ。本末転倒だ。
大阪だからロリィタ服専門のリサイクルショップもすぐ見つかった。まあまあ近かったけれど、電車には乗らないといけない距離。いまクローゼットに入っている分をすべて持っていくとなるとかなりの大荷物になる。これでも引っ越すときに少しだけ手放したのに。
大好きだったお洋服たちを売るために、そんな大荷物を抱えて電車に乗る自分を想像する。道中耐えられる気がしなかった。

迷って迷って、ためらううちに月日は流れた。
ロリィタファッションというのは「着よう」としなくても日常を送れるものであり、わたしの部屋には2つのクローゼットがあったのが幸いだった。日常生活の死角になる方のクローゼットにお洋服を仕舞い、なにかしらの答えが出るまでは視界に入れないようにしていた。

長々と書いてきたが、結局のところわたしは答えを出すことを先延ばしにした。考えることをやめた。

そうして約1年、特に答えを出さないまま過ごしてきた。

この1年、いろいろあった。出来事ではなく、わたし自身の内面に対して本当にいろいろあった。
きっかけはこの2つの記事だ。

まず、青木美沙子さんといえばロリィタで知らない人はいない。わたしも自分がロリィタファッションを愛好するようになってからすぐ存在は知ったけれど、特別ファンではなかった。
理由としては共感性が低かったからだ。ナースとして働きつつ、ロリィタモデルとしても活躍する。周りにロリィタを広めようと尽力されている。
今まで、そんな彼女に対して別に広めなくてもいいじゃん、と思っていた。わからないやつはわからないままでいい。ロリィタのよさがわからず、嘲笑うような奴らは同調圧力に屈した愚かな奴らだと見下していたから。

わたしは昔から同調圧力が本当に嫌いだったし、くだらないと思っていたし、それが強い田舎が嫌いだったから地元を出た。
「なんとなく、親も周りもみんなそうだから」という理由だけで地元にとどまり続ける人たちのことも心底軽蔑していた。

高校は私服の学校だったけど、ロリィタファッションでは汚したら嫌だし動きにくさもあるので比較的取り入れやすい日傘を持っていた。当然だが悪目立ちしていた。
わたしが日傘を持っていることについて、嫌なことをいわれているのを誰からかは忘れたが他人経由で知ったとき、誰にも迷惑をかけていないのになぜそんなことを言われないといけないのかという旨のブログを書いた。そうしたらお友達以外の誰かも見ていたのだろう。「言われるのが嫌ならやるな」的なコメントが付いた。誰が書いたのかは今もわからない。知るつもりもない。お友達の皆さん、もし知っていても教えないでね。
元クラスメイトに「それ(日傘)を持っているときはあまり話しかけたくない」と言われたこともある。
お洋服を買いに行くためにめいっぱい着飾って駅にいたら、ジャージ姿の地元中学生たちに嘲笑われ写真を撮られていたこともある。

だけど田舎でロリィタファッションをするのであれば、当たり前でよくあることだと思って受け入れていた。
ロリィタファッションは同調圧力をぶっ飛ばすパワーのあるお洋服で、わたしは自分がなにかを好きだと思う気持ちだけは誰にも負けない自信があった。理解のあるお友達に恵まれていて、家族にロリィタファッションを反対されたこともない。
周りから大反対されている人だっているのだから、自分はまだマシな方。

だけど本当は傷ついていたのだ。
どうして自分がそんな扱いをされないといけないのかがわからない。10年以上経ってもその時の怒りを鮮明に覚えているくらい、傷ついていた。
好きなものを好きでいることはそんなに罪深いことなのか。わたしは間違っていて、社会不適合者なのか。わたしが好きなものを好きでいる限り、周りから嘲笑の対象にされるのは受け入れないといけないことなのか。

ずっとずっと、他人からそうして嘲笑われたりバカにされたのはわたしの身長が163センチもあって、顔もかわいくないからだと思っていた。

青木美沙子さんみたいにかわいくて、モデルもやっていて、ばんばん活躍するような人だったら、親しくなりたい人に対して「この人はロリィタファッションを受け入れてくれるだろうか」と悩んだりしなくてよかったのにと思っていた。

だからこの記事は衝撃的だった。青木美沙子さんでもそんな目に遭うのかと知れたし、他の話も共感性が高かった。わたしもこんなことを考えていたと思い出せた。
もう一つ、鴻上さんの話もものすごく腑に落ちた。わたしは同調圧力に反発することはできているけれど、自尊意識はすごく低かった。
だから今まで傷ついてきたし、傷ついている自分に対して情けない、そんなんじゃダメだ、クズなんだからもっとがんばらないとと更に傷をえぐっていた。

これが8月から9月にかけてのこと。
わたしは自分の自尊意識を高めることにした。自分で自分を貶すことをやめた。傷つくのは弱いからじゃない、自分が大切にしていることをないがしろにされれば傷つくのは当たり前だ。人間として当たり前のことだ。それを想像できない人が容易に他人を傷つける。なら自分はちゃんと想像して、同じことをしないようにすればいい。

そしてこの頃のわたしには、今までずっと続けられなかった手帳をほぼ1年続けることができているというこれまでにない成功体験が生まれていた。

さらに11月になってからこの記事を読んだ。わたしもアトピー持ちで、そのこともかなり深いコンプレックスだった。
ロリィタとして、現状頂点に存在している人と同じコンプレックスを持っている。それも勇気につながった。

そして先週末、読んだ本の中に「自分が3年後にこうなれていたら素敵だなあと思う、自分が憧れる自分自身と重ねる誰か」というフレーズが出てきたとき、真っ先に青木美沙子さんを思い浮かべた。

やっぱりわたしはロリィタファッションをしていたい。着ていたい。かわいいお洋服が大好きで大好きで仕方ない。やめたくない。ずっとずっとこれからも好きでいたい。ロリィタファッションが好きな自分でいたい。

即刻インスタとツイッターをフォローした。載っている写真はどれもかわいい。なんてかわいいお洋服があるのだろうと思った。インスタでは関連したアカウントが出てきて、それもいくつか巡った。かわいい。全部かわいい。すごくかわいい。ハートボタンをたくさん押した。
こんなにかわいくて素敵なお洋服が、本当にこの世に存在しているのかと思った。そしてずいぶん目を背けていた、自分のクローゼットに眠る宝物たちを見た。

存在していた。大好きなAngelic Prettyのお洋服が、たくさん、目の前に、わたしだけのもとに。
Angelic Prettyだけじゃなく、高校時代なけなしのお小遣いで買ったHartEのサンドレスも、一目惚れして買ったmetamorphoseのスカートも、大好きなフォロワーさんに教えてもらって買ったVictorian Maidenのフラミンゴ柄ジャンパースカートも。全部ちゃんとあった。

本当に存在しているんだ、こんなにもかわいくて素敵なお洋服が。

わたしは好きなものになら殺されて構わないと思っていたし、そうするのが義理だと信じてすらいた。
わたしがロリィタファッションに相応しくなくなったときは、いつでも殺してくださいと思っていた。

でも、困るよね。
だって死んじゃったら、お洋服が着られない。いろんなお洋服のコーディネイトも考えられなくなってしまうし、お店に行ってここはなんて素晴らしい空間なんだとくらくらすることもできなくなってしまう。

だからわたしはロリィタファッションに殺されないよう、今日も自分を大切に、生きてゆくことを決めた。

長い長いわたしとお洋服のお話は、これでおしまい。

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