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Runner of the Spirit(小江戸大江戸200k完走記)

小江戸大江戸トレニックワールドの主催する小江戸大江戸200kという207.5kmのレースを31時間35分13秒のタイムで完走することができました。

昨年は同大会に出場して体調不良でリタイアという悔しい結果に終わっていたのでどうしてもリベンジを果たしたく念願叶っての完走でした。
せっかくなのでレースまでの取り組みやレース中に考えたことなどを記録しておきます。


なぜ小江戸大江戸200kにエントリーしたのか

どこまでも自分の脚で行けることへの憧れ

前記事(https://note.com/tnb733/n/nae890c4bfc5c)に記載したように、

私は走ることだけはずっと続けてこられましたし、これからもきっと続けるのだろうと思っています。そうした時に「最終的にどこに行き着くのだろう」と考えることは時々あります。
そう考えた時に、走り始めた理由の一つに「どこまでも自分の脚で行けることへの憧れ」がありました。そんな想いを持っていたこと自体、振り返る機会は特になかったのですが、あるレースの存在を知ると同時に「昔そんなことを考えていたよな」と思い出しました。山好きの仲間たちから教わったTJAR(トランスジャパンアルプスレース)です。(今となっては地上波のテレビでも番組が作られるくらいですから、「仲間から教わった」も何もないかもしれませんが)

私は登山に関しては夏山をテント泊する程度ですし、根本的に不注意な人間なので山をやり込み過ぎるといつか死ぬだろうと思い、ほどほどの距離感を保っています。ストイックなのも嫌いですし、まして人生全てをかけてのトレーニングが必要となるTJARは別世界の話でしたが、唯一"日本縦断"というキーワード、つまり太平洋と日本海を一つのレースで繋ぐという発想はちょっといいな、と自分の中にそんな印象が残りました。
その状態で太平洋から日本海まで514kmを5日と12時間かけて走る「川の道フットレース」の存在を知ったことで「ずっと舗装道路ならこっちはもしかしたらできるかも!」と能天気な勘違いをしてしまい、これが不幸の(?)始まりでした。https://sportsaid-japan.org/NEW/guide/24kawa-site.pdf

太平洋(東京:新木場駅前)をスタートし、日本海(新潟:関屋浜海岸)でゴールする川の道フットレース

過信

ひとまず川の道フットレースの参加要件を調べてみると「過去に230km以上のレースを完走した経験があること」とあります。
このような実績を詰めるレースとして見つけたのが小江戸大江戸200kの230kmクラスです。200kmですら壮絶な距離なのに昨年いきなり230kmにエントリーしたのはそういう経緯からでした。この時の判断では、過去の成功体験(2021年に出場した柴又100kというウルトラマラソンは苦しかったものの、なんだかんだ9時間30分切りのタイムで走り切れたこと)を過信して、次項の大きな判断ミスに繋がりました。
ちなみにこの川の道の参加要件確認から入った経緯から、いろいろなウルトラレースを調べる結果となり、小江戸大江戸の200kmが可愛く思えるくらい、日本には驚異的な距離のウルトラレースがいくつも存在することを知りました。
https://sportsaid-japan.org/NEW/event/

現実は甘くない(昨年の小江戸大江戸230kのレースについて)

小見出しのタイトルでお分かりいただけると思いますが、壮絶な目に遭いました。以下、壮絶な目に遭った直後に書いたものが一番実感が籠っていると思うので、昨年の大会直後に書いたstravaを引用します。

昨年の小江戸大江戸(途中リタイア)

小江戸大江戸230k
寄居まで頑張れば地形的に下りになるのでいけるかもと思ったものの、そんな生やさしいものじゃなかった。普段が30kmや60kmの練習では、フルマラソンの練習と言いながら5kmや10kmの練習しかしていないようなものだったんだなと改めて思う。
寄居までで気温も上がってしまい、イーブンペースを保ったつもりだったものの自覚してない疲労があり、ホンダの工場を下ってからはダラダラとしたアップダウンがとにかく長くて筋肉も内臓もやられて走れなくなってしまった。72km唐子エイドで有料のマッサージを受けて一旦回復して走れるようになり、川越に戻ってきた時点ではまだ行けるかと思ったものの、外気温が寒くなってきたタイミングと身体的にカロリー不足で体温が上げられない状態になるタイミングが被ってしまい、食べ物も上手く吸収できず本当は川越出て2km行かない地点で気持ち悪くて5分くらい座り込んでいた。
それでも、せめて100kmまでは行ってみようか、せめて東京までは行こうか、せめて次のエイドまでは行こうかと気持ちが揺れ動いているうちに川越にも自宅にも帰れない時間帯になって、ずっと機内モードにしていたスマホをその辺りから見て弱音を吐き始める。
川越を出てから2時間くらい「川越でやめておけば良かった」という後悔に苛まれ続けたものの、そこでようやく今回みたいな機会がないとオーバーナイトのランニングなんて経験できない、と自分を無理矢理納得させて中野坂上駅あたりにある37km先の成願寺エイドまで行くことに決めた。何度走り出そうとしても内臓が込み上げてしまい、何度も座り込んでは歩き、川越を8時に出て3時半着、約7時間半かかって37kmを歩き仰せた。とにかく長く辛く寒く心細く、この37kmが一番のハイライトだった。
序盤はペースの合ういろいろな参加者と会話して楽しく進めることもあったが、自分が走れないと足止めするわけにもいかず、話しかけることができない。誰ともしんどさを共有することもできないその状況が何よりも一番辛かった。ノロノロと吐き気と寒気に襲われながら進む自分を、まだまだ元気なランナー百人以上が颯爽と抜いていく。まるで走りを見せつけられるようで心を折られ続け、情けなくてどうにも気持ちを保つことはできなかった。
浅草橋、おしなりエイドは行けないこともなかったがちゃんと走れる想定だったランニングシャツ+薄いジャケットの装備は寒過ぎて意地や見栄のためだけに続けるのは辞めようと思った。

なぜ自分はこんなにネガティブな気持ちになるのに走り続けているのだろうか。
特に苦しかった寄居〜唐子間の19kmと川越〜成願寺間の37km、本当に辛いことは誰も見ていない何の変化も起こらないような場所で愚直に頑張り続けることなんだな、と改めて思わされた。
またこの大会は単独参加の人も多かったが、友人や夫婦で参加されている方も多く、その人たちは走ることを、人との交流を、心から楽しんでいるように見えた。
「早く行きたければ一人で行け、遠くへ行けたければみんなで行け」という言葉がこれほど刺さる経験もこれまでの人生でなかったかもしれない。


大会は地域の方々から実に愛されており、128kmの道のりの中でも本当にたくさんの住民の方々から声援を受けた。飲み物や食べ物を供給してくれた私設エイドも小規模なものを含めたら自分が通過しただけでも20以上あった。運営者のホスピタリティーも全てにおいて素晴らしく、こんなに素敵な大会でこんなネガティブな気持ちしか残せなかった自分がただただ情けなく、悔しい。
成願寺エイドでリタイアを決めた後に食べた鹿肉カレーはあまりにも美味すぎた。人々の優しさと温かさに涙の味がした。

私のstrava:2023年の小江戸大江戸230k後に書いた日記より

この2023年の小江戸大江戸230kを経て確信したことが一つあり、自分にとってこれほどの距離のレースは楽しんで取り組めないということでした。内臓が強く、悪天候や悪環境でも動けるタイプの屈強さを持ち合わせていないと、この競技は衛生要因※の部分を満たすことができず、大前提の楽しむことに辿り着けないということがよくわかりました。(※衛生要因と動機付け要因はハースバーグという方が提唱したキャリア理論に関する言葉です。端的に言うと、プラス面のモチベーションがどんなに大きくても健康を害するなどのマイナス要因が大き過ぎればそれはやらない理由になり、私にとって200kmレベルの超長距離を走るのはそういう有害にも感じられるレベルで厳しかったということです。)
走った直後には、「来年は必ずリベンジするぞ」という気持ちにはなれなかったです。

人智を超えたものに委ねる

でも結局こうしてエントリーをして、完走という結果を得られています。
やはりこのまま終わってはどうしても悔しさが残る、というモヤモヤした気持ちが残り続けてしまい気持ちが悪く、最後には、この判断は運否天賦や縁に任せることで下しました。

実は、こんな過酷なレースにも関わらず小江戸大江戸はリピーターからの人気が非常に高く、熾烈なクリック戦争に勝ち抜かねばエントリーできない大会の一つです。

忘れもしない11月2日木曜日21時、あの日は偶然にも仕事で海外向けオンラインセミナーの運営があり、その開始も21時でした。小江戸大江戸のエントリー開始日時と完全にバッティングしていたのです!
最序盤はファシリテーターの先輩が話してくれているのでカメラOFFにしてましたし、多少気を抜いていても良かったものの、自分の英語でのプレゼンの時間もあったので緊張しており、あまり小江戸大江戸のエントリーに割ける時間も集中力もありませんでした。
悔しくてリベンジしたくてしょうがないけど、もうあんな想いはしたくないと思うほど辛い、そんな感情で揺れまくってその時間になってもエントリーするかどうかを決めかねていましたが「ここでエントリーできなかったら諦めがつく」と運否天賦に任せて21時ちょうどにランネットに繋ぎました。
するとどうでしょう、昨年はエントリーするために10分以上待っていた覚えがあるのに、今回はするっとアクセスできてあっという間に申し込み情報の記入を終えます。そこで本当にエントリーするのかどうか、もう少し逡巡したいところでしたが、仮にも仕事のオンライン会議の内職でやってるわけでさっさと本業に集中せねばなりません。
「縁があったんだ、肚を括ろう」と思い、エイヤでエントリーを決めました。
これがエントリーを決めた経緯です。

余談ですが、私は大事な決断について、ある程度考え尽くしたと思ったら「運」とか「縁」とか「神」とか、人智を超えたものに委ねる傾向があります。究極、私たち人間の考えられる合理性なんて限界がありますし、決断の何もかもが"自分のせい"として自責で生きるのはかっこいいし憧れますが、自分レベルの頭脳と精神力でそういう人生を送ろうとしてもあまり幸せには生きられないな、と気付いたので。

憂鬱な日々(大会本番を迎えるまで)

レースの事前準備や装備の検討について

エントリーを決めてしまったものの、別に憂鬱でなくなったわけではありません。つくばマラソン含む11月の三連戦も終わり、2024年を迎えて次の目標レースだった2月の全日本リレーも終わると、いよいよ小江戸大江戸まで1ヶ月、さすがに向き合わなければいけない時期になってきました。
今回のレースでは前回リタイアの原因となってしまった日中・夜間の気温差とそれにともなう体調不良を真っ先に対策すべきと考えていました。

前述の通り、昨年は日中が20℃で日陰のない河原を延々と走る最初の50kmで汗をかいた上に体力を消耗してしまい、72km地点:唐子エイドではすでにマッサージをしてもらえないと走れないくらいの状況でした。マッサージをしてもらって少し元気になって川越に帰ってくるものの、川越のエイドを出た直後から国道254号線がずっと寒く、オーバーナイトの経験もないため内臓疲労は予想以上で、気持ち悪くて早歩きすらできない状態になってしまいました。

このため、2月に入ってからの直前期はひたすらギアやウェアの装備の検討に充てました。

私は汗をかなりかくので、日中の高い気温(15~20℃を想定)の中で大汗をかいてしまっても乾くくらいの撥水性を持ち、夜間の低い気温(0~5℃を想定)の中で身体が動かなくなっても凍えないような装備はどんなものか、2月どころか3月に入って1週間前になってもずっとそれを考えて試行を繰り返していました。

毎日天気予報をチェックしながら、最高気温と最低気温を確認し、昼のジョグではレース想定のウェアを着用した上で、できるだけ汗をかかないようなペースを確認していました。また、夜の練習自体は避けていましたが、屋外で夜を迎えた時は必ず気温を確認し、「このくらいの気温に暴露されるのか(これより〇℃低いのか)」ということを味わうようにしてました。

最終的に切り札となったのは山をやっている人には有名な「通称:MILLETのアミアミ」こと「ドライナミックメッシュ」です。汗をかいても冷えず寒い場所でも暖かいという長時間行動や寒暖差を課題とする場面で力を発揮する高性能アンダーウェアです。(鎖帷子のような最悪の見た目を除いて)

下半身から冷えることも多かったので、こちらを上下に着用しました。またアミアミは着心地が悪くて好きになれなかったのですが、寒い日のトレーニングでもよく使っているONYONE「ブレステックPP」というアンダーウェアをさらに下に着ておくことで、着心地の悪さも解消することができました。

ここにNorthfaceの「ドライドット」というウェアを着ることで、だいたい8~15℃くらいであれば大汗もかかず、多少冷えても凍えずにパフォーマンスが落ちないようなウェアの組み合わせが完成しました。

また、このレースは一度川越に戻ってきたタイミングで装備を入れ替えたり着替えを行ってよいという特徴があります。このため小江戸区間(最初の90km)ではリュックには上下2枚ずつ薄目・軽めのウェアを入れておき、残りは川越を出発する18~20時頃の気温に合わせて防寒を強化する計画としました。昨年と同じような最悪のコンディションになることも想定して、ユニクロのヒートテック極暖タイプ(全く運動用でない)などもしばらく使っていなかったのを引っ張り出してかき集めて置いておきました。(最終的に翌日暖かくなってきて脱いでから荷物として走るにはあまりにも重くなると判断して、荷物には入れておいたものの着込むのは止めましたが、このくらい用心して準備しておいたのは良かったと思います。)

荷物置き場の様子

こうしたあらゆる気温や環境を想定した装備に関する知識や準備という観点ではアウトドア種目であるOMMに2年間出場していた経験も大いに役に立ちました。(それなりに高価なギアが出てきますが、今までにウルトラマラソンやアドベンチャーレースやOMMなどの出場を通して入手していたものを数多く転用できています。)

3/9出走時の装備・携行品

退路を断つ

ちなみにここで、鋭い人は「オーバーナイトのランニングでトラブルを起こしたのに装備の検討ばかりで走る対策練習はしてないのか?」という疑問を持つと思いますが、今回は一切しませんでした。(マラソンペースの30㎞走や月間300㎞を維持できる程度の練習はしていましたが)
それは「嫌いなことや苦手なことのためには極力時間や精神のリソースを割かない」という考えに基づいた判断です。小江戸大江戸をリベンジして乗り越えたいという気持ちは本物ですが、オーバーナイトで100㎞以上を走るようなトレーニングをすれば、土日の時間は完全にそれだけに奪われてしまう上に、そのあとの平日も体力の回復のために何日か充てなければいけないでしょう。エントリーした判断とは完全に矛盾していますが、それでもそういう影響を天秤にかけた結果、考えただけで憂鬱な気持ちになるような大会のために貴重な自分の時間を充てたくないと判断したのです。

その代わり、一つだけ重要な決断をしました。
「今回で小江戸大江戸200kにエントリーするのは最後にする」ということです。完走できなくてもそれで終わり、「これは自分には無理だった」ということを必ず受け入れて、今年どんな心残りがあったとしても、来年以降は絶対にエントリーしないことを決断しました。
この決断は少なからず今回完走できたことの大きな要因になっています。後述しますが、このレースは歩き続けさえすればゴールできる、そして同時に、合理的に健康を重視して考えれば即刻止めた方がいい局面ばかりだからです。本当にしんどい局面になって、どんなに辛くてもただ前に進むか、止まってリタイアしてしまうか、決意が揺らいだ時に、最終的にはやっぱり精神論で、「もう二度と挑戦できないから、絶対に今回やり切るんだ」という気持ち以上に自分を支えられるものは他にないです。
レース中「今回が最後だから」という気持ちを持ったことで進退の決断にかかるロスタイムはほぼなくすことができました。

同時に、これほどまでに思い悩むレベルで練習の過程を含めて楽しんで取り組めない競技は、もう明確に、自分にとって持続可能なものではないのでしょう。趣味って日常の一部にできるくらい持続可能なものであることがめちゃくちゃ大事です。「楽しんで取り組めなくなる」くらいの無理した分のリソースは、仕事なり日常生活なり、その他のパフォーマンスを低下させてしまうことがほとんどです。
だからこそ「今回で最後にする」という決断ができた面もあります。

「仲間がいる」

昨年のレースについて精神面での大きな反省がもう一つあります。
それは自分から孤独になりにいってしまったことです。
走っている時間はいかにも健康的に身体を動かしているように見えますが、同時にどこか自分の世界に浸って引き籠るような感覚があります。思いっきり屋外にいるけど心は他人と隔絶した世界にいたがっているような時もあります。
昨年は「自分と走りしかない世界に行ってみる」というような、どこか禁欲的な意識で走り始めました。実際に、小江戸を走り終えるまではスマホは機内モードにしていろいろなメッセージを遮断していました。しかし、よく見たら、周囲には友人や夫婦で励まし合いながら走っている人ばかりで苦しい状況でもどこか楽しそう、体力も弱り切っている中で孤独と心細さに襲われて、リタイアした面があります。

それでもレース後に「128kmも走るなんてそれだけで十分すごい」といろいろな人に声をかけて労っていただけて、いろいろな人に応援してもらえてることに気付いてハッとしたという記憶をよく覚えています。
あんなにたくさん応援していただいていたのに1人寂しく走ってるつもりになって孤独に打ちひしがれてリタイアしてしまうなんて、なんて傲慢だったんだろうと強く反省しました。
なので今年は「すごい恵まれてるんだぞ」ということに自覚的であろうと思い、自戒の念も込めて下記のようなポストをしました。

今年の走りは孤独な方向には向かわず、仲間に支えられて生きていることを自覚し、感謝しながら、昨年より強い気持ちで走りたい、そんなレースにしたいと考えていました。
前週も若干無理して横浜国立大学のスプリントに当日参加しましたが、どうしてもオリエンテーリングの仲間と話したいと思ったからでした。普段は比較的聞き役に回ることが多い方ですが、レース直近の数日間は、どうしても不安とか憂鬱とか期待とかも含めて仲間たちに話して一人で抱え込まずに発散したかった。それだけでかなり気持ちが楽になりました。(付き合っていただいた方、ありがとうございました)
不思議なもので、年を取れば取るほど、友人や仲間が人生の中でどれほど重要かに気付くことばかりです。別に仕事も家庭も、人生何もかも上手くいっているわけではありませんが、無条件に応援してくれる友達がいるなんて、もうそれだけで十分幸せ、「人生大成功」ではありませんか。(そんな気持ちがXのポストにストレートに表れています)

レースについて

前日

トラウマ街道
トラウマ寺(蓮馨寺)

小江戸大江戸200kの副実行委員長・白石達也さんは入間市オリエンテーリングクラブの大先輩で、過去に川の道フットレースを完走した経験もある、実はすごい方です。前日に受付に配布物を取りに行くと、応援と重要なアドバイスの言葉をいただけました。

「200kは歩き続けさえすればゴールできるから諦めないことだね」

何度思い返してもやはり前日にこの言葉をいただけて良かったです。

確かに36時間の制限時間を時速6km(1kmを10分)のペースで歩き続ければ36×6=216kmとなり、今回のレースは207.5kmなので間に合う計算となります。もちろんエイドでの休憩や信号待ちも考えるとそのような理論通りにはいくはずがないのですが、どんなコンディションになっても1時間に6km進めさえすれば着実に良いペースでゴールに近づいている、ということは意識しておこうと思いました。

前日の天気予報によると、土日とも快晴、どちらも最高気温12~13℃と好条件でしたが、土曜夜の最低気温が2~4℃、また土曜は風が強くて北西(群馬)の方向から吹き降ろす風が風速6m程度で強いと注意がありました。方角的には最初の50kmは昨年より気温が走りやすい代わりに風が強く、ここで無理しないことが重要と意識しました。(逆に50kmを超えると追い風になるので序盤よりだいぶ楽になるのではないかというイメージが持てました。)

全体的な戦略としては、まず小江戸区間は楽なペースで走り続けることを意識しました。昨年は50kmまでの間に上位選手に追いつこうとややペースを上げたり、信号を渡ろうとスピードを上げたり、何度か「疲れないイーブンペース」を超えた走り方をやってしまった記憶があるので、今年はそれをなくそうと思いました。意識的にブレーキをかけることだってエネルギーを無駄に消費するので軽快に足が動く分にはどんどん進めばいいですし、少しでも無理して進んでる自覚があったら周囲から遅れてでも体力を温存する勇気を持って。前か後かの判断を迫られたら、つくばマラソンの時は前を選び続けましたが、今回は後ろに下がるイメージを作りました。

また、この対策として、昨年は序盤に周囲の選手と話しながら乗り切ろうとしていましたが、話し始めてしまうとついつい相手のペースに合わせてしまう癖があることに気づき、今年は自分からは話しかけるのを止めました。(結局50㎞付近の信号で止まるまで、走行中は誰とも話しませんでした。)

さて、川越のホテルの温泉に浸かってリラックスをしつつ、荷物の整理も済ませ、前日はStravaにこんな言葉を書いて寝ました。(翌日のレースで意識することを改めて言語化するのは結構効きます)

以下、気をつけること。
・仲間の応援に感謝して孤独に打ちひしがれない(レース中もSNS見る)
・ちゃんと食べる(胃もたれしないように少しずつ、でも固形物からカロリー摂る)
・スピードが出なくても焦らない(1時間に6km進み続ければゴールできる)
・地図に対して能動的に進む(時々地図を出して自分で位置を確認したり、CPまで頑張ったりする。受け身に走らされない)
・夜は絶対に油断しないで着込み過ぎるくらい防寒する
・どんなにボロボロになっても必ず復活する時間が来ることを信じる
・今回が最後のレースであることを強く意識する

悪夢の記憶を栄光の記憶に変えてやる。

私のstrava3/8の日記より

レース当日(前半:小江戸)

前半:小江戸のコース(91.3km) ※黄緑色の食事マークがエイド

とうとうこの日がやってきました。
ホテルのバイキングは多くも少なくもなく、いつもの朝食よりちょっと多いくらいの適量を食べました。莫大なカロリー消費をするこの競技、直前に普段ではあり得ないくらい食べる選手もいるとの情報はありましたが、結局内臓が弱い自分にとって、普段と異なるバランスの食べ方をする方がトラブルの要因になり兼ねず、そちらの方がエネルギー切れより余程ハイリスクだからです。
そして、レーススタイルで外に出てみて、朝7時の気温で寒くないか、を確認します。想定通り、風が爽やかで動き出したらちょっと汗ばんできそうなくらいの気温で、いい感じ。

レース前

号砲が鳴ると、どうやらトラブル発生。
Eカードのような機材があって約800名の選手が次々にパンチングスタートをしなければのですが、スタートレーンの両側でどんどん捌けていくようにしていたはずのパンチ台が片方壊れたようです。
1分くらいロスしたものの、白石さんたちが慌てているのはちょっと面白く、ちょうどリラックスして笑いながらスタートできました。

昨年も今年も、走り始めの天気は最高で、気分は爽快です。
ただし、走り始めた直後が爽快なのは当たり前なので、油断してキロ5とかにしてしまわないよう自分を律します。13㎞くらいの地点で荒川の堤防に上がり、ここから風速6mの風が来るかとちょっと身構えます。しかし前週の土曜日に多摩川での練習した際にもっと風が強いコンディションで走ったことがあって、警戒していたほど強くないなと感じました。
吉見エイド(21.4km)や手島エイド(32.7㎞)までは菜の花の美しい道を気分よく、しかし自分を律しながら、時には人を風除けにして隠れたり、風が強い時は身を縮めるようにして走ったり、工夫をして乗り切りました。

菜の花が美しい河川敷の道

また、今年は固形物でカロリーを取るということやエイドであまり休まないということも意識していました。どのエイドでも必ず梅干しから食べ始めることで疲労回復物質のクエン酸を取りながら唾液を出して食欲を湧くようにし、パンやおにぎりも3つ以上は摂ることにしていました。
加えて、昨年は一つのエイドで10分くらい休んでいましたが、特に序盤は、エイドでいくら休んだところで走る速さにはほとんど影響しないことに気づいて、吉見や手島のエイドは2,3分で食物とスポーツドリンクの補充を終えたらすぐに離れるようにしていました。後半になってもこの考えを徹底できたことは後々かなり効いてきます。

今年はちゃんと読図走とナビゲーションをしながら走りました。

もう一点工夫したこととして、ずっと地図を読んでいました。
前日の目標に書いた「地図に対して能動的に進む(時々地図を出して自分で位置を確認したり、CPまで頑張ったりする。受け身に走らされない)」という言葉と関連します。
これは昨年、ナビゲーションが負担になるだろうと考えて、GARMINに地図をダウンロードしておいて、ナビゲーションモードにしていましたが、そうやって受け身に、まるで課題をこなすように走らされていると、余計に疲れると感じたからです。受け身になって、いつ終わるか耐えるように待っていても200㎞なんて距離は決して終わりはしないのです。ナビゲーションの負荷が微妙に上がるとしても、そういう「いつ終わるんだ」みたいな精神的な負荷に耐えるのに比べたら、全然マシです。
目的地があって、行き方と距離感がわかれば、やっぱりその情報だけでモチベーション上げられます。オリエンティアなので。

松ノ木食堂エイド

玉淀(松ノ木食堂に変更)エイド(52.2km)までは18位とのこと。この区間までの強風で体力を使い果たしてしまいリタイアした選手も多かったとのことでしたが、自分としては20℃の気温の中で消耗し切ってしまった昨年の経験が比較の前提にあるので、それに比べれば随分温存できた感覚で、そこまで体力を使った感じではありませんでした。
とはいえ、唐子エイド(72㎞)までの道のりは、昨年最初に気持ち悪くなってしまったトラウマ区間の一つだったので「そこまで体力を使った感じがない」という自分の感覚は本当か、ずっと疑心暗鬼でした。しかし、やはり気温が12~13℃ととても快適だったこともあり、前回苦悶の表情で通過したような地点でもまだまだ余裕があります。
声をかけてくれる応援の人々に、手を振ってスマイルで応えました。今回もどの区間でも5kmに一回くらいは応援の声をかけてくれる人がいて、かなり多くの優しい声かけがあったのがありがたかったです。
追い風のおかげで唐子までも想定より全然早く、バテずに進むことができました。肉うどんも2杯食べられて内臓の調子も悪くありません。ここでも10分と待たずに走り出せそうです。この状況にかなり安堵しました。

唐子エイド、昨年のトラウマ区間も今年は元気に到着

唐子エイドには前年に引き続き小倉整体さんが出張マッサージに来てましたが、成願寺エイドにも来てくれることを確認して、そこでマッサージを受けることを決意しました。
夕方から夜となる時間帯に、エイドなしで最長距離37kmを走る川越〜成願寺区間は誰に聞いても一つの鬼門。自分自身の中でも最大級のトラウマともなっているこの区間を乗り越えて安堵した先に、小倉整体さんの素晴らしいマッサージを受けられたらきっと最高の気分を味わえるだろうと妄想しました。
この妄想は成願寺までの区間で心を保つためにも必要でした。
昨年だって唐子でマッサージを受けた後は「まだまだイケる」と思っていたのです。
寒さについては相当対策をしましたが、昨年の風景を思い出すだけで辛くなるあの区間で、ここからどんな崩れ方をするか決して油断はできません。成願寺に辿り着いて至福のマッサージを受ける自分の姿を想像することで、止まりたいような場面でも少しだけ頑張れるのではないかと、そんな力を与えてくれる妄想でした。

前半最後の川越までの区間は速歩も交えたものの、ほぼ止まることなく進むことができました。この区間はひたすら田んぼと国道の殺風景な道。
例えば川越~成願寺間などは37kmもあるものの、新座、朝霞、和光市、成増、、、など大きな駅や知っている町が次々と出てくるのでそこまで飽きないのですが、あまりにも何もない唐子~川越間を暗い時間に走るには精神的にも割と厳しく、ここを明るい時間に通過できたのは非常に良かったです。(その他、関門など他の理由もあるのですが、こうした背景も総合的に考えて前半を飛ばし気味にしていました。)
川越に帰ってきたのはちょうど18時頃で10時間、自分の想定より1時間早かったのでかなり成功した前半戦でした。

まだ少し明るい時間帯に川越に帰ってこられて感動

レース当日(後半:大江戸)

最大の鬼門、川越~成願寺エイド間の地図

後半戦は最大の鬼門である川越~成願寺エイド間の37kmからスタートです。

エイドでは上にOMMのフリースとモンベルのバーサライトを、下にはウォームアップ用のロングパンツといった防寒着をしっかり着込み、首にはバフを着けて、手袋は3重にします。上用の追加装備にはウルトラライトダウンと50gくらいの極薄ジャケットを1枚ずつ、下用にはヒートテックタイツを重ね着も想定して2枚、それから補給食をリュックに詰め直し、さらにお腹と背中にホッカイロを張ってスタートします。
出走直後に悪寒を感じたトラウマの場所なので非常に緊張しながらのスタートとなりましたが、素晴らしいことが起こります。全然寒くないどころか、あまりにも暖かくて汗をかいてきたのです。しかもこの状態でまだリュックの中には数段構えの防寒着があるなんて、、、
タイム的にもかなりリードを稼げたこの展開で、一番怖いのが”夜間の寒暖差で内臓をやられて一気に動けなくなる”というシナリオだったので、この”暖かくて汗が出てくる”という状況でようやく少し「完走が見えてきた、、、」と信じることができました。信号で止まるといろいろな選手が追いついてきて、歓談したりする余裕もあります。
実は私は、昨年もこの区間を「夜のピクニック」として楽しめるものだと思っていました。
想像してみて欲しいのですが、”普段は賑やかな街をみんなが寝静まった深夜にその日だけ特別に夜更かしして名所巡りをする”なんて、その響きだけ聞くとちょっと非日常感があって楽しそうではないですか?
今年はちゃんとそういう感覚で、まさしく夜のピクニックを楽しめています。時々私設エイドや信号で立ち止まった選手と談笑しながら、本当にただ健康に歩けているというだけの事実に猛烈に感動していました。(これだけの過酷なイベントをみんなで一緒にこなしているので、行きずりの選手も”同志”、”戦友”という感じになります。)

入間市OLCに所縁のある人が多い朝霞も、昨年は吐き気と悪寒に震えながら通過したので(申し訳ないことに)ちょっと嫌な記憶を残してしまっていたのですが、今回で払拭することができました。LOVE ASAKA。

「みんな大好き朝霞を通過しているよ」と入間中堅LINEにメッセージを送る

とはいえ、総距離は207.5kmなので、104kmを通過してようやく半分です。まだまだ油断はできません。走ると上下動で内臓から込み上げてしまい、そこに冷えが重なって体調不良に陥るリスクも高いので、この区間もほとんど速歩で対応しました。ちなみに私の速歩は8km/hくらいでこれは相当速いらしいです。このレース通して何人かに「並走してるのに全然抜けない」「歩いてますよね?」「歩くの速過ぎませんか?」と口々に言われました。(それを身に着けておいたのも勝因でした。)

このコースで直角に右折する熊野町の交差点が見えると残りは約5km。すでに叫び出したいほどの興奮に包まれています。そしていかにもな東京の街中を進み、成願寺エイドに元気に到着した時の感動は生涯通して決して忘れることはないでしょう。

「成願寺よ、僕は強くなって帰ってきたぞ」
そんなことを心の中で嚙み締めました。1年ぶりに食べる鹿肉カレーはあまりにも美味しくて、3杯もおかわりをいただきました。

ここでは唐子エイドで我慢した小倉整体さんの神業マッサージを受け、最高の気分です。速歩でも大活躍した大腿四頭筋を押されると悶えるほど痛かったですが、マッサージは2人体制だったので隣で同じく押されて呻いている選手と一緒に笑い合うくらいには余裕がありました。

大江戸の醍醐味とも言える都内名所巡りコース ※青はエイド、黄色は撮影スポット

さて、ここからは1年越しの念願叶い、大江戸コースの醍醐味である名所巡り・写真撮影CPに挑みます。信じられないことですが、都庁~国立競技場~東京タワー~東京駅~勝鬨橋~浅草寺~鳥越神社の計7枚の写真を撮らないと207.5kmを完走しても完走と認められません。このあたりでスマホの電池が少なくなってきたり、疲労で意識が吹っ飛びそうになったりしていたので地味に嫌なルールです。
浅草橋エイドまでは比較的元気にナビゲーションを楽しみながら東京の街を歩き続けました。だいたい4時に到着。この時間帯になってくると、腰を落ち着ける時間が長ければ長いほど、立ち上がるのがキツくなりそうな感触があったので、ここではきりたんぽを1杯いただき、7~8分ですぐに歩き始めました。

この浅草橋エイドを離れてから約3km、150km地点くらいに差し掛かったところで一気に立ち眩みと吐き気が襲ってくる瞬間がありました。

「もしこの状態になったら信号ありで6km/hを切ることができない、、、」

カフェインで身体を騙しながら、ずっと動き続けているので、こんな身体の異常はこの先のレースでも何度も直面するでしょう。コース全体の約3/4を消化したものの、これからの道のりもまだ60km近くあります。成願寺を超えたからといってまだまだ油断はできません。浅草橋~おしなりの区間ではマッサージをしてもらって回復し、温存した分も少しは走るか迷いましたが、自分の身体にどのような変化が起こるか予測できないこの状態で、この後の区間もひたすら愚直に歩き続けることを選択します。
とにかく倒れずに休まずに歩き続けてゴールするだけが、その時取るべき戦略でした。

勝鬨橋から
夜明けを迎える

159.4km地点のおしなりエイドには3/10朝6時半頃に到着します。
先ほどの、12kmしかないはずの浅草橋~おしなり区間は本当に厳しく感じました。築地に向かう道はここまでの風景より寒々しくて、そういう環境的なキツさもありましたが、一番大きかったのは、とうとう「6km/hなら信号ありでも歩ける」という目算がズレてきてしまったことです。
立ち眩みと吐き気に襲われてからは、止まりはしなかったものの、もう速歩もできず普通に歩いて進むだけになってしまいました。
「たった12kmに2時間半もかかってしまった、、、このあと48kmもあると思うと、単純計算で10時間か、、、」こんなことを考えると憂鬱が襲ってきました。

しかしここで、とてもありがたい出会いがありました。
おしなりエイドはスタッフの方曰く「パワースポット」らしく、というのもスパルタスロンの世界チャンピオンである関家良一さんがスタッフとしているから、と関家さんを紹介されました。
少し関家さんの手が空いているタイミングだったので、思い切って訊いてみました。(恐らく、もう極限状態だったからこそなりふり構っていられず、恥も外聞もなく訊けたというのもあるでしょう)

「目の前の道が永遠に続くように思えて挫けそうな時はどうすればいいですか?」
私は浅草橋~おしなりで率直に感じたことを言葉にしてみました。

すると関家さんは一瞬驚いたようでしたが、すぐに

「先のことを想像すると辛くなるような時こそ、目の前の一歩一歩に集中するといいよ、それを積み重ねれば必ずゴールに辿り着けるから」

こんな言葉をいただけました。(ちょっと疲れ過ぎていたので若干意訳かもですが、、、)
この言葉のパワーは力強く、この先どんな時でも辛くなったら足元を見つめて、一歩を踏み出すということだけに集中するようにしました。
関家さんの握ってくれたというおにぎりを3個ポケットに詰めて、防寒着を脱いで、再び歩き始めます。

ここでもう一つの嬉しい誤算が。
浅草寺の写真撮影ポイントに東北大OLCの先輩である太田貴弘さんが応援に来てくれました!
全く想像してなかったので顔を見た瞬間は何が起こったかわからなくて、笑ってしまいました。このあたりは微妙にナビゲーションも難しい中で、私はなぜか海外から観光に来ていた方に写真撮影を頼まれてしまって、周囲に他の選手がいなくなって不安な心境だったので、しばらく並走もしてくれて非常にありがたかったです。
地獄に仏とはまさにこのこと。

太田さんと浅草寺で
おしなり~舟渡エイドまでの21.9km

8時頃に170km地点を通過、東大本郷キャンパス前の私設エイドではいちごとマスカットとトマトをいただき、あまりにも美味しくて声に出して「美味い、美味過ぎる」と言いまくっていました(リアクションが良すぎて「CMにしたいくらいだ」と言われました)。
もはや理性の欠片も残っておらず、歩く屍という感じです。屍なのに野菜や果物の美味しさに叫び出してしまうくらい、おかしなテンションでした。
ちなみに、この日は何人かの友人が静岡マラソンに出走する予定で、静岡マラソンがスタートする前に、自分も残りフルマラソンくらいの距離になっていたらいいな、と思っていたのでいい感じです。
本郷キャンパス前のエイドのおかげで気分も明るくなり、加えてこの日は天気がめちゃくちゃ良かったのは、疲労困憊した中でもせめてもの救いでした。

賑やかな王子駅前や赤羽駅前を通り、181.3kmの舟渡エイドまでは信号停止で一緒になった2447番の選手が比較的同じようなペースで、合流するたびに優しく話しかけてくれました。特に「残り30kmくらいで、まだ9時だし、これだけ貯金を作ればもう歩いてもゴールできますね」と言ってくれたのが本当にありがたかったです。
自分でももう多少のトラブルが起こってもゴールできそうなことはわかっているはずなのに、それを信じ切ることができないくらいには、追い込まれているのです。だからこそ誰かにそういう風に言ってもらえるのは本当に嬉しく、力になりました。
180kmの境となる道路を超えて、さらに1km。穏やかな公園の原っぱに舟渡エイドはありました。
残り26.2km、ここまで来れば残りは普段のトレーニングでもやったことのあるような距離です。この区間21.9kmは最後の関門だと思っていました。
「やった、あと2つだ!」
大きく叫んで喜びに打ち震えます。

舟渡~秋ヶ瀬エイド

精神的なものもあってかこのエイドで梅干しやフルーツを少し摂っただけでかなり回復し、あとはスポーツドリンクの補給とトイレに行ったら、滞在時間10分くらいですぐに出発しました。
たくさんの信号に止められ続けるコースの中で、河原はなんだかんだ言っても信号がないのでじっくりじっくりと進み続けることができます。
野球や演奏に興じる人がたくさんいる荒川の河川敷は楽し気でかなり気が紛れました。この日の空は死ぬほど青く、まるでようやく完走を確信できた自分の心の軽さを表しているようでした。この風景もきっと忘れないでしょう。

朝霞水門を望む

それでもやはり、そう簡単に問屋は降ろさず、朝霞水門の堤防を越えて大きく進路を北向きに取るようになると、猛烈な勢いで逆風が吹いてきました。
目の前に見えるはずの2km先の武蔵野線の線路に、いつまで経っても近づきません。この時は30分かけてようやく2km、エイドはさらにもう2km先、辛くて顔が歪みます。関家さんからもらった言葉を胸に、必死に一歩一歩を踏み出して進みます。
「2kmなんていつもの自分だったらどんな強い風が吹いていても8分で行ける距離なのに、、、」
このレースを通して何度も何度も、考えたことですが「今だけでいいから、つくばマラソンの時の元気な自分と交代したい、、、」と切実に思いました。

秋ヶ瀬エイド(193.1km)に到着します。
「もうなんでもいいから這ってでもゴールしてやる」と苦痛に歪んだ顔のまま思いました。そうめんと三ツ矢サイダー入りのフルーツポンチが最後の力を与えてくれます。もうあと14.4km。本当に本当に、あと3時間ちょっと歩くだけでゴールできる。決断が鈍らぬよう、ここも5分で立ち去ります。

秋ヶ瀬~蓮馨寺、最後の14.4km

強風の吹き付ける荒川の河原を上がり、以前大宮に住んでいた時に自転車で来たことのある道に出ます。
県道463と254の交差点という、なんだかやたらと入間市OLCっぽい場所でホームの風を感じます。

もうさすがにゴールはできるだろう、という感じでしたが、県道254のバイパスも河原ほどではないものの、風が吹き、やっぱり1時間に4km進めるかどうかくらいの状態です。
地図の中であと10km地点くらいにあったららぽーとが比較的早く見えて、ちょっと気が楽になったと思ったのも束の間、この道には似たようなららぽーとがいくつもあり、すぐに見えたららぽーとは手前のららぽーとだったことに気づいて、心が折れます。(まさかららぽーとにメンタルをやられる日が来るなんて!)
上の写真のような風景がひたすら続き、脚はどの部位も全て筋肉痛になっていて着地するだけで痛く、なかなか1kmの距離が埋まりません。身体を蛇行させるようにして、回転の力でなんとか前に進みますが、ひたすら苦悶の表情を浮かべていました。
200kmを通過した時に、それでも地図はまだまだ長く続いていることに対し、「この余計な7.5kmめ!」と悪態をついたりもしました。
この区間では秋ヶ瀬や舟渡に向けて折り返す230kや260kクラスの選手が逆走していて、お互いに声をかけて励まし合ったりしていました。自分よりもっと頑張っている選手に対して、せめて笑顔で応援しようと心がけていたのですが、残り7.5kmを過ぎたあたりからはもうあまり笑う余裕がありませんでした。
脚が痛くてもとにかく前へ。
無理矢理前進して、痛みに顔を歪めながらでも進みます。
そんな状態で最後に川越に向かう県道に入った時はもはや半分騙されているような感覚で、現実かどうかもよくわからなくなるような不思議な気分でした。

最後の県道はたったの1km、信じられないような感覚で足を進めると、小江戸として名を馳せた川越の街並みが見えてきます。人通りが多くなってきて、見覚えのある最後の交差点が見えてきます。
また勘違いで心を折られるんじゃないかと信じられないような気持ちでその交差点を右折すると、そこには本物の蓮馨寺があって、入るとスタッフやすでにゴールした選手たちが大きな拍手で私を迎え入れてくれます。

「ついにやり切ったんだ、、、これは本当に、栄光の記憶だ、、、」

大きな感慨に包まれ、こみ上げてくる感情もありながらゴールしました。

車で走っても疲れると言われた207.5kmを自分の足で走り切ることができたのです。この1年、何度も見たいと思ってきた風景がそこにありました。

「やった、、、!!!!!」
写真のチェックを終え、正式に完走が確定した後、まるで少年のような心で、34歳の満身創痍の身体をなんとか動かして、小さく叫び、ガッツポーズをしました。

ゴール直後に白石さんに撮っていただいた写真

最後に

2回このレースに挑んでみて、この距離はやはり自分には向いていないと思いました。このレースのことで憂鬱な気持ちになったり対策を集中して考えたりしている分は、仕事も疎かになっていますし、行き過ぎると家族の言葉を聴けていないようなこともありました。
途中にも書きましたが、そういうものは持続可能な趣味ではないと考えています。なので、このレースやこれ以上の超長距離レースにこれから出場するつもりは今のところありません。

それでも自分の中でトラウマでしかなかった感情と向き合い、乗り越えることができて、そして一生に一度このようなレースを完走できて、本当に良かったと思いました。

また、改めまして、特にXやLINEで熱烈な応援をしてくださったオリエンティアのみなさま、本当に本当にありがとうございました。
前述しましたが、今回のレースのテーマは「仲間がいる」でした。このレース中も何度も何度も心が折れそうになり、みなさまの応援なしには決して走り切ることはできませんでした。
特に応援してくださったみなさまには、その感謝の気持ちも込めてこの文章を読んで楽しんでいただければ、これに勝る喜びはありません。

それでは、お読みいただき本当にありがとうございました。(完)

小江戸大江戸の記録
レース中の総消費カロリー13718kcalを補填するため、翌日は銀座で念願だった大きなパフェを食べました。

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