木の文化の再生に向けてその三    第二のヒューマン・ルネッサンス、続き

前回、物質文明の呪縛から人間性の解放という第二のヒューマン・ルネッサンスが来るだろうと推測しました。最近、多く使われるようになったバイオ・ルネッサンスという言葉は、旧来の物質文明的所産に新しい衣を着せ替えただけであるが、本来の意味は第二のヒューマン・ルネッサンスであり、人類だけでなく地球生命全体の共生、調和を視座に置いたいのちの回復ということではないだろうかと考えています。
昭和61年(1986年)に総合研究開発機構(NIRA)が(財)工業開発研究所に委託してまとめた「21世紀へ向けての先端技術研究開発環境のあり方に関する研究」の中で、昭和28年からの推計であるが、伝統性、知性、感性を頂点とする三角形の中で、日本人のこれら三つの言葉の時代の中での重み付けの変遷を昭和28年から見たものがある。
それによると、昭和53年(1978年)までは、伝統性からの脱却、知性への指向が主流であったが、昭和53年を知性志向のピークとして、感性的志向にむかいつつあると述べている。この流れからみると、平成20年は知性的志向のピークから30年を経過しており、正に感性の時代のピークにあり、伝統性への回帰の入り口に向かいつつある時代になっているはずであろう。それどころか、ここ十数年のすさまじい物質文明発達のメガトレンドの中で一般の人々の知性、感性、伝統性は全て崩壊に向かいつつあるのが現状であろう。この現状を見ても、何ともお粗末な分析で、科学の進歩を見据えた多面的、総合的な視点が全く欠如していたことが明々白々であろう。この現状認識の甘さは、今日の社会を主導する連中に受け継がれ、政治、行政、学会、経済界全てに亘って悪化の一途をたどってきた感がある。
「文明」と「文化」という言葉の定義も一般的にはあやふやで混同して使われる場合が多いように、「感性」という言葉も実にあやふやである。ここに引用したNIRAの文章では、「感性」を「感覚、好みなど」と定義しており、この程度の動物的、恣意的な定義を基に進めるのであれば極めて低次元の分析と言わざるを得ない。
高次元での、「感性」の本来の意味は、特に人間の脳の前頭葉に発達した情緒中枢に存在するものであり、「おもいやり」、「やさしさ」などの言葉で代表される「他愛的心情」に基づき、知性や伝統性を総合的、統一的に統括、包合した人間の優れた属性と考えるべきである。
 物質文明の肥大化による物欲の亢進は、むしろこの高次元の「感性」を鈍磨させてしまい、今日のテレビ、スマホに代表される低俗な感性を助長させているだけである。TRIZ(トゥリーズ)の発案者であるアルツシューラーは、各人の思い込み、知識、あるいは各人の経験や直感で判断するのを「心理的惰性」と呼称し、これがいろいろの問題解決の最大の敵であると述べている。「心理的惰性」という言葉はさっぱり理解できないが、要約すれば、個々人の「自己中心的な発想」ということであろう。
 物質文明の肥大化する中で、文明先進国では人間の生命維持のために一番大切な農林漁業等の一次産業がデフレスパイラルに陥るという奇妙な現象が起こっている。これら先進国では、安い食材を手に入れるため後進国の一次産業を自在に操る仕掛けを作ってきた。このために、後進国の国民は環境破壊を含め塗炭の苦しみの渦中にある。パームオイルを生産するマレイシアやインドネシアではオイルパーム・プランテーションの拡大によるすさまじい自然環境破壊が進みつつある。
他方、化石燃料による環境破壊の防止のための代替としてバイオエネルギーが注目されるようになった途端、これが投機の対象となり、金だけが投機筋に流れ込む仕組みになってしまった。世界一の金持ちが投機家、投資家であるのを見ても、画一的、皮相的な本質を持つ「物質文明」の爛熟期であることがうかがえる。このような時代を「感性の時代」と呼べるだろうか。
私達は、一日も早く突出した物質文明にブレーキを掛け、高次産業と一次、二次産業間の産業連関の環を再構築すると共に、血液となる資金の循環を円滑にするような経済の仕組みを作り上げなければならない。(続く)

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