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銅版画家・山本容子の原点【アートのさんぽ】#18


銅版画との出会い

銅版画家・山本容子の原点は、どこにあったのか。
京都市立芸術大学の学生時代からたどってみよう。

山本が、同大学西洋画科に入学したのは1972年であった。学生運動のきな臭い余韻がまだ残っていた時期であった。

山本は西洋画科に入ったものの、絵を自由に描けなく、基礎のデッサンを強要さればかりで窮屈でしょうがなかった。受験のために美術研究所でいやというほどデッサンに明け暮れていたので、大学に入ってまで何で裸婦デッサンを繰り返さなければならないのかと苦々しく思っていた。

そんなときに、何でも自由に描けるコースのあることを知った。

それが版画コースだった。大学紛争時の大学システムに対する変革要求の一環として、学生たちが版画教室の設置を求め、1970年に正式に設置されたコースであった。担当していたのは、1963年から教えていた版画家で助教授の吉原英雄であった。

この版画教室には、全学に開かれた「版画基礎」と専門的に学ぶ「版画制作」との2コースがあった。「版画基礎」を履修した学生だけが「版画制作」に進むことができた。

「版画基礎」の人気は高く、1学年80名という先着順の枠があったため、登録日には行列ができた程だった。「版画基礎」は2ケ月ほどの集中講座で、毎週、複数点の版画の提出が求められ、1点でも足りないと落とされるという厳しいコースだった。吉原は、短期間で多くの版種を覚えさせ、1つのアイデアでも版種に応じて複数展開できる手法を編み出させ、各版種の特性を経験させることを目標としていた。

山本は本来なら3年生からしか受けられないはずの「版画制作」に1年生の時から潜り込んだ。そこで先輩に混じりながら現代美術の世界の一端に触れようなる。

版画教室の吉原英雄

あるとき版画教室のコンパで、吉原英雄の目の前に座った。山本20歳、吉原41歳であった。

「君はどんな絵を描いている作家なの?」と吉原は聞いた。

周りにいた学生達は、「作家」という言葉に反応して笑った。

まだ大学1年の女子学生に「作家」という言葉を使ったのがおかしかったわけだ。しかし、吉原は周りを睨みつけるように、「なぜ笑うのか。20歳くらいの女性にどんな作家なのか、と聞くのがなぜ悪いのか」と言った。

年齢や性別、国籍を越えるのが芸術の世界なのだ、と山本はその時つくづく感心し、「すごい先生がいるもんだ」と吉原に心酔していった。

この時期、吉原の研究室はオープンな場所であった。版画専攻の学生も、それ以外の学生も出入り自由であった。

吉原は、山本に対してそうであったように他の学生に対しても同じ作家同士という対等の意識をもたせるように心掛けていた。また他の分野の先生たちも気軽に出入りしていた。学長の梅原猛をはじめ、芸術論の木村重信、陶芸の八木一夫、彫刻の辻晋堂や堀内正和、映像のアーネスト佐藤といった錚々たる面々であった。

こういう中にあって学生たちは学生としてというよりも、一個の作家として渡り合わなければならず、第一線に立たされるような緊張感があったという。

当時、吉原はニューヨークから帰国したばかりであった。1972年の5月から7月にかけて、吉原は現地で活動していた友人の池田満寿夫に版画工房「ショーウッド工房」を紹介してもらい、初めてプリンター(刷り師)を使いリトグラフ作品を制作してきたのだ。そこでアメリカ式の制作プロセスに戸惑いながら体験し、池田からニューヨークの現代美術について見聞してきた。

学生たちは京都に居ながらにして、吉原からニューヨークの最新情報を教えてもらい、一流の先生たちからも独自の芸術論や文化論を聞くことができた。

山本もこの研究室で鍛えられていった。当時、コンセプチュアル・アートやハードエッジなどコンセプト性の強い傾向の現代美術が流行していた。山本は、自身が開放的な性格で、明るく軽快な傾向を好むことを自覚していたので、時代の閉塞的な美術状況との間のズレに大いに悩んでいた。

1970年代の美術状況


山本が本格的に版画制作を始める1973-74年頃、京都の美術状況も重たい雲が垂れ込めていた。

京都市美術館で開催された「1973 京都ビエンナーレ」は「集団による美術」というテーマで堀浩哉や村岡三郎、狗巻賢二、松沢宥、榎忠、池水慶一などがグループで参加し、政治状況や文化状況を反映した観念的な作品が大勢を占めていた。

またこの時期、国際コンクール展が開催され、多くの版画家が活躍した。1972年には、第8回東京国際版画ビエンナーレの国際大賞を高松次郎(ゼロックス)が、1973年のジャパン・アート・フェスティバルのグランプリを下谷千尋(シルクスクリーン)が受賞し、1974年の第9回東京国際版画ビエンナーレの京都国立近代美術館賞を木村秀樹(孔版)が受賞するなど、写真製版技術を使った版画が注目を集めるようになっていた。

とくに木村は京都芸大の版画専攻に在籍していた25歳の先輩で、身近なところから受賞ということで、山本にとっても大きな刺激であった。

山本容子の戦略


こういう時代の中で山本のとった戦略はこうであった。

時代と大きく乖離しないようにしながら、自分の個性を生かそうという戦略であった。

ひとつは個性的な線の使用であり、もうひとつは作品の中への文字の取り込みで、さらにもうひとつはオブジェの型押しであった。

まず個性的な線について。吉原英雄から、ある作品を見てもらって、「線を描くなら銅版画がいい」と言われたのを機に銅版画に集中するようになった。

やっかいだったのは身についてしまったアカデミックな線を取り除き方だった。それ回避してくれたのがソフトグランド・エッチング(*油分が多く粘り気のある「ソフトグランド」を使うエッチング技法)であった。これだと、銅版にトレーシング・ペーパーをのせて、鉛筆や筆、筆の柄、布などで描けば、バラエティに富んだ線の表情を生み出すことができた。そして、たとえ間違えても線を消さないと決めた。これにより、山本容子の独自の線を生みだすことができた。

作品への文字の取り込みは、線の魅力を補強するために行われた。ジャスパー・ジョーンズや高松次郎の文字の使い方も参考にしたが、線とのからみ方や反転した文字使用法、またそのリズム感に独自性を持たせた。

文字は、手書きではなく活版の活字を使った。いろいろな字形や級数の活版を集め、反復させながら使用した。

また、オブジェの型押しは、ちょっとした事故からはじまった。

ある時、服のボタンがたまたま銅版に落ちた。ソフトグランドが塗ってあったので、ボタンの形がそのまま写しとられたのだ。「あれ、これは型押ししただけで、図案が描けている」と感じた。そしてボタンに代わるものを探し、カミソリやバンドエイドなどをモチーフにした作品を次々と制作した。


初期作品の《Papa's and Mama's》


山本の初期作品と、吉原英雄の同時期の作品と比較して見ると、そこに共通するものとその独自性が見える。山本の《Papa's and Mama's》(1975)と吉原の《3本のフォーク》(1976)である。

山本容子《Papa's and Mama's》(1975)

《Papa's and Mama's》は、男性用と女性用のカミソリをモチーフとした版画で、横長の左側に男性用、右側に女性用を描いた。それぞれの左下にパッケージをカラーのシルクスクリーンで刷り、その側に型取りしたカミソリを描き、その上に男性用は七段五列に、女性用は九段五列から八列にわたってフリーハンドのカミソリを描いた。写真製版のシルクスクリーンと型取りしたカミソリ、そしてフリーハンドのカミソリを並べることにより、商品としてのカミソリが、個人に使われて、形も個性化していく過程を表した。既製品に主観が入り込む瞬間を見事に描き出したのである。

そして周囲に剃った髭や毛を象徴するような短い線を複数描き入れて遊び、また当時流行のアメリカのポップグループ「ママスアンドパパス」をもじった言葉遊びの要素まで付け加えた。


吉原英雄《3本のフォーク》(1976)


吉原の《3本のフォーク》は、女性がフォークでものを食べる場面を切り取って、3回反復させて描いたものである。女性の顔はリトグラフ、フォークはエッチング、背景はアクアチントと3つの技法を使い分けた。女性の顔はアメリカのグラビア雑誌から切り取った写真をもとに作られ、フォークは即物的に描写した写実的なものを組み合わせた。フォークでもの食べるという自然な行為ではなく、ちぐはぐで異質な感じの組み合わせであった。リトグラフ、エッチング、アクアチントで全く違う技法でその違いを際立たせた。

山本と吉原の作品において共通するの、カミソリとフォークという既製品をモチーフとして取り上げたこと。そして、そのモチーフを反復して使用したこと、複数の技法を組み合わせたこと、写真製版技術を使用したことなどである。

山本の独自性は、フリーハンドの線の面白さや、遊び心のある文字の使用による現代性や軽やかさにあった。

山本はカミソリのほかに、バンドエイド、牛乳パック、オロシ器などを〈JUNE BRAND '75〉というシリーズ版画として、1975年6月、アート・コアギャラリー(京都)の個展で発表した。

山本容子《Papa aid》(1975)

この時、吉原は京都芸大の教授陣、梅原猛や八木一夫たちに作品購入を呼びかけた。彼らが購入したことが評判となり、翌年のガレリア・グラフィカ(東京)での個展につながっていった。


《To the Park》


もう一つ、山本の《To the Park》(1978)と吉原の《波》(1977)を比較してみる。

山本容子《To the Park》(1978)

山本は1977年の第2回京都洋画版画美術展で新人賞を受賞し、副賞として翌年にヨーロッパへの研修旅行を獲得した。そしてイギリスやフランスを訪れ、この時にロンドンで見たタクシーをモチーフに《To the Park》を制作した。

ロンドン・タクシーの丸みを帯びた形や、その軽快な走り、ポップな表情を描いた。画面を三段に構成し、未来派の作品のように車を複数台描き、その加速するスピードや混雑する交通事情を表現した。線はソフトグランド・エッチングで描き、陰影はアクアチントを使った。

吉原の《波》は女性が海水浴する光景を不定形に切り取った作品である。銅板自体もその不定形に合わせて、腐食で切り出したものを使っている。

吉原英雄《波》(1977)

技法的には女性の身体部分をエッチングで、身体の濃い影の部分をメゾチントで、波の部分をアクアチントで仕上げている。三つの技法の特色を活かして、像を凝縮させ、特性の和紙にめり込むようにプレートマークをつけている。情緒に流れやすい銅版をできるだけ動きがあってシャープで、マチエールのある作品にしようとしたものである。

山本と吉原の作品には、1970年代という時代の「動き」を表そうという共通する意識があった。

ただ山本は、その時代の空気を肌で感じ取りつつも、軽さや遊びの要素を銅版画のなかに強く取り込もうという姿勢を貫き、タクシーのポップな動きに象徴させたのである。

 山本容子の軽妙な線で人物やオブジェを描き、音楽や詩を取り入れた銅版画は、広く受け入れられ、吉本ばななの『TUGUMI』(1989年)の挿画で人気に火がついていったのだ。

参考文献:『山本容子のワンダーランド: 不思議の国の少女たち』ふくやま美術館

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