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私がTANOSHIKAにたどり着くまでの歩み

エンジンデザイナーとしての仕事と発病

私は大学を卒業後、広島の自動車メーカーに入社しエンジンの設計開発の仕事に就きました。そこでは新しく発売される車に搭載するエンジンの設計をしてきたのですが、26歳の時その仕事上のストレスからメンタルが崩壊し、統合失調症になりました。その時の仕事は、エンジンのインターナル部品(ピストン、クランクシャフト、タイミングベルト関連部品)の設計業務を行っていました。設計図を描くだけでなく関連先(実験研究部門、生産技術関連部門、取引メーカーなど)との調整業務に明け暮れていました。
病気のため1年くらい入院しました。退院後はまた元の職場に復帰したのですが、同時に当時出たばかりのパソコンを使ってデータ分析の仕事をしていました。その後30歳の時に統合失調症が再発し、2度目の入院をしました。退院後は職場復帰したのですが、自前のパソコンで国産メーカーエンジンデータのデータベースを作成する仕事をするようになりました。

商品戦略企画部での仕事

その後、エンジン設計の仕事からエンジン企画の仕事に変わりました。当時インターネットが普及はじめてパソコンも会社から一人一台割り当てられるようになりました。ここでの仕事は、エンジン設計の前段階の仕事で将来に備えてどのようなエンジンが必要とされるのかを企画することでした。当時私が担当していたのはデータベースソフトを使って全世界の車のエンジンスペックデータとその生産台数分析ができるようなシステムを開発することでした。その時はいろいろなデータは社内の各所に分散しており一元管理されていませんでした。このシステムが完成した後、また病気が再発しました。入院はせずに、自宅療養していたところ降ってわいたような希望退職者の募集がありました。病気のこともありこの募集に応募することになり、20年間務めてきた会社を退職することになりました。

会社を設立する

インターネットが急速に発展してきたこともあり、これを活用して経営コンサルタントの仕事をしようと起業しました。当時中小企業診断士の資格を取得しようと勉強していましたが、これまた統合失調症が再発して夢半ばであきらめることになりました。
その後、大阪で不動産会社を経営していた義理の兄が広島に帰ってきたこともあり、起業していた会社を使って不動産業を始めました。仕事の内容は不動産競売に出てきた物件を落として転売する仕事でした。数年は続いたのですが、同じことを福岡でもやりたいという野心が起きて久留米にもう一つ不動産会社を設立しました。それと並行して不動産販売ソフトを購入してデータベースマーケティングを行いました。しかし、この久留米の不動産会社での借金が原因で首が回らなくなり破産することになりました。

広島から呉に

破産したため当時住んでたマンションも手放すことになり、家内の実家のある呉に引っ越しすることになりました。呉ではこれといった仕事もなく生活保護を受けていました。B型事業所でも働いていましたが、家内の兄弟が経営する産廃業の会社でも働いていました。その後、A型事業所で働くようになり生活保護からは抜け出せました。呉のA型事業所では、グリーンピア安浦で皿洗いやごみ回収などの雑用、海上自衛隊呉基地での文書交換などの仕事をしていました。その後、また統合失調症が再発しました。

呉から久留米へ

その後、家内と離婚したこともあり、兄弟の住む久留米に引っ越しすることになりました。趣味でホームページを作成していたので、関連する仕事をしているA型事業所がないか調べて所、TANOSHIKAを見つけて、応募することにしました。


最後までお読みいただいて、ありがとうございました。

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