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「多様性」について

('23/6/22に別場所で書いていた物のコピペです。
朝井リョウさんの『正欲』が多様性について書かれている物だと教えてもらったので、読む前の自分の気持ちをまとめておこうと思って書いたもの。
投稿時点では読み終わっています。読後の感覚もそのうちまとめたい)

そもそも、「多様性」って生まれるものではなくて結果だと思う。(結果という言葉がしっくりきているわけじゃないけど、近いニュアンスではある)

〇〇という事柄について、A、BやCという異なる意見が「そこにある」ことが多様性であって、それを「受け入れる」だとか「受け入れられない」という物差しではかるのはそもそもおかしい。既にあるものだから。そこにあるものは、誰かに受け入れられなかろうが無かったことにはならん。

「受け入れる」という姿勢は「寛容性」の話であって、それはあくまで「否定しない」だけで充分に成り立つ。
ちなみに、「賛同する」「同調する」と「受け入れる」は更に別の領域の話であって、
「賛同していない」=「受け入れていない」ともまた違う話だと思ってる。
(この話をしている時🦁くんに、「受容と容認は違うよね」と言われて、それ〜〜〜ってなった)

「多様性を受け入れよう」「社会は変化していくべき」
たまに、これがしんどいよね、ということを友だちと話してる。
受け入れられなくても周りが変わらなくても、そこにあるものなのにねって。
ある種の変化は必要なのかもしれないけれど、なんか微妙に違うんだよな。ニュアンスというかベクトルというか……。

ここから少し話が変わる(H/Kってあったよね、なつかしい)

「同性婚は家族観や価値観、社会が変わってしまう」というとある方の発言を見た時には思考が停止した。前後の文脈を分かっていないから、もしかしたら発言者の意図しない捉え方をしている可能性もあるが。

そもそも、いわゆる “マイノリティ” は突然湧いて出てきたものじゃなくて、そこにずーっと在ったけどみんなが見せないように/見ないようにしてきただけ。
それが表に出てくることを「変化」と言うのはおかしいだろ。
そりゃもしかしたら、「世間がこうだから」で抑えられていたものもあるかもしれないが、それはただの抑圧であって、そのままで良いわけがないんだよ。

「何が普通か」って聞かれた時に、ただ「幸せであること」って言えたら良いなって思う。無条件に。
もちろん、倫理的に間違っていることや、誰かの過剰な犠牲の上に成り立つものが受け入れられるのは難しいかもしれないが、その人が何を幸せと思うか、なんてもっと広く自由に想像されるべきだと思う。

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