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2022年 新年の抱負

2022年中にやるべきこと


2021年の振り返りが終わったので、三ヶ日のうちに今年の抱負を書いておこうと思う。
振り返りは個人事業主としてだったが、こちらは高橋智計個人としての領域も含まれている。

▼2021年振り返りはこちらから

といっても、極めてシンプルなTo Doなのだけど、なかなか重い話になってしまった。

今年中に私がやるべきことは、

遺言書を書く

ということだ。

なぜ唐突に遺言書?と思うかもしれないが、これは2021年を通じてずっと考えさせられたテーマがベースにある。

遺言書を書こうと思った理由を、いくつかのポイントに分けて記載してみたいと思う。

なぜ遺書や終活ノートではなく、遺言書なのか?

それは、「相続」に焦点を当てるためだ。

金をあの世に持ち越すことはできない。

至極当たり前のことだが、いくら金を稼いでも、死んだら金を使うことはできない。私がどれだけ仕事を回して金を稼いでも、私が死ねば、それは必ず誰かに相続という形で渡ることになる。

2021年は、思いもかけず相続人という立場を引き受けることになった一年であった。
故人も予期もせず希望もしていないであろう、相続を巡るブルシットな数々の仕組みや出来事、第三者からの介入に悩まされ、弄ばれ、私の人生の一部が意味なく浪費され、ある部分はもう元に戻すことができないほどに壊れてしまったことを、いまだに私は受け止めきれていない。

親からもらった命だろう、育ててもらった恩があるだろう、と人は言うかもしれないが、それは全く別の論点で議論すべき問題だと思っている。

そして、私の骨をどうして欲しいとか、どこに埋葬して欲しいとか、誰に葬式に来て欲しいとか、そういうのは全くない。
というか、誰も来なくていい。
だって、もう死んでるんだから。

会いたい人には生きているうちに会うべきだし、少なくとも自分の死に際しては、葬式のようなものに自分が大切だと思う人たちのリソースを1%でも割いてもらいたくはない。

ならば、私がやるべきことは何か?

自身が死んだ時に、それにまつわる相続対象物(金融資産、不動産、動産)を誰にどのように振り分けるか、これを決めておくべきだ、と考えた。

ちなみに、こんな方法があるらしい。ご参考までに。

と言っても、今の私が大したものを持っているわけではない。
わずかながらの現金、投資信託、仮想通貨と、二束三文で買ったリゾートマンションと、ポンコツの車と、今年納車予定のフォーティーエイトファイナルエディション(これが唯一のまともな財産だろう)くらいのものだ。

そして、重要なファクターなのが、私が個人事業主であるということだ。
今は大した財産はないが、今後個人事業主として、何を見据えて仕事をして金を稼ぐかは極めてクリティカルな議題だ。

自身の生きる意味を明確にして人生を折り返したい

個人事業主として一年間活動する中で意識していたこと。

生きること≒仕事をすること≒金を稼ぐこと

もちろん人生仕事だけではないが、過去にこれほど自身の仕事が明確に稼ぎとして現れた一年はなかった。

受けた仕事に対しては必ずそれなりの結果を出したい。
どんなブルシットジョブだろうが、いったん契約を交わせば絶対に結果を出す、そんな気持ちで仕事に取り組んできた。

振り返ってみて、もしかすると中には大した結果が出なかったものもあるかもしれないが、クライアントから、2度とこいつと仕事をしない、という評価を受けるような結果に終わった仕事はない…はず。

しかし、だからこそ、残りの人生が限られていることをしっかりと自覚する必要があると改めて感じた。

私は今年で40歳、80歳まで生きるとしたら折り返しだし、両親を見る限りは80歳まで生きられる可能性は極めて低いと考えざるを得ない。

では、自分にとって意味のある仕事とは何か?それは、私の人生にとって意味のある仕事であるべきだ。

そして、私の人生において仕事以外に意味があることがあるとすれば、意味も分からず取り組む仕事よりもそちらを優先すべきだ。

その仕事は、
・私でなければできない仕事か?
・対価を超えた価値はあるか?
・私のスキルが最大限に活かせる余地はあるか?
・その上で、私自身が忠誠を尽くすべき対価(金銭的な部分はもちろん、それ以外も)は十分か?

契約の際は、これらの要素を十分に考える必要がある。

もし、その案件に私が絶対に取り組むべき意味があるならば、それは人生において優先すべき案件であるはずだ。

ここでもうひとつ、重要なファクターがある。

相続すべき=バトンを渡す相手がいない

私は天外孤独の身であり、今後も私の血を受けた子どもが生まれることは恐らくないだろう。
よほどの紛れがない限り、高橋家は恐らく私の代で終わりだ。

だからこそ、相続の相手は慎重に選ぶべきだろう。
相手がもらって困るようなものを相続しても本末転倒だし、それによって他人の人生の一部がブルシットジョブに忙殺されてしまうのは絶対に避けたい。

全て現金に変えてしまって、慈善団体か何かに寄付するのが後腐れがないように思うが…それではあまりに私の人生の意味が薄まりすぎてちょっと気乗りがしないというのも本音としてはある。
一方で、いくら仕事の対価を求めたとしても、最後がそれではさすがの私もプロとしてのモチベーションを保っていくのは難しい。

可能な限りスムーズに、というのを前提に、少しでも私が理解している、あるいは少しでも私のことを理解してもらっている個人なり団体に役に立ててもらうことを想像すると、少しは今後の仕事に気合いが入るというものだ。

「死」の前にのみ、全ての人が平等になる

これは言うまでもないことだが、誰にでも平等に訪れるのがだ。

ビリオネアにもホームレスにも、牧師にも神父にも僧侶にも神主にも導師にも、男性にも女性にも、老人にも子どもにも、全ての人間が、いつかは必ず通る同じ道だ。

常にそれを意識しながら生きること、仕事をすることが今の私にとって何よりも重要なことだと思っている。

例えるなら、いくつ弾が入っているかも分からないリボルバー式の拳銃がこめかみに突き付けられるロシアンルーレットの卓に座っている、そういう状況を常に意識しておくこと。

そして、そのような状況(全く同じではないけど、国境警備隊にライフル向けられたことはある)でこそ、自身のモチベーションが爆上がりし、撃鉄を引くことを躊躇わず、その先に進むことができる。
こういったやり方が、Office NoMadの、高橋智計の仕事の流儀であること。
だからこそ、意味があると思ったことは恐れずに口に出し、行動に移すこと。

言葉にするとすごくふわふわしてしまうのは、ひとえに私の文章力のなさのせいだし、後で推敲したいと思うけど、とりあえず書き殴りたいことは書いたと思う。

なんて書いておいてあれなんですけど、ここまで読んでくださった方々には、きっと何かしらお役に立てる(営業じゃなく、仲間として)と思うので、今年もどうぞよろしくお願いします。

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