成田誠治郎従軍記録まとめ_11

【Vol.11】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

大東亜戦争 勃発

○昭和16年12月8日

3時 米英国と交戦 11時 宣戦布告

潜水学校卒業

○昭和17年1月31日

成績優秀(6番)のため、学校に残り教員助手(特定員)となる。
特定員の期間中、大竹町に新設する潜水学校の艤装の応援に、またその期間中、岩国の錦帯橋や宮島も見学した。

○昭和17年5月17日

第二艦隊特別陸戦隊に転勤、横須賀に集合。
本隊はミッドウェー島を攻略した後、潜水艦基地隊としての任務につく予定。
攻略部隊総務指揮官 海軍中将 近藤信竹で兵員2,800人、陸軍一木支隊3,000人。
私達潜基部隊は大阪商船豪華客船のブラジル丸。高速で28ノット出る。

敵前上陸の訓練のためグァム島、5月25日サイパン島で訓練した。

グァム島に上陸

○昭和17年5月23日

サイパン島に行かずにグァム島に立ち寄った。

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この島が日本の統治になってから間もないので、なんとなくアメリカ風の町が多かった。

町を散歩してみると住民は日本兵には興味がないのか知らん顔している者もいた。
日本兵が列をなして歩いていくので、私達もその方面へ行ったら共同浴場があったので入浴したが、まるでイモ洗いのようだ。
帰る時脱衣所に香りのよい石鹸があったので2つギンバイして帰り、途中食堂があったので入って見ると、話が通じないが指差しでフルーツポンチを頼み食べたが、特にうまいとは思わなかった。

公園で休んであたりを見ると、建物には良く白ペンキが塗られてあるのが特徴である。そして土台が高く家の廻りにはヤシやツバキのような樹木が家の廻りにあって日差しを除けている。

サイパンで上陸演習

○昭和17年5月25日

ミッドウェー攻略の敵前上陸の演習をサイパン島で実施した。

完全武装で上陸用舟艇に乗り、砂浜に上陸し道路を右に歩き、途中砂糖工場により。皆がアメ玉をもらいまた歩いて、山の上の海軍宿舎に行き昼食を終え休んでいると、東の方にテニヤン島がよく見えた。

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この後に、船が出港してから初めて我が隊はミッドウェー島攻略部隊の第二陣で上陸し、そこに潜水艦基地隊を造ることを知らされた。
その攻略は、空母、巡洋艦等大部隊らしい。
ブラジル丸より外洋を見ると黒い煙を出している貨物船も数隻見える。

ミッドウェー作戦

昭和17年5月15日、呉の潜水学校特定員をしていた時、転勤命令が出て第二連合艦隊特殊部隊に転出し、呉から国鉄で横須賀に行きブラジル号に乗船した。

○昭和17年5月28日

サイパン島を出港して一路ミッドウェーに快速接近して行き、6月3日午後、米軍の哨戒機により日本軍の大船団を発見された(後日になって知ったが、日本海軍の暗号を米軍が解読していた)。

昭和17年6月5日、17時頃突如空襲警報があったので、船内に入って鉄カブトをかぶり、急ぎ後甲板に出てみた。
もう日暮れとなったので、他の船は少しぼんやりと見える。

その時ブラジル丸は右急旋回した。
他の船からは探照灯が照射され、その光は3本見えて、空の雲が白くなって見えた時、敵機の大艇機(水上飛行機)が見えると思ったら一斉に高角砲の射撃が始まった。

本船もすぐ戦斗体制についての号令が発令されたが、私達は特に定められた配置はなくただ戦斗模様の観戦となった。
次第に激しくなりサーチライトも次第に増して、それに25mm機銃もドンドンと火を吹き始めた。

敵機はB17である。
時々雲の間から機影が見えると機銃弾が火の玉のようになって弧を描いて敵機へ飛んでいくが、なかなか当たったような所は見えない。
敵機は10機以上である。

戦斗員以外は船内に入るよう号令が出たので、私も上に甲板のある所へ移動した。
誰かが当たった当たったと大声で叫んだのでその空を見ると、米機と思うものが火を吹いて落ちて行くが、味方の船にも直撃されたものもあったらしい。

戦斗は20分くらいで静かになった。
友人と上陸は予定通りかなぁーと話していると、友人が日本艦隊は何をしているのかな、とつぶやいた。
6月5日にはミッドウェー島を空爆して軍事施設に被害を与えたとのことであるが...。

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