卒論_2005 Part.4

 火星での一日は、今日もいつもと同じように過ぎようとしていた。P9のポテンシャル、レオ・ポンシオは仮設住宅に帰宅すると、砂埃にまみれた汗臭い作業用宇宙服を脱ぎ捨て、いくらか着心地のいい簡易宇宙服に着替えた。彼がこの惑星に来てからすでに四ヶ月が経とうとしていた。
四ヶ月前、彼はPテストでP9にランク付けされてしまった。P9が意味するのは、火星の強制収容所へ送られるということだった。そして、いままで強制収容所に行って戻ってきた人間は一人もおらず、そこがどんなところなのかを知るすべはなかったが、今彼はその実態を味わっていた。
ここ火星では、仮設住宅の内部以外での宇宙服の着用は必須である。火星の大気はまだ人間が呼吸できる組成にはなっておらず、その日がくるのはおそらく数十年の歳月を待たねばならないであろう。
しかもこの宇宙服ときたら!外気は通さないのに、このいまいましい砂埃はいったいどこから入ってくるんだ?こいつを設計した科学者は相当根性のねじくれたやつに違いない、そう悪態をつくと、レオはその宇宙服を脱ぎ捨て、簡易シャワー室へと向かった。

 火星での労働の大部分は、火星唯一の輸出物である花粉を地球に向けて送ることだ。この仕事自体はそう悪いものではない。少なくとも、一緒に働く仲間はいる。孤独ではない。
 問題は、どんな小さなすきまも逃さず入り込んでくる火星特有の小さい砂と、絶え間なく彼らの仕事を監視する、バガーと名づけられた小さな虫型ロボットだ。もしこいつらがいなければ、ひょっとすると火星の生活も地球よりもはるかにマシとさえ言えるかもしれない。
「おい、レオ、聞いたか?例のプロジェクトだけどな、どうやら成功したみたいだぜ」
 花粉の袋詰めという流れ作業を淡々とこなすレオに、隣のレーンから仕事仲間のセルヒオが声をかけてきた。普段から落ち着きのないセルヒオが、今日はいつにも増して興奮していた。
「そうか、するととうとうPテストに合格した男が現れたってことか」
 さして興味がなさそうなレオの反応が物足りないようで、セルヒオはなおも熱っぽい調子で続けた。
「しかもな、例の男、昨日火星に向けて出発したらしいんだ。やっぱりボスのアイデアはすげぇよな!言うとおりになっちまったんだから!」
 その大声を聞きつけ、バガーが耳障りな羽音を立ててこちらへ飛んできた。セルヒオはそれに気づいてあわてて口をつぐんだがすでに遅く、バガーはまっすぐセルヒオめがけて飛んできて、彼のむき出しの腕を尻についた鋭い針で刺した。
「いてぇ!!わかったよ、おしゃべりはやめておとなしく働きゃいいんだろう、ちくしょう。おい、レオ、続きは後だ。今日ボスからそれについての話があるからな」
 バガーはなおも彼のまわりをぐるぐると旋回していた。

その夜は火星のレジスタンス組織、ヴァイアグラの会合の日だった。災害時は避難所として使われる小さな部屋にレオが到着すると、すでに彼をのぞいたメンバー全員が集まっていた。彼はバガーが入ってこないように慎重にドアを閉めた。ここが彼らのいつもの集会場所だった。すでにボスを取り囲む輪ができあがっていたので、レオは輪の後ろに小さくなって腰を下ろした。
「さて、これで全員集まったな」
ヴァイアグラのボス、アントニオ・マスチェラーノは、この火星に送られてきた最初の男だった。ここにいる誰よりも前から彼はここにいた。その低いがよく通る独特の声と、芝居がかったしゃべり方はどこか人を惹きつける魅力があった。
「でははじめよう。最初に、我々ヴァイアグラにとって大変喜ばしいニュースが入った。すでに知っている者もあるかもしれないが、ついに我々の努力が実を結んだのだ。先日地球において、花粉を吸った一人の男が、Pテストでインポテンシャルと認定された」
 その場に居合わせた一同は、一斉に感嘆の声をあげ立ち上がった。
「静かに!腰を下ろしてオレの話を聞け。いいか、我々の計画はようやく第一歩を踏み出したにすぎないんだ。例のインポテンシャルが火星に到着してからが我々の真の闘いなんだ。これからも、皆が一致団結してことに当たらなければならない。そのことをよく肝に銘じておくんだ」
「しかしボス、いったいやつが火星に到着したらどうするつもりなんですか?そろそろ教えてくれてもいいでしょう?」
 メンバーの一人が待ちきれないといった様子でボスに尋ねた。
「それは…まだ言えない。時が来たら話そう。約束する。一つだけ言えることは、この計画が成功したあかつきには、オレたちは自由を手に入れるんだ!もう女どもにおびえたり、劣等感を感じたりすることはなくなる!そして、その記念すべき第一歩が今日ってわけだ!さあ、みんな、今日の成功をみんなで祝おうじゃないか!」
 ボスの掛け声を合図にメンバーたちが大騒ぎを始める中で、レオは一人冷静に状況を分析し始めた。
 オレたちは火星に来てはじめて、すべての元凶が花粉にあることを知った。花粉を吸うことで、男たちは自らを管理する力を奪われてしまったんだ。そして、オレたちはその元凶である花粉を、毎日精製しては地球に送り届けている。つまり、花粉が地球に運ばれるためには、最後には我々の手を通らなければならない。
 ボスの狙いはこの状況を利用することだった。精製の際、花粉は30倍に薄めなければならない。これは、花粉の持つ依存性が強力すぎて、吸ったものが中毒症状を起こしかねないからだ。しかし、オレたちはボスの命令によって、徐々にその純度を高めてきた。バガーに見つからないよう、こっそりと。
 その高純度の花粉によって中毒状態となった者は、花粉なしではいられなくなるばかりか、花粉以外のものに対する興味を失ってしまう。そうなるとどうなるか?結果的に、他者への潜在的攻撃性はゼロになる。つまり、インポテンシャルになるってわけだ。
 この作戦は見事に成功した。ついに男の中からインポテンシャル第一号が生まれ、自由を手にした彼はさらなる花粉を求め、こちらへ向かっているという。
 しかし、その後はどうする気なんだ?レオは考えた。地球上にいる男を全員インポテンシャルにして、火星に連れてこようというのか?しかし、実際にはそれは不可能だろう。中央管理局はすでにインポテンシャル発生の原因を探り始めてるはずだ。そうなれば我々の企みも看破され、花粉はまたもとのように薄められてしまう。
 口には出さなかったが、レオの不安は次第に大きくなっていった。

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