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【Vol.13】成田誠治郎 帝国海軍従軍記

この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。
なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。

〇昭和18年4月

春になり霧が晴れると、重爆撃機B24が3~10機くらいで毎日7~8回偵察と爆撃に来る。

乙坂前隊長転出

〇昭和18年4月1日

乙坂隊長一行15名は再度入港したイ169潜に便乗し、内地に帰った。

〇昭和18年4月4日~10日

3日直後の荒天により、31号、33号係留索切断座礁損傷。

〇昭和18年4月16日

爆撃により29号、32号使用不能及び34号大破。

〇昭和18年4月21日

延べ81機の爆撃により兵舎1大破。
敵は時限爆弾を初めて使用。

〇昭和18年5月9日

イ34号によってキスカの甲標的をアッツ島で使用する予定であったが、荒天のため準備だけで終わった。

〇昭和18年5月12日

米軍の有力部隊は、アッツ島に対し強力なる空爆と艦砲射撃の援護により、約1個師団(約2.5万人)の兵力をもって上陸。
これに対し山﨑部隊長以下の守備隊は一丸となり決死の奮戦をしたが、我が方に利なく、5月29日、遂に約2,600名全員が玉砕した

私共はキスカ島において刻々寄せられる電報に接しながらも切歯扼腕するばかりで痛恨の日々を過ごした。
誠に悲惨極まるものであった。

当時日本軍玉砕の第一号として一億国民の心胆をゆるがした(山崎保代陸軍大佐以下2,638名) 。

〇昭和18年5月13日

キスカでは次は本当に上陸するとの予測から陣地の強化と意志の団結に努めた。

〇昭和18年5月19日

敵の上陸に備え自家製地雷作りを始めた。
その指揮は我が基地の中尉で、私と部下2名で作業をした。

まず容器は高角砲(12cm)の薬莢に、特潜の44式魚雷の頭部にある黄色の火薬を竹ベラで削り出し詰め込み、電気雷管(手製で電線2本間に細いヒューズ入り)を入れ、上部をコンクリートで封じて造った。

この地雷の実験を浜辺の砂の中に入れて2回行ったら成功したので、18本造って米軍の上陸時に波打際で爆破させるため準備した。

誠に危険な仕事であった。

〇昭和18年5月30日

特殊潜航艇も6隻あったが、長期の荒天による潮風でモーターの絶縁が低下して即戦力になるものは1隻となり、搭乗員も見切りをつけ物資輸送の潜水艦で内地へ帰った。

イ21潜では直島少尉以下9名が幌筵島を経由して呉に転進した。

〇昭和18年6月12日

敵艦隊は特潜の戦力低下を知ってか、南高高地沖合より大砲の砲団にパラシュートをつけて我が本部陣地に砲撃を加えてきた。
パラシュートをつけた理由は下図の通り。

〇昭和18年6月14日

特潜の29号、32号は使用不能となり、6月15日、31号と共に爆破処分。
これによりキスカ島の特潜基地機能がなくなり、搭乗員は転進していった。

搭乗員の中に村上の山辺里出身の稲葉庄二上曹がいて、私とはよく話をしたが、その後サイパンに行き、米軍と山の中で交戦中に戦死した。

〇昭和18年6月11日~13日

毎夜、米艦の夜間砲撃が島の各所へゲリラ的に行われ、その音が我が隊にも聞こえて不眠となった。

〇昭和18年6月23日

米艦の戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻による本部への集中砲撃が約40分あった。
この時の砲弾もパラシュート付であった。
被害は割合少なかったが、電探が一部破損した。

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