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現在地を踏みしめながら思う

「今週末は何するの?」
「日曜日は出かけるよ、土曜日はまだ決めてないけど。どうしたの?」
「最後の週末だからさ、何かしたいなって思って」

最後、かあ。知ってはいたけど、あまり最後だから!とか、そういうことを意識しなさそうな友達の口からその言葉を聞くと、本当にこの長い留学が終わりに向かっているんだって実感した。ほぼ毎日一緒にお昼を食べているけど、その子と二人で出かけたりしたことはない。勉強したことはあったけど。そんな子から珍しく週末の予定を聞かれて、せっかくだし何かしようよってことで、お土産探しの買い物をすることになった。最後の力ってすごいなと思う。

5か月カナダのバンクーバーに住み、5か月イギリスのブリストルという町に住んだ。正直後半の5か月のなかで何度も日本に帰りたくなったし、バンクーバーから移動した選択を後悔した。真剣に別の校舎にまた移動できないかなとか考えた。
絶対にまた再会したい友達をつくることは前半5か月に比べて難しかったけど、英語は伸びたと信じて、だからこの選択は間違ってなかったと、そう思おう。後半戦の総括はこれかなと思っていたところだったのに。最後の1週間が現実としてやってくる、って急にそれを肌で感じた金曜夜の帰り道、バスの中で涙が止まらなかった。
学校で見かけるたび、名前を呼んで笑顔で走ってきてくれるあの子、彼氏の話をしたらいつも照れ臭そうに顔を赤らめるあの子、毎日一緒にご飯を食べてくれるあの子も。叶わないと知っていても、私の毎日にあたりまえに顔を出してほしい子たちが何人も浮かんだ。ここまでこないとそれに気づけなかったことを少し申し訳なく思う。だけどやっぱり、私の毎日にいてくれる感謝を改めて思い出させてくれる、最後の力ってすごい。


桜が散りかけの2023年4月半ば、日本を出発したときには、1年後たっくさん成長して帰ってくるんだ!って意気込んでいた。
帰国を目前にして、いろんな感情が言葉を持たず自分の中をめぐっている。けっきょく1年前の自分が望んでいた成長の正体なんかまったく何のことかなのかわからず、ただただ23歳の自分が今日も変わらずにいるだけだけど、その "ただただ" を言葉にしてみたくなった。


小さな部屋を4人でシェアする5か月と、ハウスメイト2人、ホストマザーの4人暮らしの5か月の共同生活を経験してなお、部屋の片づけは苦手なままだ。部屋に友達を呼ぶ前に急いで部屋を片付ける癖は治っていないし、週に一度、一気にすべてを整理し、また少しづつ散らかっていく、そのルーティーンを抜け出すことはなかった。

だけど乾燥機をずっと使っていた1年のなかで、太陽の光と身体をなぞる風のなかで干す洗濯物が少し恋しくなった。
部屋を片付けたときにめいいっぱい手を伸ばしてコロコロをするのが好きだった。
洗濯物をたたむという作業は、なんとなく正しく、ゆっくり、時間を使っているような気がする。
自分の家の中では、みんながくれた手紙がたくさん入った箱と、朝の光を斜めに受け止めるリビングのドアが気に入っている。光がきれいだなと目を奪われる瞬間が、ここにきて増えた。

イギリスに来てから、夜ご飯を一人で食べることが圧倒的に増えた。キッチンで食べるのはめちゃくちゃ寒いし、狭い机でご飯を食べるタイミングが被ってしまうと、正直なんだか気まずくて、部屋にご飯を持って行っていた。だけどキッチンの物音を察知しては、部屋から出てきて、ただしゃべりにきてくれるハウスメイトが来たおかげで、キッチンで食べるご飯は、その子を待つちょっとしたわくわくになった。

旅行をするなら、人を求めて目的地を決める、そういうスタイルだったけど、せっかく行くなら自然たくさんの場所がいいってことがわかった。正直たくさんきれいな教会を見て回るより、緑と水と空が見えるところで座ってぼーっとする方がよかった。ディズニーランドと、メキシコのサンミゲルデアジェンデだけは別だけど。あそこは何回だって行きたい。

意外とその日急に決まる「授業終わったら、カフェ行こうよ」なんていう誘いが好きだとわかった。でも思い返してみれば、別府にいたときから「今から温泉いく?」って誘いに飛びついていたなとも思う。計画を立てるのは相変わらず億劫だ。

人に頼ることがずっと苦手だと思っていた。人に相談することなく、勝手に一人で爆発してしまうことが多いなと。だけどひたすら人と人のあいだで生活する1年で、どちらかというと人より自分の気持ちを人に託しているほうなんじゃないかと気づいた。それがいいことか、悪いことか、変えていきたいのか、残しておきたいのか、それはまだわかっていないけれど。

共有することが好きだった。おいしいご飯とか、お気に入りのお菓子とか、偶然見つけた可愛いアクセサリーとか。
スーパーを回りながらあの子が好きなお菓子を見つけたとき、その嬉しさを共有できる距離にいれることをうれしいと思う。


23歳という年齢で、同い年の人たちはもう就職をして社会に出ている人が多い。結婚しました、っていう報告を目にする機会も増えた。子どもがいる人だっている年齢だ。

隣の芝生は青く見える。その人についている肩書がどんなものであろうと、自分が持っていないそれはすべて等しく、なんか、すごく見えた。知らない世界を歩く人たちは、全員偉人に見えた。

23歳なのに。ひとまわり、いやふたまわり、大きくなって帰ってくるぞ、なんて思っていたのに。
なんだかんだ、相変わらずな23歳と半分の自分が今ここにいる。


ストレートで大学を出た同級生が働き始める1年をつかって、留学という選択をした23歳は、部屋を片付けるのが苦手で、人を頼りすぎてしまって、朝の準備には時間がかかるし、地道な努力っていうのもなかなかできないやっかいな23歳。

大丈夫なんだろうか、大きな何かに対して思う、本当に大丈夫なのかって心配は毎日のように隣にいるけれど、それと同時に毎日私の目の前に現れる大切な誰かが、大好きな1年だった。隣を歩きながら会話をするだけで、名前を呼んでもらえるだけで、その姿を見つけるだけで、なにか心躍る日々の一年だった。

変わりたいも、変えたいも、このままでいたいも、全部を胸に23歳残りの半年をまた歩いていくしか方法はない。とりあえず、また1年誠心誠意向き合いたいものがひとつは決まっている。ありがたい話だと思う。

1年のなかでここまで一緒に歩いてきてくれたみんなにありがとうを送ることが今できる精いっぱい。残り1週間、最後だねって言いながら、いやでも絶対また会おうねって言いながら、おいしいご飯を一緒に食べる。それが私の今できること。




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