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メルヒェンの中

図書館の一番隅、カレンダーとランプが置いてある場所が私の定位置だ。

その後ろの向かい合った本棚にはメルヒェンが肩を並べている。

ハードカバーの中には活字がぎっしりと詰め込まれていて、メルヒェンのかけらもなさそうにみえるが、それを読むと夢と魔法の世界が広がっていて、心がウキウキするような喜怒哀楽と冒険の世界が私たちを待っている。

ミヒャエル・エンデ作のはてしない物語では、冴えない少年が本を開くことで物語が始まる。それは私達も同じで、あの本や他の本も、開いたと同時に物語の中に入って、主人公と一緒に冒険をしている。

見たこともない景色を心の中で見て、その美しさに泣いたり笑ったり、その醜さに顔を顰めたり、共感したり。内面的体験とでもいうべきか、自分の中にある、自分の知らないものを見ることができると思う。

(随分お花畑のような考え方だな、と思われるかもしれないが、荒野よりもお花畑を望むのが人間なのに、どうしてわざわざ、荒野を増やすようなことをするのだろうか、現実という荒野から逃げるための、内面というお花畑なのだと。そう考える方がきっと楽しい。)

誰だったか忘れたが、誰かが言っていた、「本はインプットでありアウトプットである」という言葉。物語ではアウトプットをよく感じる。

自分の中で知っている情景や、絵画から見たことのない世界を作っていく。
それは撮った写真を切り貼りするようなのに、意識をしなくても見ることができる。

こんなことを書いているが、私は本を読むのがかなり苦手である。活字をずっと追うことができないし、本の言葉に集中をなかなか向けられない。

でも、図書館も、本も本屋さんも古本もどれもとても好きだ。本屋さんや図書館で並んでいる本を見るとき、この本の中には物語があって、誰かの書いた何処にもない世界が描かれていると思うと、どうも心がワクワクする。

古本を見ているとき、この本を前持っていた人、それを売った人、買った人ここでこの本を手に取った人。そんな物語がこの本の外側にくっついているのが見える時、とても嬉しい気持ちになる。

「本」という大きな波の中で、人がふよふよ浮いている。その流れは、何処かで砕けたり、浮いている人を運んで誰かと合わせたり、波自体が合流していたり、それこそ無限に広がり続けたり。

今は、電子書籍が猛威を振るう時代だ。ノートも紙で取らなくなったし、書類だってデータになる時代だ。

時代は波だ。本も波だ。人の心もきっと波だ。だから、いつか一緒に流れていくはず。何処かで合流して大きな流れになっていくだけで、消えて無くなることはないだろう。

カレンダーもランプも、机も椅子も、そこにはいつもメルヒェンを覗く穴が空いているだろう。

そんなことを本棚の間で考えた。

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