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のら、ふらふら:四.古き門の魔女見習い

 その日は朝から、色々あった。

 まず、起きたら部屋が水没していた。

 なぜ水浸しになっていたのか、それはわからない。それに関係する夢を見て(起きた時にはもう忘れていたけれど)無意識に魔法を使ったのかもしれないし、管理が甘く在庫の薬が反応を起こして、水が生成されてしまったのかもしれない。

 水道管の破裂ということはあるまい。

 確かにあらゆる設備が錆びついて、ガタが来ている家ではあるが、さすがにこれだけ漏水すれば音で気がつくだろう。

 往生がましく責任逃れの理由を探したところで、階下に別の住居がある団地の一室なのだ。この惨状で苦情が来ておらず、ということはこの部屋だけが五十センチ以上浸水し、室内で寄せては返す波が発生するなど、魔力の暴走以外にありえない。

 子どものころはよくやったものだけれど、大人になってまだ寝ぼけて魔法をつかうだなんて。水を含んでじっとり重たくなったマットレスの上、わたしは途方に暮れる。

 幸い、濡れている事以外、家の中に被害はなさそうだった。

 私物と商品がしまってある愛用のボストンポーチは防水だから波に流されていても困らないし、この部屋にはそもそも、元来の家財がない。

 巨大団地の一角にあるこの棟は、資産価値がないと見なされ長年放置されたことで、魔力が溜まってダンジョン化している。

 それを自治体が魔女を始め訳あり住人の専用住宅に定めたので、住人の入れ替わりが激しい上、幻想動物は生活に必要とするものがそれぞれ違うので、何も置いておけないというのが正しい。

 その代わり住人は住みやすいよう改装が許されており、窓を埋めて暗闇を作るのも、次元空間を拡張するのも、退室時に元に戻していくなら自由だ。

 かつて工場の独身寮であったため、従来の面積では狭い。人間なら我慢できるのかもしれないが、都会に住み何かとプライベートが必要となる幻想種のいきものには、この規則は逆にありがたかった。

 一応わたしには人に近い生態を持つということで、キッチンにバスルームあり、部屋には寝台が置いてあった。

 家具といえば、それきりだ。

 安眠のまじないも結界も貼っていないベニヤ板をくっつけて布を貼っただけの台で寝るわけにも行かず、置かれたペラペラのマットの上に、巣を作って寝ている。

 呪文布を重ねて敷き、枝を組んで覆っただけのテントだけれど、それなりに快適だ。覆いのどこにも湿潤していないのを真っ先に確認し、まずは安心する。

 ぼんやりしていても始まらない。

 わたしは思い切って、フローリングに足を降ろした。

 セントラルヒーティングのおかげで水はほんのり温かい。でもこのまま浸かっていては風邪をひいてしまいそうなので、とりあえずひと部屋分の水を集めて、バスタブに確保する。

 二部屋分集めるともう湯船の縁ぎりぎりになってしまったので、仕方ないので水は圧縮した。かさを押しつぶして小さくし、移し替え、それでも容量が十分ではなかったので、壁に滲みた分は凍らせて、とりあえず洗面台に置く。

 室内を乾燥させ、空気の換気をする。

 居間には、入り口の左手、片面いっぱいに大きな窓が二つある。中庭を挟んでいるとはいえ、大通りに面していて車の音がうるさいので、普段は締め切っているのだが、たまに開け放つと開放感があって悪くない。

 天気も良く、わたしは鼻から深呼吸をして、少しの間目を閉じる。

 玄関の定位置にいたせいで柄が濡れて不機嫌なほうきも、乾かして穂先を上に窓際に置いてやる。

 出かける予定もないので、一日自由に日向ぼっこさせてやるつもりだ。長い付き合いなので、性格も好みも把握している。わたしのほうきは、虫干しが好きだ。

 古い時代の住居が大抵そうであるように、この建物の排水管もとても細い。

 氷が溶ける速度で流れていくのは問題ないが、バスタブの方はどうするべきか、わたしは思案した。圧縮してあるので、そのままは流せない。かといって、これを凍結させるとどうなるのかわからない。従来の体積に戻り、さらに膨張する可能性もある。そうなったら部屋中が冷気に包まれてしまう。溶けるのを待つ間、風呂が使えないのも不便だ。

 魔法で一から錬成した水は、食用に向かない。

 いっそ分解してしまおうかとも思ったが、屋外でも街中で酸素を大量に発生させるのはまずい気がする。とりあえず更に圧縮して、魔法で固めてボストンポーチにしまう。次に海にいく時にでも、流してしまうのが良いだろう。

 買い物へいくべく、着替える。

 時刻は午前十時。来客は午後だが、用意をするのに時間はいくらあっても足りない。

 でも朝の始まりには、まず紅茶を飲まなくては。

 トラブルで順番が変わってしまったけれど、習慣はできるだけ準ずることが肝心だ。そうでないと気分的に一日が始まらず、もたついてしまう。ひとつずつ、やることをこなす。丁寧に時間をかけることで、優先的に終わらせることが見えてくる。

 やかんを満たし、火にかける。湧く間に、支度をする。

 ポーチの七番目のポケットから、ウールのワンピースを出して身につける。

 持ち物の中で、比較的新しい服だ。印象を良くするために、シンプルな装いを選ぶ。そして、毛糸を弄ると糸くずが落ちるから、黒はやめてオリーブ色にする。それでも目立つに決まっているが、これ以上明るい色の衣類を、わたしは持っていなかった。

 髪を梳かして整えていると、コンロのやかんの蓋が湯気に押され、笛に似た音を出した。

 閉めるのを忘れていた窓からの空気は新鮮で、冷たいが凍えるほどではない。でも傍でほうきが恨めしそうにしているので、近い方の窓は閉めた。

 まだ春は遠いものと感じていたけれど、案外すぐそこまで来ているのかもしれない。

 飲みかけの紅茶に目を落とす。砂糖が入った甘い朱色の水面が波立って、入れっぱなしのスプーンを中心に、光の輪を作る。空腹を覚えてわたしはキッチンに戻り、棚からビスケットの缶を取り出した。自分を労って、たまにはずぼらな朝食にしよう。

 おこぼれを目当てにした鳩が数羽、枠に止まってこちらを見ている。

 

 買い物は、近所のスーパーマーケットで済ませた。

 のんびりとココナッツビスケットを楽しんで、気がつくと昼近くなってしまったからだ。

 いつもはあまり使わないコンビニエンスストアだが、今日は必要とするものは多くないので、時間を優先することにする。小さめの店舗で値段は高め、でも開店時間が長く、団地のすぐ北にあって近いのが強みだ。

 生鮮食品は期待していなかったけれど、ちょうど棚出ししたところらしく、思ったよりも多くの果物が棚に陳列されていた。

 リンゴかナシでも、となんとなく考えながら物色し、鮮やかなプラムの赤紫色に誘惑されて気を変える。

 ロンドンは不思議だ。様々な気候に生息する果物が、季節に関わらず売られている。

 買い物を片付けてしまえば、残った家事の片付けは順調だった。怪我の功名か、水害が家の中の埃を洗い流してくれたので、掃除は必要ない。

 予定まで時間の余裕がありそうだったので、昨日粉にしたベラドンナを包んでしまおうと調合を始めたのはまずかった。つい没頭してしまい、調理中だった砂糖煮をやり直す羽目になってしまったが、でもそれだって慌てるまでもない。

 ロンドンの上空に、明るい水色の天。

 毛糸を巻き直しながら、窓の外を眺める。

 普段よりぐっと明るい部屋の中に、色鮮やかなの糸玉が転がる。わたしが入っていた袋をひっくり返したので、各々が好きな場所に移動し、出番がくるまでの自由時間を楽しんでいる。

 人間の物語では、百年は経たないと、無機物に意識が芽生えることはないと言われているそうだが、いつもそうとは限らない。魔法とは不安定なものなのだ。

 例えばこの団地は、大量の魔力を浴びたため、ダンジョンとなった。

 仮定と実験との間に一定の事象が現れることを保証するのがカガクで、そうではないから超常だ。恐らく原因が解明されたところで、条件を繰り返しても、同じダンジョンを造ることができない。設計通りの生き物を作り出すことは難しい。けれど生命自体は割りと頻繁に、むやみやたらに創造されている。

 でも、毛糸の擬人化はわたしの妄想だ。

 これは新しい外着になるのだ。知性は必要ない。あったら逆に困るので、編み上がったら念の為息の根を止めるつもりだ。

 毛糸は先週末、路上マーケットで購入した。

 自分も家庭療法薬と称してお茶を売っているところで、仕事の途中で急に思い立っての衝動的行動だった。

 どの出店が手芸品を扱い、かつ魔女とも売買をしてくれるか、唯一顔見知りの絨毯売りの女の人に相談した。それなら、と彼女自身の露店のトランクから、出してくれたのがこれらの糸だ。

 絨毯はラクダとカシミアでできているので、修理のために同じ材質の糸を用意してあったのだが、最近では解れたら捨てて繕わず、新品を購入するのが主流だ。

 売れ残って早数年、処分してしまいたいから安くする、との提案を受けて引き取った。

 普段ならけして選ばない色、そして何を作るにもそれぞれの色が少量ではあるが、手触りが良いので即決した。

 最悪全て黒く染め直すつもりでいたが、戯れに色を合わせてみると、印象が変わるのは面白い。出来上がったものがわたしに似合うかどうかは、また別の問題だ。

 代金を数える間、絨毯売りの女の人は、共通の知人であるスコットさんの話をした。

 スコットさんは物乞いの老紳士で、先月泥酔して亡くなった。

 マーケットが気に入っていたようだから、今でもまだこの辺をうろついているらしい。多分、意識はないだろうと言う。人混みをうろつくだけで、何をするわけでもない。生前と同様、古着を重ねて身につけているので、腐敗具合は外からではわからないそうだ。

「まあ、マーケット自体けして、清潔な場所ではありませんからね」

 女の人が自嘲気味に見る方向、フードコート唯一のゴミバケツは空き容器が積まれ山になっている。

 露店がなくても通常、駅の周りは酔っ払いが粗相をすることも多いので、饐えたにおいを誤魔化してしまうのだ。死体が歩くなど思いもよらない人間達には、ハエが何へたかろうと道にたむろっているのか、想像すら付かないに違いない。

 なんとなく、わたしはスコットさんにはまだ自我があるような気がする。

 死にたてのスコットさんと別れた次の週にも、わたしはマーケットに商品を並べていた。普段どおりだったし、相性の悪いマーケットの出店人に出くわさないため、少しは周りに気を配っていた。それなのに一切、彼の姿を見ていない。

 わたしは地域の秩序を守る月番の魔女が、早く仕事を片付けたのだと勘違いしていた。たぶんあの老紳士は、わたしと顔を合わせるのが恥ずかしいのだ。それが分かる程度には、わたしも人間のことを学習している。

 指に絡まる毛糸を引き締めて、わたしはふっと笑う。

 それにしても、来客が遅いように思う。

 正確な時間はわからないけれど、夕方ではないはずだから、もうやってきていなければおかしい。茶菓子はとっくに焼きあがっているし、二回沸かし直してカルシウムが浮いてしまったお湯は、捨てて汲み直してある。

 道に迷っているのかもしれない。わたしは編み物をポーチに押し込むと、カーテンを引いて外の様子を伺った。

 相変わらずの晴天に、午後からは少し風が出てきたようだ。

 晴れの後は水蒸気が発生し空気の流れを乱すので、突風が常習なのだ。特にここは、水路からさほど遠くない。路地が狭いので、余計に風圧を感じるように思う。

 居間からは、いつもどおり棟の中庭が見える。

 庭の向こう側、大通りとここからは見えない西側に少し、壁の跡がある。

 崩れかけた煉瓦を野イバラが支えている、といえば風情があるが、要は放置された前世代の遺物で、庭だって、言ってしまえば雑木がまばらに残るだけの空所だ。

 かつて団地には工場が併設してあり、煉瓦塀で囲われていたのだが、それはもうここの一部にしか残っていない。

 巨大な団地で駅に近い側は、家族用に改装し傍に公園と駐車場を敷設された。

 その周囲から順番に開発した結果、建築法の都合で緑地として残すしかなかった雑木林が邪魔となり、塀は残され、採算のとれない我らが棟が遺棄されたのだ。

 なにしろ広大な敷地の端、駅とは正反対にある。

 大通りからは雑木林が邪魔で通り抜けられない。そもそも入り口が、その逆にあるのだ。公道へ出るにも東には壁があるのでそのずっと向こうの反対側か、北にある人間の住む棟へ迂回するしかないという不便さだ。

 とはいえ、放置されるのにも、利点はある。

 勝手に畑を耕しても、文句は言われないということだ。階下の住民はその居間から見える場所に好きな植物を植え、テーブルをおいたり焚き火をしたり、好きに使っている。わたしとしても野草はもらえるし、バーベキューのお相伴に預かることもあって、良い環境だった。

 まさか畑にいるはずはないけれど、念のため確認してみる。

 庭にはただ、植木に水をやる隣人の姿があった。

 階下に住むこのムクドリに似た男性は、捨てられたクリスマスツリーを拾ってきて、植林するのを趣味にしている。

 幹で切られたドイツトウヒの幼木など、普通なら植えたところで育たないのだが、ダンジョンの影響か、数年前に植えたものはもうかなり大きくなっていた。いつか木材にしてバイオリンに加工するのだと言っていた。劇作家が楽器を作って、ミュージカル脚本でも執筆するつもりだろうか。

 あまり水をやらないよう、忠告しよう。でも後には忘れてしまうだろうな、と自分の物忘れを確信し、わたしは口の端をつり上げて庭の先を見る。

 壁の向こうには、六車線もある大通りがある。

 高架線の高速道路へ通じるスロープが中心に一車線ずつ、その横には変更車線があって、いつもかなりの交通量を誇る。ただし一番外側はそこまででもなく、ガートレールで他の二つと隔てられて湿っぽい。バス停があるが、あまり停車しているのを見たことがなかった。

 その車道にはみ出して、辺りを確認する女の子の姿があった。

 歩道は十分広いが、壁と雑木林の枝が邪魔だから、団地を望むことはできないのだ。

 わたしはガラス戸を叩いて、彼女の注意を引く。

 あけ放った窓から小声で、

「ここから、どうぞ」

 と、何が言いたいのか見てもわかるように、ほうきを手元に引き寄せる。相手は遠目にも明らかに、怪訝な表情を浮かべた。困惑はもっともだ。わたしも、普段は街中では人間のふりをしている。

 でもここは、どうせお化け団地と呼ばれているのだ。魔法を使い、ちょっと魔女らしい姿を見られても、今更他の住民に迷惑になることはない。

 やってきた車にクラクションを鳴らされた女の子は慌てて歩道に戻り、姿を消した。待てど暮らせど、塀を飛び越えてくるものはない。

 わたしは通り過ぎる車に目を奪われがちになりながら、リアクションを待つ。


 十分経って、玄関のベルが鳴った。

 初めて使う呼び鈴の、けたたましい音に飛び上がる。まごつきながらも何とかインターホンを操作して開錠し、ドアを開けて階段を上がってくる少女を見守る。

 細い首の上、やや緊張に青ざめた顔。目の間がくぼんで、そこにある小さな鼻がつんと上を向いている。アジア風の顔つきだ。

 肩にかけたトートバッグを、両手で握りしめている。

 訪ねてくることはわかっていても、どんな姿形かは知らないわたしは、思ったよりも年若い女の子へ、好奇心に満ちた視線を向ける。

 学校指定のマーク付きローファーが、廊下に乾いた音を響かせた。

 玄関のフレームに全体重を預けたわたしの喉はからからで、唇まで乾燥しきっている。

「窓からでも、良かったんですのよ」

 わざわざ迂回したのは、部屋に土を入れない配慮だろうか。棟までの道なき道、踏みならされた芝生の黒い土に汚れた女の子の足元を見て、幼いながらもできるその気遣いに、わたしは恐縮する。

 女の子は会話を交わさず、目の前の魔女に挑むように、

「なんであたしが来るの、わかったの?」

 と言った。

 わたしは黙って、手振りで部屋へと誘う。

 入り口は狭いので、形式通りに招くことはできない。挨拶は後にして、入り口を開けたまま、まずは一人でキッチンへ。オーブンからパイ皿を出し、湯を沸かして飲み物を淹れる。せっかくのお客さまだ。奮発して、とっておきの妖精の指茶にする。

 魔女は心境を顔には出さない訓練をする。

 伝統を重んじる派閥は特に厳しいと聞く。年を取り、感情表現がうまくなくなった目上の魔女への配慮だ。相手は若いけれど、どのような教育を受けているのかわからないので、わたしも澄まし顔で応対する。ロンドンで初めてのお客さんに、心臓は早鐘を打っているけれど。

「ねえ、なんでわかったのよ」

 キッチンの入り口から出方を伺って、女の子は質問を繰り返した。

 わたしはちょっと微笑む。警戒心はむき出しなのに、女の子はわたしが裸足なのに気が付いて、靴を脱いでくれたらしい。ブレザーにセーターの制服をきちんと着ていることといい、真面目な性格のようだ。

 お盆にティーセットを乗せ、横をすり抜けて居間へ向かう。

 横目で確かめた玄関扉は、半開きになっていた。気にせず、女の子についてくるよう、目配せをする。荒地の家などは、門に鍵そのものがなかった。施錠など、魔女の家には必要がない。

「あんた、先見の魔女なの?」

 じりじり室内の安全を確かめる女学生は、三つ編みを肩から粗っぽくどかして、先ほどより声を落とす。床に敷いたナプキンの上にお茶の用意を整え、座布団を差し出し、わたしは首を振る。

「いいえ、あいにく未来視が専門ではありません」

「それなのに、あたしが来るのがわかってたわけ?」

 思わず、後ろに下がって距離をとった女の子を見直す。わたしには、質問の意図が理解できない。

「このくらいの先見なら、誰にでもできますでしょう?」

 天気予報のようなものだ。

 夜寝る前、顔を洗うついでに明日のことを水鏡に占う。

 手軽に行えること以上はしない。予見で知る経験を、現実でも繰り返すのは愚かなことだ。偶然を許容できないなら魔女でいる資格がない。他人の秘事を暴くなかれ。そう躾けられて育った。

 女の子は、ちょっと呆れた顔をする。

「非常識なのね」

 わたしはにっこりと首を傾げる。

「よく言われます。なにぶん荒れ地育ちの、田舎者でございますから」

 痩せた地に住む者は、専門職だけでは食っていけない。パン屋の傍らで薬を売り、水路で問題があれば駆けつけ、呼ばれれば街まで降りていく。内外の様々な要望に応えるべく、広く副業の腕を伸ばすのが、上手く生きる秘訣だ。

 窓は開けておいた方が、よかったかもしれない。そろそろ室内に日が差さなくなり、ほうきは床に転がって、窓の下にあるヒーターのパネルに寄り添っている。寒がりなほうきなのだ。

「それで、あなたはどなた?」

 女の子が荷物を下ろす。床に正座すると、まだ緊張の残る顎を動かして、クロエと名乗った。

 ハイドパークの南にある、フランス系女学校に通う十二歳の学生だという。

 わたしはちょっと目を見張って、女の子の頭の上からみぞおち辺りまでを無遠慮に眺め回した。外見よりも、実年齢がぐっと低い。わたしと背が変わらないくらいなので、中学生にはなっていると思ったのに。

 よく見れば、化粧は色付きのリップクリームとアイシャドウくらいで、肌のきめ細かさは下地なしの天然そのままだ。柿渋色の制服に隠れた手足も、若干丸みが足りない。

 都会と地方で顕著な違いが、子どもの発育だと思う。

 同じ年齢を並べても、前者は大人びて身体も大きく、後者は小柄だ。街の生活の中で成熟した振る舞いを求められた結果、肉体の成長にまで影響を受けるものと見える。少なくとも、わたしが同じ年ーー魔女でいうところのーー頃では、こんなに落ち着いていなかった。

 クロエは去年、魔女の学校に転校して、寮生活を送っているという。

 イギリス国内でその制定する教育基準に追従するフランス公立学校、更に「特別な子どものためのクラス」に在籍するため、「規則だらけの門限に厳しい、まるで監獄のような」暮らしにうんざりしていると吐き捨てた。

 その学校は門に原始の魔女がかけた結界があって、第二次世界大戦でも校舎への空爆を防いだことで知られる。歴史がある、ということはつまり、伝統と慣習で固まった場所だ。

 わたしは重々しく頷き、茶菓子を分けようとして、差し込んだ刃先をひっこめる。

「ごめんなさい。ビクトリアケーキを作ろうとしてたのですけれど、ジャムはちょっと目を離したすきに、鍋から逃げてしまいましたの。プディングはお好きかしら」

「なんですって?」

 わたしは同じ言葉を繰り返す。

 果実を煮ている間に別のことをしていたら、いつのまにか居なくなってしまったのだ。そういうこともある。特に美味しく作ろうと、気合を入れて砂糖を計った場合には。

「……逃げたって、どこに?」

「さあ。プラムですもの、パブにでも行ったのではないでしょうか」

 それで今頃、ギネスでもあおっているのではないだろうか。わたしの意見にクロエは、唇を噛んで黙り込む。

 見ているとどうやら、クロエは怒っているのではなく、眉間の皺も制服の一部であるらしい。

 プラムとレーズンのプディングを手渡すと、苦虫を潰した顔のまま、素直に食べ始める。クローブを避けて、皿の端に寄せる。予見ではケーキのが吉と出ていたが、プディングもお気に召してもらえたらしい。

 躊躇いを見せたあと、いかにも渋々ながら、クロエは足を崩した。

「床じゃなくて、イスの方がよろしい?」

 わたしはボストンポーチから、赤い安楽椅子を取り出す。足がバッグの持ち手に引っかかって手こずるのを、少女は目を丸くして見た。

「魔法カバンなの?」

「ええ、知り合いのお古です。彼女はナニーだから転勤が多くて、家財一式が持ち運べる大容量のものに買い替えたときに、要らないから下さったの」

 都会の子には、沢山ものが入るカバンは珍しいようだ。ロンドンでは物を持ち運ぶ必要がないから、見る機会がないのだろう。荒れ地を移動するなら、荷物にテントと害虫避け、食料とランタンは必需だが、都市の中なら食べ物はどこでも買えるし、整備された道の傍の、ホテルに泊まればいい。

 使い古しで背後の皮が破けたウィングバックチェアは底の木板が重く、非力なわたしでは引きずってしまう。

 移動は早々に諦めて向きだけを直し、隣にスツールを出してそこにお客のカップを移動させた。スツールはずっと愛用してきたのに、足の間のつなぎ貫が折れて、自分で直したので、ちょっと不格好だ。

 クロスをかけて目隠しをしたにも関わらず、目ざといクロエに気づかれる。なんてこと、と女学生は非難の声を上げた。

「オーク材に、柿の枝で修理するなんて。あんた、本当に魔女?」

「ええ、だから失敗が多いのかもしれませんわね。わたくし、混沌の魔女と呼ばれております」

 わたしは照れ隠しに舌を出し、その言葉の間違いに思い当たって、真顔になった。文句を言いつつ席を変えようとしていた少女は、一瞬身を固くする。

「違いますわね。あまり呼ばれたことはありません。『名乗っております』が正しいでしょう」

 むしろ、”野良の魔女”と、認識されているような気がする。

 いつからだったか。確か水路で河童がそう言った。その後は誰に語ったわけでもないのに、なんとなく周囲から野良と名指しにされている。

 別種の幻想動物の間でも、なにかしら情報交換できる、連絡網があるのだろうか。

 プディングを切り分けて口に入れる。

 端が焦げたけれど、まあまあの出来栄えだ。季節外れのプラムは固く、だからこそ加熱したあとも、歯ごたえを残している。でもケーキのほうがよかったな。わたしは思いを断ち切れない。

 クロエは執拗に、紅茶のカップに息を吹きかけている。

 猫舌なのだ。皿の上の焼き菓子もバラバラに分解して、冷ますため放置している。わたしは特別熱いお茶を好むので、飲めるようになるまで時間が掛かりそうだった。

 観察するわたしに上目遣いの、少女の目が吸い寄せられる。

「あたし、魔女だけど飛べないの」

 来ることだけはわかっていた小さなお客さまが言う。

 いつまでたっても温度が下がらないカップをスプーンでかき混ぜ、とつとつと来訪の目的を語り始めた。

 クロエは、取り替え子だった。

 チェンジリングは妖精種の一部が行う慣習で、同じ日に生まれた人間の子どもと、自分の子をすり替えることを言う。クロエはその、人間に託された妖精の子だった。

 だからといって少女は、自分が幻想動物であると受け入れられない。

「だって、ずっと人間として生きてきたのよ。魔法なんて知らないわ。使えるわけがないじゃない」

 憮然と、お茶をかき回す。角砂糖を一度に、三つも入れた。わたしは慌ててクロエのカップに手を添え、飲用を阻止する。

「指茶ですの、妖精の」

 クロエは食器とわたし、その後ポットに目を向け、黙ってそれをスツールに置く。

 指茶の材料は小型のジャックフロスト種だけれど、一応は同族に分類される妖精だ。手が空いたクロエは膝で掌を擦り、所在なく室内を見渡す。

「本当の子じゃないってわかって、パパとママはあたしを魔女学校に入れたの」

 当然よね、気味が悪いもん。本当はどんなおばけなのか、わかりゃしないじゃない。

 やや自嘲気味に、クロエは呟く。

 妖精がなぜ子どもを取り替えるのか、詳しいことはわかっていない。

 数種の中でもほんの僅かな個体に伝わる伝統で、その彼らは共通する言葉を持たないからだ。一説には独自の宗教的儀式として、その裏で種の保存のために行っていると考えられている。

 クロエを見る限り、その推測は間違いのような気がする。

 目の前の少女はどこから見ても人間だ。

 多少目が大きすぎるが、完璧な擬態に、思考さえ同化している。別社会の一部として生涯を終えるとあれば、もはや妖精とは呼べない。種が保たれるとは言えないのだ。

 幻想動物は性質も体型も魔法で一瞬にして変えられる故に、遺伝子を軽視するきらいがある。魔女の中には、人間出身のものだっている。それでも道を極め、誰かがそうと定めれば、それで魔女の一角と成す。種族とは、もはや文化の継承だ。

 なんとなく、クロエの希望することが見えてくる。

 自身を知ろうにも、周囲が信用ならないのだ。在り方を一方的に押し付けられて、迷惑に思う気持ちも想像できる。存在の噂を聞き、どんな魔女なのかはわからないが、自分のことも知らない相手に、ただ話を聞いて欲しかったのかもしれない。

「例えばあなたの形だけなら、わたしでも暴くことはできますが」

 床からクロエを見上げて、ほとんど囁くような小声で告げる。クロエは敬虔な殉教者のように指を組み、小さく息を飲んだ。

 紅茶のカップに指を漬け、床板に文字を書く。フローリングの、ワックスが剥げた木目に、水が滲んで跡となる。指先の一滴の水が、座ったわたしの腕が届く半円に文様となって広がった。

 首から下げていた指輪の束を、外して一つだけ床に触れさせる。

 壁がひしゃげる。

 白いペンキの内側から、息を吹き込んだ風船が膨らむように、ゆっくりと触手が伸びる。無数の指が生え、そこから更に細い手が湧き出した。

 壁はいつしか内膜となり、塗料の質感は維持したまま、生きものの正体を現しつつある。最初の腕の周囲が波立ち、さらに数本の手がクロエへと詰め寄った。

 息を止めていた少女は、口元を抑えて震える。

 窓ぎわで暖を取っていたほうきが、飛び起きてそれを威嚇した。声に驚いたクロエは、思わずイスの上に飛び乗り四足を踏ん張って、編み込まれた長い髪を逆立てる。

 このまま好きにやらせておけば、ダンジョンは室内にある手あたり次第を、口に入れてしまうだろう。

「だめよ」

 誰へとなく、忠告する。

 わたしはダンジョンの手を取り、軽く叩いて落ち着かせる。わたしに魔力を乱されなければこの部屋に現れる気もなかった空間的幻想動物は、わたしの胴に絡みついて異変がないことを確かめる。

 栄養が十分に足りていれば、ダンジョンは基本的に大人しい生きものだ。驚いても、直接攻撃的にはならない。たまに体内に持ち込まれた家財を食べてしまうのも、ご愛嬌だ

 何の指輪だったのかは知らないが、わたしの首にかかっているのは、強い呪いのかかった装飾具だ。触れた衝撃を受けて、擬態するものはつい自肌をむき出しにする。術の解体には、これが一番手っ取り早いのだ。ちょっと乱暴な方法では、あるけれど。

 お詫びのつもりでプディングの残りを与えると、パイ皿ごと手のひらで飲み込み内側へと巻き込みながら、ダンジョンは元の形に戻った。壁は平らに、定位置へ収まって澄まし込んでいる。

 首飾りを所定の位置へ納め、ワンピースの中に潜り込ませる。腕に毛糸の糸切れがついているのに気がついて、そっとつまんで床に捨てた。

 気の毒なクロエへと振り向く。

 たった一年の在籍では、魔法に触れる機会が少なかったのだろう。あるいは大型の動物を目の前にするのは初体験だったのかもしれない。少女は怯えた獣がそうするように、いつでも跳びのけられる態勢で、アームチェアの上で低く唸っている。

 わたしに悪意はなかったことを示すのと、脅威が過ぎた証明に、自分のほうきを互いの間に横たえようと考える。ほうきが腹を出してのんきに転がっていれば、誰も危険があるなんて思わないだろう。

 ほうきへ手を伸ばし、「あっ」とそれに気がつく。

 見えないところで伸びていたダンジョンの触手が、ボストンポーチの中に忍び込んでいたらしい。毛糸が転がり出ている、その先に編んであった右袖が失われていた。

「食べられちゃった」

 がっかりして糸を拾い集める。

 気に入っていた朱色の毛糸は、あらかたダンジョンの胃の中に収まってしまったようだ。味が気に入ったのか、床板と床板の間、細く団地の口が開いて、若草色の毛糸を麺のように啜り込む。わたしは腹立ち紛れに、それをかるくひっぱたく。

 混乱が収まったらしいクロエは、イスから降りてわたしの手元を覗き込んだ。

「魔女って本当に、編み物をするのね」

 現実を見ていないような口調は気になるが、気をそらすのが良いように感じたわたしは、残った網目を押し開く。

「新しい外套を作っていましたの。ボタンで止めれるものが欲しくて」

「買えばいいじゃない」

 え? とわたしは振り向く。クロエはわたしとは逆に、口を閉じて後ろに下がった。たっぷり、数秒の沈黙。

「あの、買っちゃだめなの? 毛糸のコートなんか、あんまり高くもないじゃない」

 もちろんお店によるけれど、としどろもどろになるクロエに、わたしは呆然として返事ができない。

 買う。その発想はなかった。

 完成品に刺繍をすれば良かったのだ。材料に術式をしみ込ませながらこよれば、刺繍も小さくて済む。絹ではなく木綿か羊毛なら、さらに安価に仕上げられた。

 腕の中の毛糸玉に目を落とす。

 握りこぶし大一玉が、単色の床に水玉模様となって彩る。質は良いカシミアなのだ。破格ではあったけれど、けれど上着が編めるくらいの材料代。

 うちひしがれるわたしを、離れたところから見守って、クロエがしみじみと呟く。

「あたし、混沌の魔女知ってるわ。テストに出たもの」

 少女はわざわざカバンを引き寄せて、教科書を開いてそのページをさらけ出す。

 昔のことだ。

 世の中で生き物が一緒くたに暮らしていた時代に、狂乱を起こして世界をふたつに分断した魔女がいた、と書いてある。人間は魔女が作り出した病気を克服するために、錬金術から分岐した科学を、狂信するようになった、とも。わたしは大文字と、ピンクマーカーで下線が引かれた部分だけを読む。

「原始の魔女たちから追放された後、ほら、『各地を放浪しては、興味本位に諍いの種を、何度も執拗に撒き散らした』。歴史の教科書なのに、変な書き方だと思わない?」

 クロエが茶化す。先程の怯えは成りを潜め、一転して力の抜けた笑顔だった。

 わたしは安堵の息をつく。

 少なくとも人間社会を知っている者は、与えられた教育を疑ってかかることを知っている。慎重さは、どんな魔女を目指すにしてもーーひょっとしたらどんな生き物や職業にもーー必要不可欠な要素だ。今は魔法ができなくても、案外こういう子の方が、最後には優秀な魔女になる。

 布表紙の本には、挿絵がない。見開きの三分の一くらいに、混沌の魔女の悪行が、事細かに説明されている。疫病の元を作り出しては村を絶滅させ、嬰児の死体を集めて分解し新しい生物を作った。客観的に見て酷い所業だ。

「あんたは、そんなひどいひとに見えないけど?」

 クロエの言葉には、責め苛む響きはない。思わず口をついて出て、疑問以上の意味は含まれない。

 物騒な文字の羅列を指でなぞり、わたしはちょっと目を細めた。

「おもわすれの弊害なんですの。忘れてはまた思いついて、繰り返すものですから」

 いざこざを起こしては反省までも忘れ去り、また新しく問題を起こす。

 思いついたら結果が予想できていても、やって見なければ気が済まないのだ。無邪気な興味本位は時に、私欲や悪意よりも性質が悪い。

 何度も失敗を繰り返してようやく、原因に気がついた。

 世界中を回って置き去りにしてきたおもわすれの品を集め、手元に置くことで対策を講じる。そうしてやっと、世界は一人の魔女の厄災から開放された。

「じゃあそれには、頭の中の混沌が入っているね」

 視線の先には、わたしの鎖骨がある。

 鎖で繋がれた首輪を指でなぞり、わたしはちょっと肩をすくめて、曖昧に返事をする。封印されているのは激情と惨状だが、まあ、同じようなものだ。

 部屋の中を観察してみると、敷物の一部が溶けてなくなり、クロエのカップが乗ったスツールは、全体的に足が短くなっていた。

 あたふたと、商品を保管しているポーチの中を漁る。

 予想に反して商品に消えたものはなかった。けれど圧縮した水の塊と、お気に入りのバケツが掠め取られていた。わたしはがっかりして、荒々しくがま口を閉じる。

 いままでは、出しっぱなしにしておかなければ、何も盗られることはなかった。縫い目の隙間から触手を滑り込ませる技といい、「無害なダンジョン」の認識は、改めるべきかもしれない。

 わたしはブリキ製のかわいいバケツが溶かされて、別の金属に加工されないことを祈った。願わくば、罠へおびき寄せる撒き餌として、そのまま現れて欲しい。

 願望が余りに望み薄だったため、ため息をひとつ。カップの自分のお茶の上に手をかざし、温め直す。

「あたしにも、やって」

 冷めたお茶で満たされたカップを差し出して、クロエが頼む。正しい対応がどれなのか、わたしには即座に判断できない。妖精の取り替え子に、妖精の指茶。茶碗の青紫の液体の底、角砂糖が溶け残って恥ずかしそうに揺れている。

「飲んだことないから。高いんでしょ。給食に出てきたこと、ないもの」

 そう、本人が承知しているのであれば、是非もない。

 猫舌であることはわかっていたので、ぬるい温度に調整して温めた。本当は、喉を焼くほど熱いほうが美味しい。でもそれは、ひとそれぞれ。

「まあ、ケンタウロスとメロウくらい、違いますものね」

「どういう比較なの、それ?」

 クロエは勢いよくカップを傾けて、「何これ」と一言、顔を顰めて指茶を吹き出した。


 カモミールのお茶を淹れ直し、わたしたちはお互いについて語り合う。

 クロエは魔女のことをあまり知らないし、わたしは人間に詳しくない。直面して驚い戸惑ったことは意外と似通っていて、話は尽きなかった。

 もちろん、魔女学校の無駄な方針に関しては、二人の間に一切の異議はなかった。

 わたしは学校には通ったことがないけれど、同族の中での無駄な”暗黙の了解”にはうんざりしているし、校則の至るところにその片鱗が見えて、怖気立った。クロエのバッグに入っていた教科書を、二人で検分しては、揶揄してこき下ろす。

 もちろん、自分たちが絶対に正しいわけではないことには、気がついている。

 メトロポリスに足を踏み入れたばかりの頃のわたしは、人間の社会は生活の部分を省略しがちだと軽蔑していた。

 すでに数か月の滞在経験もあり、クロエの解説に耳を傾けてみれば、わたしの非難は表面的であったとよくわかる。文明が発達し、自然が減りつつある街の中では、確かに他の動物やわたしたちの同族が生きるのは難しい。けれど、例えば病気や飢えで死ぬものが、減ったのも事実だ。味はともかく、食べ物が量産・長期保存できるのは、それだけで称賛に値する。

 魔女には魔法がある。

 それだって、人間にとってはズルだ。便利さは、否定してかかるものではない。要は、どのようにして、どれだけ活用するか次第。

 知る、ということは、それだけでとても心躍る、楽しいことだ。

「魔法にはないのよね。ワッツアップなら、いっぺんに皆へ送信できるじゃない?」

 クロエが言うには、インターネットという情報通信網を使えば、意思伝達が簡単にできるのだそうだ。その上ソーシャルネットワークを使えば、存在さえ知り得ない世界中の使用者とたちまちニュースを交換することができる。魔女がちまちまと魔法で手紙を送り、使い魔に連絡させるのが、ばからしくなる手軽さは、”まるで魔法”だ。

「何て便利なのかしら。わたくしの従僕は肺呼吸ができないものですから、家族と連絡をとるのも一苦労なんですの。お友達に聞いてみてくださいます? 硫黄毒か夕方石か糸車か石苔か、混沌の魔女か誰か知りません? って」

 何か打たせてくれるというので、探しびとの手助けを頼む。人探しは続けているのだけれど、成果はいまいち、芳しくない。

「なんで? えら呼吸ってこと? だから使い魔バリエーションが肝心だっ、てアンジェリーナ先生が言ってたのね。……”知らない?”っと。でも多分、誰も知らないと思うよ。うちの学校、フランス系だもん」

 もちろんわたしも、イギリス系とフランス系が仲たがいしていることは知っている。

 人間の歴史と重なって(というか、人間の戦争に魔女なども参加させられていたので)、幻想種も顔を合わせればケンカばかりしている。

 でも、だからこそだ。時間間隔が緩んだ魔女のことだから、友人よりも逆に、敵の動向にこそ、動向に気を配っているのではないだろうか。

「直接さ、誰かに会いに行けば? 集会とかさ」

「それがわたくし、公式には現在、魔女ではありませんの。多分大丈夫とは思うのですけれど、目を付けられて暗殺されても困りますから」

「あーね」

 わざとらしく若者言葉を使って、クロエが納得する。手にしたスマートフォンから次々と間隔をおかず、軽快な電子音が鳴って、通知が届く。

 もちろん期待は裏切られ(ならばむしろ、期待通りと言うべきだろうか?)、年若い女学生は誰も、イギリス在住の魔女たちに馴染みがなかった。

 少女たちの話題はもっぱらアジアのポップ歌手、フラペチーノと昨晩のテレビドラマについてだ。色のついたアイコンや、送り合う写真画面を見せてもらう。内容はさっぱりわからない液晶画面が、妙に目にまぶしい。

 荒地で育ったわたしには、こうした幼少の思い出がない。

 年の近い子どもなどいなかったし、いたとしても成長速度がことなる人間と魔女だ。最初から諦めていたので、村に足を踏み入れた経験も少ない。

 だから今、たくさんの甘い紅茶と焼き菓子、バラの花の砂糖漬けが床の皿の上に散乱しているのが、むず痒かった。


 日がとっぷり暮れた後、ほうきで送っていくという申し出を固辞して、クロエが帰路につく。

 門限はとっくの昔に過ぎていて、寮長が戻らない生徒を探しているかもしれない。混沌の魔女と会っていたことがわかったら、「面倒くさいことになりそうだから」というので、大人しく引き下がるしかなかった。

 靴を履くクロエの額に守りの呪いを書く。暗い路地から出て駅に近くなったら、早めに消すよう言い含めた。ただの通行人に術が発動して、うっかり死人が出たら大変だ。

 帰り際、ドアの前のクロエが名残惜しくて、思わず声をかける。 

「わたしの母が言っておりました。保護者が子に教育を与えるのは義務だが、学ぶ選択は自由である、と」

 鋼鉄の重いドア、備え付けの古い郵便受けには、壊れた蓋がぶら下がっている。

 夜になって玄関先の寝床に戻ったほうきは、入り口横の温水板に寄り添い、うとうとした片目を開いてわたしを見た。

 わたしは、話をするのが上手くない。

 荒れ地での一人暮らしが長くて気が付かなかったけれど、考えることと、選ぶ言葉にずれがある。話したいことを、上手く伝えることができない。もたもたしているうちに、相手は次の話題に移ってしまう。

 ロンドンに来てから、それがわかった。

「この国には、意思のある生きものに権利を保証する法律があります。だから、わたしたち幻想種にも、市民として人間と同等の立場があるとされているんです」

「良いことじゃないの」

 いったい何の話が始まったのかと、片眉を上げてわたしの客は、核心を待っている。暗い廊下に、裸電球の光が、真上から注がれて、ほんの少しだけ目がくらんだ。

 クロエは細長い瞳孔に薄いまぶたで、左右で段階的な瞬きをする。

「搾取する形が、変わっただけなんです。衆生法は、自我がある動物を所有することを認めているんですよ。虐待は犯罪ですが、躾は合法だから」

 そしてそれを判断する基準は、時と場合に応じて、ヒトが定める。

 わたしたちは権利がなければ資源として扱われ、希少な種は保護という名目で囲われる。価値が低ければ弱く、『モノ』に近づくのだ。

 クロエはドアを開け、半分出かかった身体をねじり、まっすぐ顔を向ける。艶やかな唇に触れそうに垂れ下がるふたつの三つ編みから、荒れた毛先が明かりに透けて、その存在を主張していた。

「現在の時点で幻想種の幼体教育は、専門機関のみに許可されたことで、ご両親の意思の介入する余地はないのです」

「だから?」

 聞き手の声は、あくまで冷たく感情を含まない。

 そういうふりをしている。

「大陸の国々はわたしたちの権利を認めません。ただし社会制度のしがらみからも、自由です。将来もし、あなたがそう願うなら」

 そこまで言う。

 与えられた知識は、得心しなければ何の役にも立たない。あとは自分で判断すれば良い。できればそれが、わたしの思いついた真実と、同じであればもっと良い。

 わたしにもかつて子どもだった時代があり、親としての気持ちも知っている。

 階下を住民の一人が通り、鍵を開けて家へ入る。

 きっと、ムクドリ男さんだ。今日は練習が遅い日だから、これから夕飯を取って劇団のある隣町へ向かう。そういう習慣なのだ。

 廊下の蛍光灯が接触不全か、やけにちらつく。

 じっとわたしを睨んでいたクロエは、根負けして、歯を見せて笑った。口元以外の顔は、ぐしゃぐしゃになっていたけれど。

「口調がめちゃくちゃね」

「本当ですわね」

 つられて、わたしも笑う。

 思い描いたような、笑顔が作れていたらいい。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。