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のら、ふらふら:二.海に想いを馳せる

 荒れ地というのは、ヒースくらいしか生えるもののない砂地だ。

 ムーアと違うのは土壌の水分量くらいで、どちらもやせて生きものには過酷な土地である。農作物は望めないし、牧畜にも適さない。だから大抵あるがまま、整備されることなく放置される。

 その平坦地を、呪われた海と例えた詩人がいた。

 田舎から出たことのなかったわたしはこれのため、海をとても寂しいところなのだと信じていた。

 物悲しい、なにもない光景に心も虚無になるような、そんな場所だと疑わなかった。

 実際に海を訪れるようになった今、わたしはあの詩人は嘘つきだと思う。


 フォークストーンの海辺に、暗色の砂がどこまでも続いている。

 満潮ではないのに遠くまで底が見えるのは、春までは満干の差が大きいからだ。遠浅なので、余計に水の引きが強調されるらしい。向こう岸のフランスまでも、歩いて渡れそうな錯覚に囚われる。

 英仏海峡トンネルにほど近いこの寂れた港町には、砂浜と石の浜が存在する。

 色とりどりの小石が敷き詰められた浜は比較的駅に近く、遊歩道が備わっているので気軽にそぞろ歩きを楽しむことができる。近年では町おこしの一環でアートイベントに力を入れており、巨大なパブリックアートや仮設テントが、組まれるのもその辺りだ。

 砂の浜は、そこまで人気がない。

 まず、砂の色が悪い。

 空路が安価になった現代、どうせ海水浴にいくなら白い砂浜のほうが好まれる。

 そしてもう一つの悪点は、満潮になると、浜全体が海に沈んでしまうことだった。時間を選べば問題にはならないが、期限を区切られると気になって休息にならないという人も多く、敬遠される要因のひとつとなっていた。

 近くに屋台を並べて誘致しているにも関わらず、これらの理由で砂浜は、海水浴シーズン外、犬の散歩くらいにしか利用されない。

 干潮から二時間後、未だに日に当たっている広い海底の砂原は、ただ沈黙を守っている。見渡す限り、暗い砂がある限りだ。

「それでもヒースよりは、見るものは多いはずよ」

 わたしはつい、手にしたベレムナイトに話しかける。

 白亜紀に絶滅したこのイカの殻は矢じりに似た形で、見た目に化石らしくない。

 化石は、含有していた土によって成分や色を変えるという。この辺りの崖に含まれる灰色の粘土からは黒い化石が多く出土するのだが、ベレムナイトは茶色で半透明だ。

 もろくて折れやすいので、完全な形で浜に打ち上げられるものは少ない。拾って手の中で転がしているこれも、先がなくて円柱型をしていた。

 そもそも、この砂浜で拾える化石は、壊れたものばかりだ。

 古い年月をかけて海底に沈殿した粘土層は、現代では海岸すぐの切り立った崖にある。

 普段は乾燥していて、固まっている。それが雨や波に打たれて削れ、内容する白亜紀の遺留品を少しずつ露出させていくのだ。

 海に落ち一度沖へ流され、岩にぶつかりながら陸地に戻ってくる。そのため、無傷はほぼありえない。元が何だったのか、推測できるだけの形が残っていたら、御の字だ。

 潮溜まりはこの浜で唯一、砂以外の物が見つかる場所だ。

 舗道から海へ降りるコンクリート階段横、波で削れて凹んだほんのわずかな面積に、漂流物と共に化石がたどり着く。

 本当はもう少し北の海岸に、地元民しか利用しない小さな砂浜がある。

 石が積み上げられただけの防波堤があり、浜のすぐ上には粘土層が崩れ落ちた部分もあって、化石愛好家には最適な採集地とされている。あるいはそことこの砂浜の中間、岩場が穴場だ。地表が岩ばかりで荒れており、採集には多少危険が伴うが、直接地層にアプローチでき、運が良ければ完全な見本を手に入れることもできるからだ。

 それは知っているのだが、わたしはこの砂浜以上、遠くへ足を運ぶつもりはなかった。

 学術的に貴重な化石は、然るべき人間が見つければ良い。拾って更に砕くための化石なら、ここで十分手に入る。

 実をいうと、わたしには拾ったものの正体すら、定かではない。

 水の中で黒く、艷やかに光っていれば何かの化石だ。貝であれ骨であれ、ただの古い石の化石であれ、概念こそが必要なわたしは、それらを片っ端から集めるだけだった。

 水の溜まった砂に半分埋まった、アンモナイトの破片を見つける。

 螺旋の部屋が並ぶ、美しく滑らかな貝殻を想像していると、ここでアンモナイトは見つけられない。

 これは殻の内部に溜まった有機物が鉱石化して、やや平らにフラクタル展開している。造形の説明が難しいのは、長く圧迫されて変形しているからだ。折れた断面には、ウミウシの足を連想させる曲線が連なっている。それはそうだ。アンモナイトは貝ではなく、軟体動物なのだから。

 殻の小部屋の一つが手のひらに半分もある、ということは、生きている頃は全身が両手に余る大きさ以上だったのだ。

 そこまで育つのにどれだけの長い時間を生きて、死に、泥の中で眠っていたのだろう。

 敬意を表して、恭しくバケツに投げ入れる。 

 腰が痛くなりそうなので、休憩することにした。

 海岸へはスロープ以外、舗道から階段で降りられる。

 擁壁と一体化した人道は満潮でも水に浸らず歩けるよう、かつ隣の港からできるだけ並行にするため、浜から三メートルほど高さがある。

 長方形のコンクリートの塊を等間隔でアーチ型にくり抜き、それぞれに裏側から、踊り場を挟んで二本の階段に、手すりを付けて降りられるようにしたのがそれだ。常に日陰となるため、いつもじっとり濡れている。海藻が生えて滑りやすく(当然、子柱も例外ではない)、金属は錆びて、お世辞にも歩きやすいとはいえなかった。

 でも、そういう場所こそ、魔女には格好の場所なのだ。

 利用者が少ないということは、望むだけそこに座っていても、構わないということ。

 愛用のバケツをまず階段の三段目に置く。ブリキの腹をつま先で二回蹴って叩き、次は片手で円の中心を覆って、丸を描いて下から上へ押し上げる。周辺の水分が水桶に吸い込まれ、乾燥して座りやすくなった。

 ついでにそれを利用してお湯を沸かす。

 真水を抜くと、塩が余った。不純物まみれなので食用にできない.、けれどその辺に捨てるのもなんだか気が引けて、とりあえずポーチの中にしまう。

 わたしのボストンポーチは特別製で、ポケットが三十個くらいついていて沢山入る。

 だからこうして不要物も手あたり次第「片付けて」、いつしか忘れてしまう。掃除をしなくては、と気がつくのは主として外出中だから、先送りにしてまた亡失するのだ。

 ゴミから何か変なものが発生する前には、なんとかしようと心に誓う。今日では、ないけれど。

 今日の飲み物は、インスタントのコーヒーだ。

 小分け袋が便利だと知ってから、外出時のお供として持ち歩く出番が増えた。粉ミルクも砂糖も入っているので、手間がかからないのがうれしい。

 紅茶はきちんと点てないと飲めたものではないけれど、コーヒーはどうやっても匂いのついた泥水だ。こだわりはない。人間の香料の入ったものは食べつけないけれど、インスタントコーヒーはそのおかげで飲みやすく、その上用意が楽とあっては、活用しない手はなかった。

 熱湯にする必要がない代わりに、コーヒーの粉をよく混ぜる。

 キャラメルカプチーノの元はそのままお湯を入れるだけで泡立つけれど、勢いよく回転させるとふわふわで、そのものがお菓子みたいになる。コツはカップの半分までお湯を入れること、風の妖精にはけちらずスミレ砂糖を与え、渦が発生するまで円転を止めないこと。

 オレンジ色のホーローのカップは、ダイレクトにコーヒーの温度を皮膚に伝える。わざと取っ手ではなく両手で持って、口元で温かな湯気を楽しんだ。

 今日は良い天気だ。

 薄い灰色の雲間に、ところどころ青空が覗いている。溢れる光が沖の波に反射して、その下の水をより一層暗くしていた。

 水の流れる筋が、浮き彫りになる。確かにあの光景は、ヒースの枯れ葉が揺れる様子に似ている。

 なぜ大きな水溜りが、くすんだ枯れ草色をしているのかしら。

 目の前を、湯気が流れた。

 海には見るものも、考えることもたくさんある。


 持って帰った化石は、砕かれお茶の材料となる。

 昔、我が家でお茶といえば、日曜の三時に淹れる紅茶以外、様々な材料で作った薬湯のことだった。

 それは茶葉が入りにくかった時代、寒さを紛らわせ病魔を退けるために飲まれたもので、主に荒れ地で手に入る野草と、手近なスパイスでできていた。家伝の調合率があり、そのどれも苦くて、砂糖をたっぷりいれたいのに二さじまでと決められていた。

 お茶は家の十六人の娘たちが、調合の練習として用意するものでもあった。

 食生活改善に直結するため、この課題はかなり熱心に研究された。ニガヨモギ茶の改良ーー最も頻繁に供されるが、最も嫌悪される献立ーーに成功したのを皮切りに、効用と味を両立させた、いくつかの定番レシピが誕生した。

 自家消費の日用品だから安価、つまり商品としても優秀で、パン屋の片隅で売り出したところ家計が潤い、本物の紅茶が食卓に上がる回数が増えた、と我が家としてはきれいなオチがつく。

 誰も死にかけず、変身が解けなくなることもない。故に誰にも語られない、混沌の魔女の家の事情だ。

 化石入りのお茶は三女が改良した調合で、ドクニンジンを抜いて効果を弱め、人間でも飲めるようにしてある。

 上手くレシピ通りに作れると、ポットから注ぐ時に波の音が聞こえる仕様だ。

 でも失敗すると磯くさくなり、甘くして飲むのに向かない。わたしはこれを飲み物として販売していないので、少々味が悪かろうが、気にせず袋詰めしてしまう。幸運にも今のところ、クレームは受けていない。

「おもわすれの水薬?」

 しゃがみ込んだ女の子は、地面の上に無造作に投げ出された化石の粉入りの紙包みをひとつ手に取って、頓狂な声を上げた。

 ラドブルック・グローブ駅にほど近いその通りは週末、路上マーケットとして栄える。

 ロンドンのマーケットというと個人の嗜好にもよるだろうが、まずはカムデンやコヴェント・ガーデンが有名だ。華やかなそれらは観光用に整備されており、出店にも十分管理が行き届いている。

 ポートベローマーケットは、懐古主義路線で紹介されることが多い。

 けれど実を言うと、アンティークショップやおしゃれなカフェといった宣伝でアピールされる写真は、ほとんどがノッティングヒル方向で撮られたものだ。通りは同じ一本道なのだけれど、位置的には正反対で、距離もかなり離れている。

 ポートベローはどちらかというと、道に直接敷物をひいて不用品を売買する、蚤の市の立場にある。

 高級とは言い難く、扱いもぞんざいだ。中にはゴミから拾ったガラクタを並べ、売れ残ったらそのままそこに放置していく店主さえいる。

 警官の見回りは多くても、ある意味で地方密着型で商売が成り立つ場所だから、采配は完全ではない。治安そのものは悪くないのだ。ある程度まで目を潰れる者には、という条件においては。

 一応曜日で扱うものが定まっており、金曜日の広場では、衣類が中心だ。

 ただし手作り品ならば身につけるもの以外でも、付属品としてお目こぼしが貰える。土日、ノッティングヒルへ続く観光商店街で青果や地元食材の青空市があることと、広場正面の一角にフードコートがあるので、食品は推奨されない。

 だからわたしはお茶を、わざと家庭療法用ハーブの名目で売っている。

 クラフト紙の袋を手にとって、開いてお客に中身を見せた。

 茶色の、薬包紙が歪な五角形の顔を出す。薄いパラフィンの中には乾燥させた野草が少し、そして微細な粉が舞い上がってしまわないよう、スターチと混ぜ合わせた小さめの塊が入っている。同封した説明書きは、引っかかって出てこなかった。

「これは物を忘れたい時に、お湯で煮出して飲んだり、目に塗ったりするもの。多用はお勧めしません。そっちは毒素を抜くもの。同じ用法ですが、目に使うと涙腺から黒い塊が出ますから、夜に内服をお勧めします」

 使用頻度が多い商品は、包装はなしで瓶に入れて並べてある。その他、特殊だったり数が少ないものはボストンポーチにしまったままで、がま口にピンで品書きを留めた。「ご相談はお気軽に」と書いたけれど、声をかけられることはまずない。

 地面に絨毯を直接引いただけの、小さなわたしの店。

「魔女は長く生きますので、時々記憶を整理する必要がございますの。それが苦手なものもおりますから、薬で抜き取って別のものに閉じ込めるんです。生活の中で思い出に浸る時間が増えると、煩わしいでしょう?」

 女の子は揃えた膝の上に袋を置いて、顔をあげてわたしを見る。

 亜麻色の髪を長く伸ばした、可愛らしい子だ。同伴の男の子の友達というが、学生のわりにはわたしでも知っている高級ブランドのバッグを持ち、優美な装いをしている。もっとも、魔女の見習いが着用を許されるのは師匠の古着のみだから、同じ学生として比べるべきではないかもしれないけれど。

 コート着用なのにデコルテまで開いた襟に、金の首飾りが光る。

 ペンダントヘッドには、リングが何個も複雑に絡まった塊。女性の首元なのに不躾にも、つい注目してしまう。

 気がついているだろうにそれに気が付かないふりをして、女の子が髪を耳にかけた。

「嫌なことを忘れたい時とか?」

「嫌なこととか、愛しすぎたこととか」

「ふうん」

 やりとりを後ろで聞いている友人の男の子は、三日くらい寝なくても元気でいられる人魚の結石から作ったお香と、アネモネの傷軟膏を見比べている。

「一応聞いておきますが、これ。幻覚が見えるアレではないんですよね?」

「まあ、素敵ね。幻覚には、何を混ぜたら良いのかしら」

 わたしが言い、男の子は黙り込んでしまった。アレというものの原料はどうやら、企業秘密であるようだ。

 この子は先日バスで乗りあった建築学科の大学生で、その時マーケットに出店している話をしたのを憶えていて、わざわざ訪れてくれたのだった。

 男の子は論文の締切が近いので、本当に寝なくて良いのなら助かる、と言った。

 お香は本当に効果はあるけれど、それならこんなところで遊んでいないで、家に帰ったほうが良いのではないかしら、とわたしは思う。ハッカ飴をおまけにつける。集中力が高まる効果はあるけれど、これはごく普通のお菓子。

 女の子は悩んだ末、肌をきめ細かくする鉱石水を選んだ。

 化粧品には繭玉を添えるのだが、思い直して、おもわすれのお茶を一封差し出す。

「お守りに」

 購入を悩む理由が金額ならば、進呈しておこう。悩んでも、使う必要はないのだ。手段を確保しておくことは、時に心の安定に役立つ。

 女の子はわたしと袋を見比べて、恐る恐る紙袋を指に挟んだ。口の中でもごもごと、礼の言葉らしきものを呟く。わたしはそれを、微笑ましく見つめる。

 沼ネズミのことを思い出す。

 みすぼらしい泥炭色の、小さくてぶんぶん飛び回る、あの生き物。わたしが生涯初めておもわすれをしたのが、彼らに関することだった。

 幼年だったこともあり、他の魔女がわたしに術式を施した。そのため上手いこと、生態など基本知識はそのまま頭に残っている。でも実際の経験で思い出せることといったら、「あのままだったら、沼ネズミが絶滅していたかもしれないわね」と囁いた母の口元、それきりだった。

 あの時の思い出は、確か持っていたビー玉に入れた。多分、まだポーチのどこかに潜んでいる。

「それにしても、売れませんね」

 男の子が言い、わたしは率直な意見に苦笑いを返す。

 魔女の店は、マーケットの汚点なのだ。

 人間の世界には平等という概念があって、物事の平均化を試みるのが美徳とされるらしい。わたしはまだはっきりと理解したわけではないのだけれど、時と場合によってこの概念は、規則に組み込まれることがある。

 例えばこのマーケットだと、出店者が白人のみだったり、イギリス国籍者ばかりであってはならない。社会では老若男女が、バランスよく働いているべきなのだ。

 また金利目的だけでなく、社会奉仕に貢献する義務もあって、チャリティ用、地域活性用と、そのための枠が決まっている。そしてひょんな縁があって、わたしが魔女枠を埋めることになったのだ。

 わたしに与えられたのは在籍という事実だけなので、番号がつけられた屋台を置く、スペースは貰えなかった。

 きっちり働くわけではないから、それは構わない。床に居座るだけの権利だけで満足だ。

 ただ、道路に面した一等地は必要ないにしても、多くの同業者がわたしを魔女だと知っていて、隣を貸さないのには参った。

 広場内を追い出され続けた結果、雨除けに張られたタープがぎりぎり届かない、隣の公園との隙間が、定位置となる。一応、前にひとが通れる隙間はあるものの、両隣がハンガーラックをはみ出しているので床の店は見づらく、おまけにどちらも背後に垂れ幕があるので、完全にマーケットから孤立してしまっている。

 そんなわけで、客はほとんどこない。

 公園の黒い鉄フェンスが固定された、腰ほどある煉瓦塀に座ったわたしに会いに来るのはリピーターか、魔女の噂を聞いてくるひとだけだ。事情説明の手間が省けて、楽ではある。一見の客には必ず、自分が魔女であることを明かさなければならないと、マーケットの運営に口酸っぱく言われているのだ。

 男の子はわたしの手を飾る指輪を指して、そういうのとか、と助言をする。

「アクセサリー、売ったらいいんじゃないかな。アンティークですか?」

 わたしはつい、ローブの中に手を隠す。

「これらは、預かりものなんですの。本当は普段使いには向かないのだけれど……」

 わたしはそこで、言葉を切る。

 もうちょっと若者との会話を楽しみたかったのだが、広場の人混みに見知った顔を見つけたのだ。

 ふたりを追い立てるように帰らせる。女の子は話足りないのか、不満げな顔を見せたが、「気分良くデートを終わりたいのなら、行きなさい」と囁くと、あっさり頷いて去っていった。きちんと、わたしが目を向ける反対側から。

 人間でも時々、若い女の子は勘が良い。

 名残惜しそうな男の子に手を降って、わたしはひっそりと感心する。

 冬のロンドン、快晴というのは、諸手を挙げて歓迎できない天候だ。

 雨ではないのは確かに楽だ。傘の間を縫って歩かなくていいし、濡れた服に煩わされることはない。

 では晴れた空の下、歩きやすいかというとそうでもないのだ。

 気温が下がりやすいからか、地面に湿気が溜まって濡らし、そして凍る。平地ならばまだ良いが、傾斜のある日陰なんて最悪だ。滑って、移動さえ困難になってしまう。

 サーカスのテント様したマーケットの雨よけはちょうど、アイスリンクを作るのに適している。

 地表のアスファルトが古く波立っているので、凍る水溜りは一部分だけだが、足元を見ない通行人をつんのめらせ、そこにあるだけで冷えを助長させる。

 ポーロベローマーケットの通りから、下り坂になっているもの良くない。おかげで水だけでなく、様々なものが無意識に、やってきやすい環境を作り出している。

 それは行儀よく歩行者に道を譲り、ゆっくりとマーケットの中を見て歩いている。

 顔を合わせないよう、わたしは絶妙に焦点を外す。わたしは嘘が苦手なので、目線がかち合えば表情に出てしまう。見えていることに気づかれては面倒だから、ヒトのふりをしてやり過ごすのだ。もう何週目かわからないほど繰り返したので、慣れたものである。

 たぶん、そう年を取った人間ではない。

 頬が痩けた男で、毛糸の帽子を被っている。ヘリンボーン柄のパイピング縁の上着は室内用だと思うが、流行には疎いので断言はできない。同布の帯で前を縛るタイプの、体のラインが出にくい形だ。だから一瞬は、その異常に気が付かない。

 頭全体を覆う帽子と額の境界に、ざっくりと傷口が割れている。

 切り傷ではない。力任せに引きちぎった切断面には脂肪の塊ができていて、動くと溢れ落ちそうに揺れる。血はほとんど見えなかった。傷口の下、右目の目尻が赤黒くなっている以外、出血は少ない。

 常人がそうあるように前に出す、足の動きはスムーズだ。本来、イメージ通りであれば、それで人間が歩いている仕草を模範できる。

 でも彼は「何が自分に起こったのか知っている」らしく、折れた背骨が物理としてあるべき反動を、潰れてねじ曲がった足が体重を支えられない事実を、想像する通りに再現する。崩れ落ちてなんとか持ちこたえるのを、びっこに見せかけて。

 そして、足に引きずる女の死体。

 女はいつも、うつ伏せになって動かない。足が不自然に曲がっているので、同時に交通事故に巻き込まれたのだろう。男に引きずられすぎて、最初に見たときよりも顔面が薄くなっている。削られる肉体はもうないのに、あるべき姿を自分で決められないのが哀れだった。

 男は通行人とぶつからないよう、器用に人波の切れ目を進む。

 とはいえ生前と同じく、自分の意識が届かない部分には手落ちがある。広がったコートの裾が、道行く女性のスーパー袋をすり抜けた。気の毒に、もうあのいちごは食べられない。

 じわじわと、男は死体を引きずって、公園の入り口に近づいてくる。

 耐えられないほどではない、軽い腐敗臭が鼻をつく。

 カガクを信仰する人間の多くは、その宗教が否定するものを見ない。絶対ではないが大多数はそうなので、今日ここで血まみれ男に気が付いているのは、わたしだけのようだった。

 もうお化けに騒ぐような年ではない。けれど、無意識に見て良いものといけないものを識別できるということは、時々羨ましい。

 マーケットのすぐ上の高架線を、電車がすれ違う音がする。

 台車がレールを踏む規則的な音が、二重奏になって街に響く。ガガタン、ゴゴトン、と頭がぶれるのが、何故か耳について離れない。突如として消える。片方は遠ざかり、別の電車は、駅についたのだ。

 電車の音が消え、わたしの周囲から、ありとあらゆる感覚が失われる。


「タバコ、持ってるかい」

 だみ声に、わたしの意識が徐々に覚醒する。

 自分へ声をかけられた、と気がつくまでにかなりの時間がかかった。慌てて顔をあげると、常連客がわたしの顔を覗き込んでいた。

「タバコ」

 指でそれを挟む仕草で、再度催促される。

 コートのフードを被り、その上から長いマフラーをぐるぐる巻きにしたスコットさんは、いつもどおり半分閉じた瞳をしばたかせた。日に焼けた顔に、初老というにはより深い皺が刻まれている。

 スコットさんはこの辺に住んでいる老紳士で、通行人に簡単なマジックを披露して小銭を貰うことを生業とする。

 何枚も古着を重ねている姿が、浮浪者に間違われることもある。それでも本人は、トリックの仕込みに必要なのだと言い張って頑なに身だしなみを正そうとしない。それに今まで、少なくともわたしの前では、そんな大げさな手品はしたことはなかった。ピンポン玉やカードの、子どもだましのマジックばかりだ。

 無許可でマーケットに店を開いていたわたしに気がついて、担当者へ進言してくれたのが彼だった。

 当初、運営側は魔女の参加に乗り気ではなかったのに、許可が降りたのは説得した自分の功績だ、と言ってちょくちょく何かをたかりに来る。

 実をいうと、スコットさんは掴みどころのない性格と服装が怪しく見え、マーケットでは鼻つまみ者なのだ。何度もやってこられて迷惑した事務員が、押し切られたというのが真相だろう。

 わたしはちょっと周囲を見渡し、例の男が見えなくてため息をつく。

 それからボストンポーチを引き寄せて、手探りで噛みタバコを探した。奥に仕舞い込んであるので、肩まで入れてまさぐらなければ見つからない。お品書きについたピンが顔に刺さりそうで怖かったので、一度外して仕切り直す。

「こちらがはちみつとヨモギで、こちらはキャットニップと野バラの」

 と、右手を出して見せながらの、説明が始まるよりも早く、シワだらけの長い指が二つともをひったくった。ポケットに消える。「ヨモギの方が多少」目の濁りを緩和させる、と言い終わる前に、スコットさんはバラの絵の容器を開けて、ひとつまみ口に放り込んだ。

 ポーチから出した左手の中を見下ろすと、陳皮とエルダーフラワーの嗅ぎタバコが残っている。

 どうするべきか老紳士の顔に目を向けると、スコットさんは知らん顔でそっぽ向いていた。しばらく横顔を見つめ、諦めて箱をポーチに戻す。

「そうだ、これ」

 代金を要求されないことを見極めて、スコットさんがタバコをいれたポケットから、代わりに何か取り出して、わたしに差し出した。

 真似をした指の上、置かれたのは鈍色に光る螺旋釘だった。

 先が丸いのは、使い古されて、なめてしまったためらしい。頭の十文字はきれいに残っている。

「十七世紀のネジ。あげるよ。泥漁りで見つけたんだ、ここにヒンドレイって会社の名前が」

 スコットさんの言葉が途切れたのは、わたしがそれをひったくったからではない。マーケットへ続く隙間を塞ぐ、闖入者の気配がしたからだ。

 まだ若い青年で、職業は服装から一目瞭然だった。

 紺色の制服の上、反射素材の線が入ったベストの、蛍光色が目に飛び込んでくる。モノクロチェック柄のリボンがついた制帽の中央から、銀の紋章が不穏な空気を漂わせた。制服全体にのりが効いていて、いかにも使い始めという様相だ。

「君たち、何をしているんだ」

 警察官が厳しい口調で言う。

 気負っているのか声が高く、それによって何人かが振り向くのが感じられた。幼女の怯えと母親の興味本位の視線が混ざり、野次馬が面白がってビデオを構える。

 注目を集めるのは好きじゃない。わたしはちょっと首をすくめる。

 スコットさんが無言で、タバコの箱を呈示する。沈黙をどう解釈したのか、警察官は目の前の不審者ふたりの有罪に疑念がない。

「許可なしでの、たばこ販売は違法だ」

 紺色の制服のすぐ後ろで、中年の女性が顔を出す。

 いつも、隙間の斜め前に出店している人だ。

 鼻筋の通ったコーカソイド系の顔つきだが肌が褐色で、いつも錦糸をふんだんに刺繍した布を身にまとっているが、たぶんインド出身ではない。ゾウが彫られた大きなサンゴの首飾りといい、あからさますぎる。断言できるのは彼女は、外から見たイメージの”アジア人”ということだ。

 目をつけられたのは、彼女が売っている「ヨルダンの奇跡」とかいう砂糖水を、わたしが買わなかったからだった。以来マーケットで目が合うたびに、ゴミを投げつけられたり水を撒かれたり、独特な方法でもてなされている。

 わたしは女性の顔を見る。他人のトラブルを見て、楽しげな表情を隠しもしない。緑色に光る青いアイシャドウ、くっきり引かれた口紅は、彼女に似合わないように思う。

「先ほど何か渡しただろう、署で話を聞いてもいいんだぞ」

 警察官は面長の白い頬をやや上気させて、ほとんど叫ぶように警告した。スコットさんが状況を説明しても、言い訳にしか聞こえないらしい。垢抜けないメガネといい、どちらかというと大人しそうな雰囲気なので、話が通じないのはちょっと意外だ。

 擦り切れた布を重ねて着る憂い顔のスコットさんは古の賢者のように、難しい話を噛み砕いて青年に語る。

 曰く、これは印刷機に使われていたネジの一つで、テイムズ川の河口に近いゴミ溜まりで見つけたものだが、資産的な価値などない、と。

「どうせ盗品よ、卑しい魔女とホームレスですもの」

 ああ嫌だ、と黙っていられなくなった砂糖水店の女主は、鼻の頭にしわを寄せて大げさに手を振った。振り返った警察官は「マダム、危険ですので」と一言、帽子に手を当ててマナーに遵守した会釈をし、鼻息も荒くわたしの腕を掴む。

「どこで盗んだのか言いなさい」

 わたしは警官を見上げて、この状況が理解できない理由を考えてみる。

 青年は勝どきの声として、

「やましいところがないのなら、白状できるはずだろう」

 と高らかに宣言し、周囲を自慢げに見回した。

 顔を向けられた通行人は半数が重々しく頷き、残りはそそくさと、視線をそむけてこの場から離れる。波が引くような動きと同情を示すささやき声に、やっと心に当たるものがあって、わたしはああ、と微笑した。

「なるほど。あいにくですけれど、わたくしはいりません」

「……なんですって?」

 隙間の真ん中に仁王立ちになる警察官の、脇から顔を差し込んで、女性は腑に落ちない顔をした。

 特に抵抗する理由もないので、わたしは腕をねじ上げられたまま、首を傾げる。青年の顔は見る必要がない。交渉すべきは、飼い主の方。

「この子を売りたいんでしょう?」

「……この人のことかい?」

 公園の花壇の周りに積まれたレンガ塀と、屋台の防水布カーテンの間に挟まったスコットさんが、不審な目をわたしに向ける。

 世情に長けた老紳士が、なぜまだ得心がいかないのか、わたしにはわからない。過ぎた感はあるものの、悪くないデモンストレーションだったと思うのに。

「良く躾けられているのはわかりましたが、他を当たっていただけます?」

 わたしははっきりと、奴隷は欲していないことを表明する。ちゃんと知っているのだ。明言しないと、悪い人間は発言を捻じ曲げて、物を売りつけようとする。

 抜けるように力が抜け、警察官が腕を離した。呆然と、空虚な瞳でわたしを見下ろしている。青ざめた顔が、幼く見える。

 先程とは異なる、視線が集まる。

 戸惑い、物忌、あるいは畏怖。

「行こう」

 スコットさんは店の敷物の四方角をつまみ上げ、ボストンポーチに無理やり押し込んで、勝手に店を閉めた。わたしの手を引く。床の何かに躓いてバランスを崩し、わたしはつんのめって転がりそうになった。

 氷かと思って振り返ると、いつの間にか地面には、たくさんの紙くずが落ちている。

 どこからやって来るのか、丸められた紙が転がり、足元を埋める。警官の周りと、インド風女性の足元に。

 わたしはまず左手を、そして次に右手を叩いて、原因であろう指輪たちを黙らせる。


 されるがままに、連れ去られる。

 マーケット広場のすぐ横、高架下に並ぶ店の前まで来て、スコットさんがちょっとだけ眉をつり上げた。

「野良さんや」

 呼びかけてスコットさんは咳き込み、喉に詰まりかけた噛みタバコを、ペッと路端に吐いて捨てる。

 わたしはその一連を眺め、道に溜まった塵の中に、破損したウィルオウィスプの死体が落ちているのを見つける。腕が半分残り、羽はボロボロに千切れていた。いまさら妖精が落ちていたところで、驚かない。

 スコットさんは怒っているようだった。

「魔女というだけで、嫌う人間はどこにでもいる。悪と信じて盲目的に、決めつける輩もあるわけだよ」

 まあ、とわたしは言葉につまる。つまりあれは、折檻や洗脳で強要された台詞ではなかったわけだ。

 高架下は下の建物と一体化していて、マーケット近いところには中を通り抜けられる小売店の並びがある。

 ここはその裏なので、ボイラーの簡易煙突が排気するばかりの、寂しい小道だ。先へは地下鉄の駅に続く、その辺りになると私立学校とジムがある。その入り口から離れたところで体格の良い男性が、壁に寄りかかって休憩していた。

 体育教師かインストラクターか。どこの誰かも知らないが、目線が合って会釈を交わす。

「カガクといい、人間は随分妄信的な動物なのですね」

「動物ときたね」

 スコットさんはもう一度、唾棄した。投げ捨てられたコーヒーチェーンの紙コップにそれが当たって、排水溝へ落ちて消える。少し中心から外れた道は吐瀉物に排泄物、そして物が腐る甘くて苦い不快なにおいに満ちている。

 高架下と通りの交差点にある絨毯を丸めて立てた露店から、黒い被布の女の人が、隠れてこちらを見ている。

 騒ぎが起こってすぐから、ずっと様子を気にしていたのはわかっていた。意を決して、ちょこちょこした速歩きでやってくると、わざわざ手振りを交えて胸を撫で下ろす。

「大丈夫でしたか」

 この人はマーケットの治安維持係と懇意なので、さり気なく広場の安全に気を配っている。もちろん、これもスコットさんから聞いた。

 老紳士は彼女との親愛を主張して憚らないけれど、絡まれる方の女の人は、いつもちょっと困った顔をしている。でも邪険にしないのは、きっと良い人だからなのだろう。

「ええ。ご親切に、ありがとう」

 わたしは怖がらせないよう、両手の内が見えるように上げて、笑顔を作った。空いた手で、魔法を使う意思がないことをアピールする。実を言うと、わたしは杖なしで術をかけることができるけれど、多くの人間がそれを知らないので、そうすると警戒を解くのだ。

 浅黒い肌を薄布に包んで隠した女性は慎ましく、しかし明らかに肩の力を抜いた。

 全身に魔よけの入れ墨を入れて、他人には決してそれをみせないシャーマンの集団があるという。

 たしかアフリカ大陸の砂漠地方だったと記憶しているが、いつどこで読んだ記述か、詳細を憶えていない。もう絶滅した一族か、フィクションであったかもしれない。それに、中東の女性にも被布で全身を覆う伝統があったような気がする。

 目の前の相手は、どちらだろう。真冬にスリッパを履いている、足首には見た限り、なんの呪文も書かれてはいないようだけれど。

「月番にな、マーケットに死体が入り込んでると伝えてくれんか」

 落とすような声で、スコットさんが女の人にそう頼んだ。

 偶然通りかかったカップルが、不可解な面持ちで振り返る。弁じる老人は苦虫をつぶしたような形相で、ポケットからたばこの箱を出そうとして、間違えてカードを地面にばら撒いた。

 散らばったトランプを無視して、老紳士は警察ではなく月番であることを繰り返す。

「わかったかい。確か今月は、ハマースミスのが月番だよ」

 月番とは、超自然的要因で起こる社会問題を解決するために、成立された自治体のことだ。

 幻想動物という概念は人間社会の中でまだ新しく、政府はそれを管理する省の成立に手こずっている。体制を整える間、そして強力な生き物を社会ルールに慣れさせる目的もあって、当面の管理を任せているのが、月番なのだ。

 警察のような駐在所はなく、月回りで決められた者や団体が、問題を解決する。ロンドンではカガク信者でも一度くらいは名前を聞いたことがある、”十三人の魔女”が持ち回りで事に応じる。

 法律が制定されていない現在、誰が担当になるかによって、問題処理にムラがある。でもそれは、人間社会も同じようなものだと聞く。それで問題にならないのなら、わたしが口を挟むことではない。

「電話するといい。嘆きの魔女は、知り合いかい」

 意外にも絨毯売りの女性が即座に頷き、

「モンテヴェルティ様ですね」

 とスマートフォンを取り出して、連絡のためその場を離れる。

 方向を変える瞬間、軽く手をあげて挨拶を交わした。髪を包む薄布が揺れる。耳の後ろを留めるピンが、光を反射させて煌めいた。

「腐ると疫病を呼ぶからね。早めに何とかするこった」

 軽やかな背後へ、スコットさんが口に手を添えて叫ぶ。その頃にはもう女の人の姿は、人ごみに紛れてかき消えていた。後に残った全然関係のない通行人たちが、大声で騒ぐ浮浪者じみた老紳士に、警戒の色をみせる。

「ミスタースコット。あなたが魔女に造詣が深いとは、知りませんでした」

 横に並ぶ老人に、恨めし気な視線を送る。それなりに付き合いは合ったと思うのに、そんなことも教えてくれなかったのだ。

「なんだよ、夕焼け石の魔女? 鉱物細工の職人だろ、手工業系マーケットで探しなよ。グリニッチの方で一時、店を出してたと聞いたがね、工房に繋げたドアを持ち込んだとかで、すぐ出禁になったよ」

 わたしはがっかりして、誰にというわけではなく、口を尖らせる。「だって、今まで訊かなかったじゃないか」と言われればその通りで、そういえばわたしは、スコットさんに探しびとのことを話したことがなかった。

 どちらにしても、噂話は二十年ほど前だというから、手がかりにすらならない。

「魔女を探しているなら、それこそ月番だろう」

「ところがわたくし、あまり十三人の魔女さま方には拝顔したくありませんの」

 混沌の魔女ははるか昔に、中枢の魔女たちから追放刑を受けている。

 追い出された国は、もう存在していない。そのせいで条件がはっきりしないが、多分彼女たちと面会するのはまずかろう。

「機会がありましたら、伝言をお願いできますかしら。魔女なら誰でも構いませんので、『混沌は、ロンドンにおります』と」

「おれっち次は死体置き場だろうから、どうかなあ」

 おどけた顔をして、スコットさんがフードの上から頭を掻く。

 ぱらぱらと、白い髪がマフラーの上を舞う。巧妙に防寒具で隠しているけれど、肌が薄い首などは、もう皮膚に穴まで開き始めている。

 そして目ざとい人間なら疑問を持つであろう、寒天に吐く息が口元で、白く滞らない理由。

「いつからですの?」

 目的語のない疑問文に、打てば響く素早さで、スコットさんが答える。

「一昨日かな。指の動きが悪くてかなわんよ」

 ドイツ製のエールなんか、試したせいだ。スコットさんは穏やかに、その味の悪いアルコールを酷評した。厚ぼったい隈の上、いつも瞬きの多い瞳が、すでに濁って灰色になっている。

 わたしはてっきり、先ほどの腐臭は頭が割れた男のものだと思っていた。

 でも考えるまでもなく、実体のない物に臭気を放つことはできない。カガク信者の盲目を散々奇妙がっておきながら、自分も視覚に引きづられて、偽りの嗅覚に振り回されてしまうのはお笑いだ。

 近い立場になって初めて、死んだ人間を目視したスコットさんは興奮気味に、

「ありゃあ、魂消たね。いつもあんなのが、その辺を歩いているのかい?」

 と大仰に驚いて頭を抱える。気持ちはよくわかる。わたしも、シティでナスみたいな形のビルを見た時は、仰天して叫びたくなったもの。

 こちらはまだ肉体があるので、あまり派手な動作をしないよう注意する。下手に手足を動かせば、取れてしまうかもしれなかった。

「良かったんですの、月番に報告してしまって」

 わたしはどうしても気になっていた、スコットさんの奇妙な言動を思う。

 魔女に知られてしまえば、そっとしておいてもらえるはずがなかった。あっさり始末されるのならばまだ良く、教材に回されて現状維持をしたまま、できる限りの実験の末に解剖されることも考えられる。

 まあ、すぐさま対応される気は、さらさらしないけれど。

 長命の魔女は時間間隔も独特だから、人間と同じ尺度で物事を考えない。連絡が来ても後回しにしているうちに、番が変わってうやむやになる可能性のが高い。

 同意見であるらしい、スコットさんは取り繕った笑顔で肩を竦めた。

「死体なんて、ロンドンでは珍しくもなんともないからさ」

 確かにラッシュアワーの地下鉄の中なら、乗客の半数はまず生きていない。たとえ真面目な魔女に当たっても、順番に処理した後と考えるなら、早めに連絡しておくのが賢明かもしれなかった。

 北風が、ゴミ箱を外れたスナック菓子の袋を巻き上げて、空を駆けていく。

 まだ昼も早い時間ではあるけれど、場を乱した負い目もある。今日は商売に戻らず、家に帰ろう。学校が終わる時刻まで余裕がある今なら、バスの車内も空いているはずだ。わたしは地下鉄駅に向いていた足を、右斜め先の大通りへ方向転換させる。

「そろそろ硬直も緩解ですから、動きやすくなる代わりに、色々漏れてくるはずです。なにか対策をなさった方が、よろしいですよ」

 かるい助言と挨拶もそこそこに、スコットさんと別れる。

 振り返らなかったし、スコットさんも「おう」と言ったきりだった。

 角を曲がるときに、視界の隅でマーケットが見えた。黒山の人だかりへ、フードを被った古着の後ろ姿が、飲み込まれていく。

 その光景に、波際の化石たちを思い出す。

 何の共通点さえ、見いだせないというのに。

 

 家に帰り、ポーチの中を探っていて、ふと疑問が芽生えた。

「そういえばスコットさんも、約束の大地に行くのかしら」

 思わず独り言を呟く。誰もいない家の中からは、もちろん返事はない。

 目当ての物を見つけ、床に置く。

 使わない装飾品は、まとめて一つのポケットに投げ入れてあったので、鎖が絡まって知恵の輪みたいになっていた。それを一つずつほぐしていき、適当なチェーンを並べて比べる。

 繋げて輪にしても、いちいち金具を開け閉めせず、頭から被ってしまえるもの。白銀製の鎖が、太さも丁度良さそうだ。

 指から輪を外し、順番に鎖に通して首飾りにする。

 マーケットに来た、お客の女の子の真似だ。

 大きすぎてすぐ落としそうになる指輪たちも、これなら持ち歩きやすい。

 仲の悪い指輪を隣同士にしないよう、細心の注意を払う。それだけで強い力を持つこの装飾具たちは、目を離すと勝手に魔法を使うので、機嫌を損ねないことが安全の第一歩だ。指から抜いたとおりに並べてみて、念の為エメラルドとアクアマリンの金指輪はもうひとつ分遠ざける。間に挟まれたガーネットが、ほっとした顔をする。

 両手で持つ。白く輝く一筋のチェーンの真ん中で、重力に引かれて下に垂れる、輪と、輪と、輪。

 部屋の壁には、ほうきが斜めに立てかけてある。

 視界の中で鎖を重ねる。まっさらな白いペンキの壁、そこに現れた白銀の水平線に、何かが浮いているように見えた。それを斜めに分断するほうきの、棕櫚の穂先は道にも見える。船が行く情景にも、秋の山端へ旅人が遠ざかる光景にもとれる。

 魔女なら皆いつか、約束の大地へ還っていく。

 少なくともそういう伝承があり、わたしはそれを信じている。

 五つの試練を船で越えると見えてくる、豊かな土地という。ほうきを櫂にして、という言い回しから、ずっと海を渡るのだと思っていた。けれど今、目の前の指輪を前に信心が揺らぐ。なるほど、海と荒れ地は、確かに似ている。

 仮に人間も約束の大地に行くのだとして、あのスコットさんはどうやって船を漕ぐのだろう。それに大人しく、始まりの港で待っていてくれるとは、到底思えない。さっさとその先へ、行ってしまいそうだ。

 整えた飾りを、頭から被って首にかける。見た目よりも質量のある金属が、鎖骨に当たって冷たかった。

 永遠の別れとしては、ちょっと素っ気ない挨拶だったかもしれない。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。