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この負けヒロインがすごい!2023

こんにちは、年の瀬ですね。

この記事は片想いと失恋を愛してやまない筆者が独断と偏見で、2023年の失恋シーンから厳選した魅力的な負けヒロインたちを紹介するという記事となっております。

さて、叶わぬ想いに身を捧げるヒロインたちのことを「負けヒロイン」と呼ぶわけですが、この呼称もどんどん広まってポップに使用されるようになりましたね。
それと同時に、この表現に対して否定的な声もありますが、それに関しては以下の記事で自分なりの考えをまとめています。

上の記事でも語ったように、負けヒロインというのは、一時の感情のために己の全てを捧げようという、ひとつの生き様です。――そんな負けヒロインの味わいを語りつくしたいというのがこちらの企画の趣旨となります。

失恋好きの人も、負けヒロインなんていらないという人も、なぜか負けヒロインばかり好きになるという十字架を背負った人にも、多様で奥深い、そして切ない失恋の世界の一端をお見せできればと思います。

筆者なりに日々広くアンテナを張って、いろいろなジャンル作品を追いかけているつもりではありますが、もちろん今回紹介する中には漏れもあると思います。
「この子を紹介しないのはおかしいだろ!」だろというキャラがいた場合は是非教えてください。全力で履修します。

また、負けヒロインの定義というのは様々あると思いますが、この記事で対象としているのは、

  • メインキャラクターの誰かに片想いをし、その恋に区切りを迎えた女性キャラクター

  • 2023年中に明確に失恋に該当するシーンがあったものに限定

  • 原作付きのアニメの場合、今年の放送回に失恋回があるならば対象

としています。

おそらく、今年最も多く負けヒロインという呼称を使用されたキャラクターは『水星の魔女』のグエル・ジェタークだと思うのですが、あくまで今回は上記の定義を採用して女性キャラクターのみに絞っています。
もちろん、筆者はグエルくんも素晴らしい負けヒロインだと思っております

なお、恋の重さに優劣なしという筆者の思想に基づき順位などはありませんがご了承ください。
紹介順は頭の方から段々と闇属性が強くなっていく順です。(当社比)

去年のやつはこちら


以下、記事の性質上作品の重大なネタバレが飛び交うのでお気を付けください。






アニメ編

アニメの失恋シーンは別途まとめ記事を書いているので手短にやります

夜の街へ"フラれにいく"演出が光る――椿ゆかり(『山田くんとLv.999の恋をする』)

©ましろ/COMICSMART INC./山田くんとLv999の製作委員会

今年放送されたアニメの中で最も印象的だった失恋シーンは何だったかと言うと、この作品が挙げられると思います。

クールで色恋に興味のない山田。
告白してきた相手を一切の容赦なくフっていく姿をすぐ側で見てきた椿ゆかりは、傷つくことを恐れて想いを秘めたまま友人として接していました。
その一方で、いつか山田にとって運命の存在が現れることを予感しており、その時が来ることを恐れてもいました。

茜の登場により、その予感が現実となったことを悟ったゆかりは、失恋を覚悟します。
しかし、それでも秘め続けた想いは留まることを知らず、山田に対して「好き」という言葉を漏らしてしまいます。
そして、「一日でいいから私のこと考えてみてほしい」といって、告白の返事を待つこととなるのです。

アニメの最終回で「今から私、ふられるんだろうな……きっと今日が最後なんだろうな」と述懐しながら、山田との待ち合わせの場所へと向かっていく姿はとにかく切ない。

原作でも椿ゆかりの失恋回は大好きだったのですが、彼女の失恋の舞台が夜の歩道橋であることもあって、アニメ版では光の演出が加わり、より幻想的な印象が増したと思います。
呟くような一人語りと、丁寧に想いを積み重ねていく告白の演技も素晴らしい、極上の失恋回でした。

報われない関係性に対する1つの解――灰原哀(『劇場版名探偵コナン 黒鉄の魚影』)

ご存知ご長寿シリーズの劇場版と言うことで、もちろんこの映画内で失恋するというわけではないのですが、どうしても触れておきたかった作品。
この映画の素晴らしいところは、負けヒロイン特有の諦めたい気持ちと諦められない気持ちのコントラストを鮮やかに描いているところにあります。

今回の劇場版は灰原哀がメインということで、灰原哀という女性が工藤新一あるいは江戸川コナンという人物をどう見ていたのかが語られる物語となっています。

この映画で灰原は、何度目かわからない正体バレの危機に直面し、組織に拉致されることになるのですが、一貫して「私は一生彼の隣にいることはできない」という諦観が語られます。
そもそも、彼女は組織から逃亡している身で姿も身分も仮の姿。
今でこそ、ある程度平和な日常を送っているものの、その均衡はいつ崩れるかわかりません。
そして何より、この状況の原因の一端を担ったのが自分であるという負い目もあるため、自分の帰るべき場所はここにはないと思っています。

それにも関わらず、"彼"はいつも変わらない自信満々の顔で灰原を助けてくれる。
もしかしたら、永遠というものが存在するのではないかと錯覚してしまうほどに。
その諦観と期待感がないまぜになった屈折した感情が、彼女の魅力です

更に、灰原は思わず姉に重ねてみてしまうほどに、蘭のことも大切な存在です
大好きな人同士が思いあっているという祝福されるべき状況で、一刻も早く「本来あった日常」を取り戻したいと考えるのもまた事実なのです。
だからこそ、余計に自分は二人の邪魔をするべきではないと考えています

しかし、物語の終盤、彼女はコナンと人工呼吸という形ではありますがキスをします。
事件が解決した後、哀は突然蘭の唇を奪い、「返したわよ」と言います。
これが彼女なりの誠意の示し方――だけなのでしょうか。

たしかに、コナンからのキスを蘭に受け渡すことで、キスをしたという既成事実は返還しました。
しかし、当のコナンは気を失っていたこともあり、黙ってさえいれば存在しなかったも同然なのです。
それでも、哀はあえて誰の目にも残る形でこの「変換」を行いました。

全てが解決してそれぞれの日常に戻っていく中で、このキスが存在したという記憶は存在してはいけない、振り返ることのできない記憶となります。
だからこそ、蘭への変換を第三者が目撃できる状況で行ったのではないでしょうか。
他の誰が解釈できなくとも、そのような想い出が存在したという事実のみを皆の記憶に刻み込むため。

筆者には最後のシーンはそのように映ったのですが考えすぎでしょうか。
いずれにせよ、本来結ばれるべき二人を祝福したいという気持ちを保つ中で、ほんのわずかな想い出や記憶を抱きしめるという、今回の哀のスタンスは、報われない想いならではの情緒に満ちた素晴らしいものだったと思っています。

漫画・小説編

秘めた失恋を乗り越えて――指宿ちひろ(『おとなりに銀河』)

『甘々と稲妻』などでも知られる雨隠ギド氏の描くハートフルな日常コメディ。
親を亡くし弟妹たちの面倒を見ながらアパートの大家兼少女漫画家として生計を立てている主人公久我一郎と、彼のもとに異星人としてやってきた異星人の姫五色しおりを主軸としたアパートの住人たちの人生を描いています。
うっかり五色さんの背中についている"棘"に触れたことによって婚約せざるを得なくなった一郎としおりは、不器用ながらも恋人としての一歩一歩を歩んでいきます。
このように書くと、いわゆる両想い型の甘酸っぱいラブコメ作品のようにも見えますが、まだ幼い一郎の弟妹たちがしおりに懐いて家族同然の付き合いをしていることもあり、どちらかというとホームコメディの方がニュアンスが近いかもしれません。

基本的に善人ぞろいの温かな作風の中、一人異彩を放っているのがこの指宿ちひろ、通称ちびちゃんです。
ちひろは両親が海外に転勤したために一郎のアパートで下宿している高校生で、一郎の従姉妹にあたります。
インドア派の女の子で小説や漫画を読むのが好き。
ネットに密かに小説を投稿していたりもしますが、その内容について触れるのはタブー。

そんな彼女ですが、幼少期から一途に一郎に好意を抱いていました。
きっかけは七五三の時、自分のオレンジの着物が嫌で泣いていたちひろを、一郎が「花みたいだ」と褒めてくれたことです。
十歳近くも離れた一郎は、他の同世代の男子に比べても遥かに頼れる"大人"で、そんな一郎の姿にちひろは憧れたのです。
そんな誰にも言うことのない片想いを十年近く続けてきました。

しかし、彼女の恋は唐突に終わりを迎えます。
一郎の父の墓参りの後、五色さんと一郎一家でピクニックに行った時の事。
いつものように紳士的な一郎の姿に密かに頬を赤らめる彼女ですが、まちがいきなり一郎としおりが交際していることを暴露したのです。
隠しているわけではなかったのですが、それでも積極的に話していたわけではないので、ちひろにとっては青天の霹靂
涙を流しながらも「いや、一郎くんはお兄ちゃんのようなものだし…」と自分を奮い立たせるもののショックは隠せません。
ですが、ここでも誰にも悟られることなくちひろは静かに失恋をします。

そんなショックを抱えたまま、しばらくの月日が流れ、ちひろは学校帰りに服を買おうとしているしおりを発見します。
そのまま流れでしおりの服選びに付き合ったちひろは、しおりがデート用の服選びをしていることを知ります。
「一郎くんならどんな服でも褒めてくれる」と上述の七五三のエピソードを話すちひろ。
その隠しきれない好意が滲み出ている語りぶりから、しおりはちひろの想いに気付いてしまいます

観念したちひろは一郎に好意を抱いていることを白状します。
一方で、それはあくまでお兄ちゃんの延長であり、恋への憧れに過ぎないと断りを入れます
「ちょっと年上で優しくて、好きになるのに都合がよかっただけ」
「一郎君は絶対に私のことを好きにならないから、安心して好きでいられる」
と自嘲気味に自分の恋を語るちひろ。
だからこそ、しおりという心の底から応援できる相手に出会えてよかったと、しおりと一郎の仲を祝福するのでした。
彼女は、心のどこかで恋に区切りをつけるタイミングを見計らっていたのかもしれません。

彼女の恋はここで一つの区切りを迎えるのですが、それでも九年間思い続けたという事実は非常に大きなもの。
主に単行本の外伝になるのですが、その傷から徐々に立ち直っていく姿までフォローされているのがこの作品の素晴らしいところです。
心の傷の痛みを感じつつも、一郎としおりのカップルが好みドストライクであることを確認したり、卒業後に今のアパートを離れることについて夢想したり。

特に素晴らしいのは、一郎の先輩漫画家であるもかさんに「誰かの好きと比べなくていいんだよ」と諭される話。
私は私なりに淡くても幼くても好きだった」と、自嘲気味に否定していた自分の恋を受け止めてあげられるようになるこのエピソードは、誰に語るでもない小さな失恋すらも、その人の大切な記憶として扱ってくれる素晴らしいエピソードだったと思います。

そして、ちひろは受験が近づいてきたのを機に、皆の住むアパートを離れる決意を固めます。
そして、受験に挑む前のここまでの生活の仕上げとして、webに公開するのみだった小説を即売会に出品することを目指します。
表紙をしおりに描いてもらいつつ、自分の力で執筆に取り組みます。
一郎はそんなちひろの姿を見て、小さな妹のように思っていた彼女に対する認識を改めていきます。
もう、彼女は一郎に引っ張られていたちびちゃんではありません。

いよいよアパートを出立する日。
ちひろは一郎に「ちびちゃん」というあだ名をやめて「ちひろ」と呼んでほしいと頼みます。
そして、これまで支えてくれたことに感謝しつつ、巣立っていくのでした。

最後にちびちゃんというあだ名を返上したことで、彼女は本当の意味で自身の恋に折り目をつけられたのだろうと思います。
長く燻ぶらせた想いを時間をかけて癒し、清算することで次の舞台へと巣立っていく。
そんな密かな片想いの一部始終が描かれた素晴らしいキャラクターです

後悔を抱きしめて未来へ――菜畑皐月(『薫る花は凛と咲く』)

マガポケにて連載されている三香見サカによる恋愛漫画。
馬鹿の集まる底辺男子校に通ういかにもヤンキーと言った風貌の紬凛太郎と、その向かいにある由緒ある女子校に通うお嬢様、和栗薫子の間の甘酸っぱい恋路を描いています。
とにかく登場する人が善人ばかりというのが特徴で、不器用な優しさに溢れた凛太郎と薫子はもちろん、優しい世界観の中で悩みを抱えながらも交流していく登場人物たちの成長が美しく描かれた、心温まる作品。

菜畑皐月は凛太郎の中学の同級生。今は別の高校に通っています。
そこまで一切登場しなかった中、突然登場したぽっと出の負けヒロインですね
本当にぽっと出です。一切伏線もなければ後に繋がるものもないです。
唐突に出てきて唐突に失恋します。

中学時代、やはり金髪で強面だった凛太郎はクラスで浮いた存在で、不良とのうわさが独り歩きしていました。
皐月も他聞に漏れず、彼のことを恐れて関わらないようにしていたのですが、偶然彼の隣の席になってしまいます。
目をつけられないようにとビビりまくっていた彼女ですが、消しゴムを拾ってもらった時に「(ビビらせてしまって)ごめん」というメモを手渡され、彼が見かけ通りの人ではないこと、意外に綺麗な字を書く人であることを知ります

そして、掃除当番で一緒になった皐月と凛太郎は、初めてまともに言葉を交わします。
改めて「ビビらせてごめん」と謝罪してくれたのをきっかけに、二人の静かな交流が始まります。
二週間のうちに数回、掃除当番の時に話すだけのささやかな関係。
それでも、彼が柔らかい笑顔を見せる、見かけ通りでない人であることを皐月は知ったのでした。

しかし、彼女は周囲の視線を乗り越えることはできませんでした。
悪い噂をされることを恐れて、クラスでは話しかけることができず、彼は孤立したままでした。
そして卒業式の日、皐月が失くしていたと思っていた自習ノートを凛太郎が見つけて、届けに来てくれました。
でも、ちょうど他の人がやってきてしまって、周囲の視線を恐れた皐月はその場を逃げ出してしまいました
彼に感謝も気持ちも伝えることもできず、後悔だけを抱えて涙と共に彼女の中学時代は幕を閉じたのです。
その時のノートと凛太郎のくれた「ごめん」のメモは捨てることができませんでした。

そして高校時代。
皐月は凛太郎のようにかっこいい人になりたいと思って、メガネをかけて地味な風貌だった中学時代とは異なり、髪も染めて垢ぬけた姿となっていました。
そして、二人の友人にも恵まれ、充実した高校生活を送っていました。

そんな折、皐月は駅前で偶然凛太郎と再会します。
見た目が大きく変わったこともあり、凛太郎は彼女のことを覚えてはいませんでした。
無理もないとその日は立ち去る皐月。仕方ないと自分に言い聞かせつつ、連絡先を聞くこともできず、もう会うこともないと思っていました。

しかし、後日「このままでいいの?」と友人に背中を押され、皐月は彼と再会した場所へと駆けだします。
もう一度、向き合うチャンスをつかむために。

そこで見たのは、見たことのない柔らかな笑顔で薫子と仲睦まじく話している凛太郎の姿でした。

自らの仄かな初恋が終わったことを悟った皐月は、黙ってその場を立ち去ります。
公園で一人佇む皐月。
薫子の姿を見て皐月が思ったことはただ一言、「すごいなぁ」でした。
かつて、周囲の目を恐れて何も踏み出せなかった自分とは異なり、人前でも真っすぐに凛太郎への想いを語り、彼を笑顔にすることができる。
薫子という存在は、皐月が後悔し変わりたいと願ったそのものの姿でした

しかし、失恋した皐月の顔は晴れやかでした。
凛太郎を追いかけて走り出すことができた"私"は、少なくとももう過去の"私"ではない。
皐月の報告を受けて、蘭と飛鳥という二人の友人が夜にもかかわらず公園に駆け付けてくれた。
そんなかけがえのない友人を手に入れることができたのもまた、皐月自身が変わりたいと思い、そして変わることができたからに他ならないのです。
そして今日、凛太郎と向き合いたいと彼のもとへ駆け出すことができた。

彼を一人にした後悔と、変わりたいという願いが今の自分を作っている。
本当の理想の自分にはまだほど遠いかもしれないけれど、彼への初恋が今の前に進む自分を作り出してくれたのです

失恋は必ずしも失うばかりではありません。
失ってはじめて気づく大切なもの、恋をする中で手に入れたもの、大好きな人がくれたもの、多くのことを記憶としてもたらしてくれます。
その記憶は時として痛みを伴います。
でも、その痛みを抱えた記憶とどのように向き合って明日へと進んでいくか、それが失恋を乗り越えるということです。

結局、彼女はまだノートは捨てずにとっておくことにしました。
まだ過去の自分が憧れた姿には、凛太郎の隣に立っていたあの人のようにはまだなれないかもしれないけれど、この失恋の記憶が代わり続ける私を後押ししてくれる。
まだ、彼女の再生の物語はほんの序章に過ぎないのです。

私の青く愛しい後悔」という美しい言葉で締めくくられる、菜畑皐月のエピソード。
本編には一切絡まず、本人もほとんど登場することなく終わった誰にも知られない失恋ですが、この作品ならではの希望と優しさに満ちた失恋物語であったと言えるでしょう。

こじらせた先の境地にある眩しい失恋――香川凛(『それでも歩は寄せてくる』)

週刊少年マガジンで連載されていた『からかい上手の高木さん』などで知られる山本崇一朗氏による日常系ラブコメディ。
剣道少年だった田中歩が将棋部の先輩八乙女うるしに一目惚れし、先輩に勝ったら告白すると胸に誓って将棋部(最初は人数不足で部としてカウントされていない)に通うストーリー。

歩とうるしはとっくに両想いで歩の積極的な言葉にうるしは赤面してばかりなのですが、誓いのために頑なに告白だけはせず日々将棋を挑み続けます。
そんな二人の織り成すゆっくりとした時間の流れる日常を描く、両片想い型のラブコメ作品です。

両片想い系の作品は、くっつきそうでくっつかない二人を見守るタイプのラブコメで、直接的な恋愛に付随する種々のトラブルが起きずストレスフリーなこともあり、近年人気を集めています。
それこそ、同作者の『からかい上手の高木さん』はその代表格と言ってもよいでしょう。

じゃあ、そんな甘々で平和な作品に負けヒロインの付け入る余地はないのかというと、そんなことはありません

将棋部に押しかけてきたのが香川凛という歩の後輩の剣道少女。
凛は歩と同じ中学の剣道部出身で、尊敬していた先輩である歩に剣道に戻ってきてほしいと剣道勝負を挑んできます。
しかし、ブランクがあったとはいえ歩は勝利に終わり、条件として凛は将棋部へ入部することとなります。

幼い頃から多くの習い事をしており、その一環で将棋経験もあります。
そのため、将棋では最初の間は歩よりも強く、呼び方を田中先輩から田中さんに変えています
それでも後輩として歩には懐いており、食いしん坊な性格で、よく食べ物をねだっています。
歩と同じく根っからの体育会系なので、歩とは何かと息があっており、そのたびにうるしをやきもきとさせています。

当初は歩を剣道の道に戻そうとしていた凛でしたが、将棋部に移った理由を知ると、その恋を応援するために、歩の将棋の特訓に積極的に付き合うようになります。
なぜなら、凛もまた田中先輩から一本取ったら告白するという誓いを中学時代に立てていたからです。

そして、歩の訓練に付き合うのは自分の気持ちにけりをつけるためでもありました
初心者の歩は将棋大好き少女であるうるしになかなか勝てません。
いっそ四枚落ちでもいいから勝ってさっさと告白したらどうだと促したこともあります。
「全力でやっても後悔はしますよ」と助言しつつも、内心では「結果を急ぐのは私のため」と語っており、先輩との新たな日常の中で気持ちが膨れ上がっていくことへの葛藤を抱えています

そして、封じようとしていた想いですが、七夕の短冊に「自分の気持ちに素直になれますように」という願いを書いてしまったこともあって、諦めずに自分の気持ちに素直になることを決めます。
正々堂々と正面からぶつかってこの恋を走りぬくと決めたのです。

自分の気持ちに向き合うと決めた後も、歩との特訓は続けます。
友人の巴に「なら手を抜いて先輩を勝てないようにすればいいんじゃない?」と提案された凛ですが、それをアホらしいと一蹴します。
なぜなら、そんなことをしたら自分を嫌いになってしまうから。
大好きな人には自分を好きなままで向き合いたい
と晴れやかな顔で語ります。

祭りで合流できなかった歩とうるしを引き合わせるなど、敵に塩を送ることを躊躇わない凛。
それでも、少しでも長い時間を一緒に過ごそうとしたり、可愛い後輩として甘えようとしたり、ささやかなアプローチを続けます。
そんな中、歩は親友のタケルの何気ない一言から、凛が自分に好意を抱いていることに気付くのです。

「お前はもしかしてオレのことが…」と問いただす歩に、凛は「好きです」とはっきり告げます。
気付くのが遅いとなじりつつも、うるしのことが好きだからと断りを入れようとする歩に対して、「好きにさせて見せますから、それでも好きでいさせてください」と伝えます。
なぜなら、自分の心に素直に行くと誓ったから。

体育祭にクリスマス、バレンタインと真っすぐに好意を向けて、ささやかなプレゼントに喜んでと報われない恋に向き合い続ける凛。
しかし、その時も終わりを迎えます。

うるしの卒業も近くなった3月、遂に歩は凛に将棋で勝てるようになりました。
最初はあとはうるしに挑むのみと歩に発破をかけた凛ですが、思うところがあったのか、改めて歩に「勝ったら告白させてください」と勝負を挑みます。

対局は、再び歩が勝ちました。
かつての剣道のように、先輩は再び自分の届かないところに立ったのです。
自分の恋の行方を暗示するかのような勝負の結果に、踏ん切りがついたのでしょうか。
凛は勝負に敗れたものの改めて「好きです、田中さん」と告白します。

歩が告白をする前にどうしても改めて伝えておきたかったと語る凛。
再度断りの返事をする歩を、凛は「知ってます」と受け止めます。
そして「私は田中さんのまっすぐなところを好きになったから、むしろホッとしている」と伝えるのです。

申し訳なさそうにする歩に対して、謝ってほしいんじゃないと言う凛。
彼女の意図を察した歩は「好きになってくれてありがとう」と告げるのでした。

香川凛の恋路はこうして終わりを迎えたわけですが、彼女の凄いところはここまで一度も涙を見せていないところです。
最初、この想いを諦めようと葛藤している間は曇った表情もみられましたが、自分の気持ちに素直に行くと決めてからは、むしろ常に眩しいまでの笑顔を見せてくれます。
ひたすらにまっすぐに、一切の曇りなく自分の恋と向き合っているのです。

自分の好きな自分のままで、まっすぐにぶつかってこの恋を走り切る
唐竹を割ったような性格の凛の、その生き様を表現したような、最後まで光輝き続けた恋でした。
可能性の欠片もなく、その想いの報われなさで言えば、今回紹介する中でも上位と言えるでしょう。
それでも、一切の後味の悪さを感じさせず、その恋路に一片の悔いも残さない。まさに武士のような美しさのある負けヒロインといえるのではないでしょうか。

どこかおかしい、けれど真剣――河合羅美(『古見さんはコミュ症です』)

オダトモヒト氏による、超絶美人だけれどコミュ症の古見祥子が、どこまでも平凡な男・只野仁人と出会い、強烈なキャラクターを持つ同級生たち相手に友達100人を目指して奮闘する群像劇コメディ。
どこが平凡なのかと言いたくなる、一切の嫌味がなく常に相手が欲しい言葉をかけてくれる頼れる只野君を初めとして、少し変だけれども人情味あふれる登場人物たちの掛け合いが面白い作品です。

古見さんと只野君が付き合い始める二年生編にて、万場木留美子という極めて強烈な負けヒロインを生んだ本作ですが、三年生編になってなお強烈な個性を持つ負けヒロインがもう一人投入してきました。
(なお、万場木さんのアフターエピソードにも最近素晴らしい話が追加されたのですが、それはまた別のお話)

それが、只野君が中二病真っ盛りだった中学時代に、痛々しい告白をして玉砕した相手である河合羅美です。
どれぐらい痛々しいかと言うと、校庭に白線でLOVEと書いて愛を囁くぐらい
河合さんはそんな只野君を「ダサい」と一刀両断して彼の初恋は終わりました。
黒歴史そのものです。

そんな河合さんと三年生の勉強合宿で再会を果たします。
河合さんは合同で合宿する他校の生徒会長でした。いわゆるパーフェクト人間で、他の生徒たちは彼女に妄信的に付き従っています。

久々に会った河合さんは只野君に古見さんという彼女ができたことを知ります。
かつて只野君を振った河合さんですが、実は彼女は昔から只野君のことが大好きでした
それでも、河合さんはかつて苦汁の決断で只野君の告白を一刀両断にしました。
それは、中二病全開の只野君を肯定して調子に乗らせてしまうのは、彼の人生にとって良くないという判断からです。
事実、この事件で彼の中二病は荒療治を受けました。

河合さんは、途中で誰と付き合ってもよいが、最終的に只野君が幸せになって、その隣に自分が立っていればよいという極端な思想の持ち主です。
そのため、出会う人間を只野君の人生に資するかで優・良・可・不可で分類しています。
そして、彼女は古見さんに不可をつけました。

その理由は古見さんが美人過ぎるからというものでした。
河合さんが不可をつける基準は「只野君に悪い影響のある者」もしくは「自分が勝てないかもしれない者」です。
人生で初めて出会った「自分が勝てないかもしれない相手」を前にした彼女は、只野君をかけてビーチフラッグで勝負を挑みます。

色々ありましたが、勝負は河合さんの勝ちで終わりました。
河合さんは古見さんに対して、自分がいかに只野君を幸せにするために努力して生きているかを語ります。
そして、古見さんは只野君には相応しくないとして、いずれ恋愛に飽きたら別れてほしいと告げます。

河合さんの剣幕に気圧された古見さんでしたが、自分も只野君を幸せにしたいという気持ちは紛れもなく本物。
河合さんに対して、只野君を幸せにできる可能性を見せるため、自分が勝てるまで何度だって勝負をしてみせると宣戦布告します。

受けて立った河合さんは翌日のクイズ大会で決着をつけようと提案します。
教養知識がずば抜けている河合さんは順調に問題を正解していきますが、合宿中に起きた出来事を題材にした問題では一転して一切答えられなくなってしまいます。
彼女は同級生の名前すら覚えていませんでした。
クイズ大会は、周囲とのコミュニケーションを大切にしてきた古見さんの勝利に終わったのです。

海岸で失意にくれる河合さん。
かつて不要と切り捨てた、一緒にいる人間の力を見せつけられる形での敗北は、彼女に大きな敗北感をもたらしました。
「もう、これ以上はがんばれない」と古見さんに吐き出します。

河合さんは只野君を好きになったきっかけを語りだします。
二人が出会ったのは中学ではありませんでした。
四歳の時、只野君はノロマで引っ込み思案で、誰にも話しかけることができなかった彼女に、分け隔てなくおもちゃを貸してくれました。
たったそれだけのことで、河合さんは只野君に人生を捧げてもいいと思うほど強く想うようになったのです。
そして、SNSを駆使して住所を特定して同じ中学に通えるよう引っ越したのでした。

その後、河合さんは両親を交通事故で失いますが、それでも只野君のために一切の弱音を吐かずに努力しました。
常軌を逸したストイックさで自分を磨き続け、やがてその努力が周囲にも認められるようになってきました。
しかし、それはどこか無理をしていたのかもしれません。
彼女に周囲の人間の名前を覚える余裕などありませんでした。

古見さんに完全敗北を認めたことで、彼女は人生の目標を見失います。
周囲に信頼できる人間もいない――かに思われました
河合さんの追いかけて、生徒会の部下たちがやってきました。
そして、河合さんは憧れでカッコいいけれど天然で変な人と評したうえで、河合さんが前に立ってそれに必死についてくことが私たちのコミュニケーションだと訴えます。

他人をないがしろにして、只野君1人のために駆け続けてきた彼女の人生でしたが、決して歩んできた道は無駄ではありませんでした。
河合さんは生徒会のメンバーを連れて駆けだします。
只野君ひとりのために生きてきた彼女の失恋後の人生は、新たなスタートを切ったのです。

非現実的で強烈なキャラクターたちながらも、その思想や生き様が活き活きとしているからリアリティがあり、親しみを感じられる丁寧な人物造詣がこの作品の魅力です。
人生の全てを捧げて只野君ひとりに捧げてきた河合羅美の想いは、ぶっ飛んだ設定ながらも確かな重みを感じます――それが失われることの痛みも
だからこそ、恋に敗れ目標を失ったことによる喪失感、駆けてきた恋路の中で手に入れた絆の眩しさも胸を打つものとなっています。
河合羅美は、間違いなく素晴らしい負けヒロインです。

その後、思考を整理した河合さんは只野君と古見さんと三人で結婚できるように法改正を目指して総理大臣を目指し始めます
そして「私と結婚するとこんな良いことがありますVTR」を作成して古見さんの家に押しかけます。
最後まで賑やかなギャグで締めるのもまた、この作品らしさかもしれません。

恋とは呼べない気持ちの終着点――朝井アキラ(『よふかしのうた』)

コトヤマ氏が少年サンデーで連載している一風変わったラブコメ作品。
不登校の少年夜守コウが夜の世界に繰り出して、七草ナズナという吸血鬼の少女に出会う物語。
夜という大人の時間に踏み出すことで背伸びをする思春期の少年の興奮と背徳感が詰まった幻想的な作品です。

この作品における吸血鬼は美しい見た目をしており、惚れさせた相手の血を吸うことによって眷属を増やします。
現実世界に飽き飽きしていたコウくんは、吸血鬼になるためにナズナに恋をしようとします。
恋のわからない少年が、少しずつ恋を知っていく、これまた思春期の少年の等身大を描くテーマの作品であると言えます。

朝井アキラはコウの幼馴染で、超絶朝型人間。
コウの夜更かしが終わって自宅へ帰る途中で、起きてきたばかりのアキラに再会するという形で、二人は出会います。

コウが不登校になったきっかけは朝倉サクラという少女の告白。
無理して明るいキャラを演じていたコウは結構モテており、サクラもその一人。
幼馴染としてサクラから恋愛相談を受けたアキラは、軽い気持ちで告白を促します。
しかし、恋愛感情のよくわからないコウはサクラの告白を断り、結果としてサクラの友人に責められることとなります。
その人間関係の面倒くささに辟易してしまったコウは学校へ来なくなりました。

自分の軽い気持ちで告白を勧めたことがコウを傷つけたことを、強く後悔します。
でも、その一方でサクラを振ったコウにちょっとだけ安心している自分もいました
その後悔を抱えたまま、なんとなく小さい頃にコウからもらったトランシーバーをつけて歩いていたところ、偶然そのトランシーバーを使って夜遊びをしていたコウと連絡が取れ、二人は再会します。
こうして、深夜に生きるコウと、早朝に生きるアキラの人生は再び交わり始めたのです。

その後、吸血鬼になりたいというコウの夢を聞いて止めようとしたり、一緒に夜の世界を渡り歩いてみたり、学校に復帰してみようと思ったコウのサポートをしたりと、積極的ではないにしろなんとなくコウとの関わりは続きます
コウにとっては貴重な夜の世界以外の友人でしたが、逆に言えばそれだけの関係でもありました。
北海道の修学旅行では、もう一人の幼馴染であるマヒルが吸血鬼であるキクとの愛を貫いて、共に灰になっていく場面にも立ち会いました。

そして、遂にコウがナズナへの恋心を自覚します。
両想いになったことを祝福しつつも、これでもう学校に誘うことはなくなると伝えます。
どうしてもさみしくなったら来ればいいと言って、学校から去っていくコウを見送ります
そして、「両想いになれてよかったね」とコウを笑顔で送り出すのです。

早朝の教室でアキラは一人佇みます。
彼女は、思ったより素直にコウを祝福できた自分に驚いていました。

コウはアキラにとって特別な存在でした。
協調性もなく一人でいるコウは、同じくなんとなく周囲に馴染めないアキラにとっては、常に気になる存在であり、弟のような存在でした
常に危うさを抱えていたコウは自分が見ていてあげないとどこかに行ってしまいそうな不安感がありました。
だからこそ、サクラの告白を断った時も、安堵しました。

この、恋愛のようなそうでもないようなコウに対する執着は、コウの両想いの報告を聞くことで緩やかに解消されていきます。
アキラはこの感情を「弟離れの時期が来た」と形容します。
そして、「もうちょっと誰のものにもならないで欲しかったな~」と遠くを見ながら独り言ちるのでした。

よふかしのうたという作品が「思春期の少年少女の恋になるようなならないような何か」を丁寧に紐解いていく作品です。
それはアキラも例外ではありません。
アキラの抱いていた感情は幼馴染であるコウに対する執着なのか愛着なのか、そこについては明言はされません。
恐らくどちらの見方も正しいのでしょう。

アキラにとって、コウは誰よりも特別で誰にも渡したくない自分だけの弟分でした。
でも、それを恋愛感情と呼んでいいのかは最後まで結論することはできませんでした。
しかし、その恋になるようなならないような感情を手放すことで、彼女は"大人"への一歩を踏み出していくのです。
この「恋愛のような何か」に対して恋というものを自覚したコウと、それが「恋愛」と呼べるまでに成熟せずに手放す形となったアキラ
この二人の対比の構図が、この作品らしい一歩引いたシニカルな美しさを生み出しています。

恋愛未満と真摯に向き合ってきた作品ならではの美しい「失恋のようなそうでないような何か」の描写だったのではないでしょうか。

変化を恐れたすれ違いの果て――桜坂詩織(『夫婦以上、恋人未満』)

金丸祐基氏が連載しているラブコメ作品。
夫婦実習という男女が一つ屋根の下共同生活を送るという正気とは思えない教育プログラムを有している学校が舞台のラブコメ作品。
夫婦のペアの決定は完全にランダムというこれまた設計者の正気を疑うシステムで、主人公薬院次郎はクラスの中心である派手なギャル渡辺星(あかり)と夫婦として生活を共にすることになります。

しかし、次郎は中学時代からずっと幼馴染である桜坂詩織のことが好きでしたが、その詩織は星が片想いしているイケメンである天神岬波と夫婦になっていました。
夫婦実習には夫婦交換というシステムがあり、夫婦仲がよく実習の成績がよいと実習相手を交換することができます。
そのため、次郎と星は夫婦交換を実現するため、理想の夫婦を演じようと悪戦苦闘する――という物語なのですが、その建前は早急に崩壊し、かなり早い段階で星は次郎のことが好きになってしまいます
そして、無意識ではありますが次郎も徐々に星に惹かれていくこととなります。

一方、詩織の方も次郎のことをずっと想い続けており、当初二人は両想いの状態でした。
ですが、次郎と詩織はお互いに、今の関係が壊れてしまうことを恐れており、このままの関係が続いていくことを願っていました。
かつて次郎は一度詩織に告白しようとしたことがあるのですが、その際に詩織には「これからもずっと友達でいてくれる?」と釘を刺されてしまいました。
このことが次郎にとっては呪縛となっていたのです。

詩織も今の関係が続けばよいと考えていたのですが、星との距離が縮まっていくことに焦りを感じた彼女は、次郎と距離を詰めようと積極的にアプローチを仕掛けていくようになります。
それが決定的になるのが泊まり込みバイト。
「もうただの幼馴染では次郎の隣にいられない」と言って、詩織は口づけを交わしてきます。

そのキスがどういうことだったのか整理する間もなく、次郎たちの成績が伸びたことにより、念願の夫婦交換が可能となります。
星との関係が終了していいのかと自問自答しつつも、次郎は夫婦交換の届け出を職員室に提出しに行きます。
そこで待っていた詩織が夫婦交換の保留を次郎に頼み込みます

詩織は、次郎の気持ちが星との間で揺れていること、次郎が今の星との夫婦生活を解消することにためらいを感じていることに気付いていました。
「誰かを想っている次郎と夫婦生活をするのは耐えられない」と言って、次郎が答えを出すまでは交換を受け入れられないと告げます。
それを聞いた次郎は、いつまでも甘えてはいられないと詩織との関係に真剣に向き合うことになります。

そして体育祭を通じて星への好意を明確に自覚した次郎。
その態度が透けて見えたのと、偶然星の側も次郎が好きであることを知ってしまって、詩織は二人がお互いを想いあっていることに気付いてしまいます。
その事実に耐えられなくなった詩織はその場に崩れ落ちて「私じゃ駄目ですかっ……!」と訴えるのでした。

詩織はいつか次郎が自分の隣に戻ってきてくれるとどこかで信じていました。
ずっと傍にいた次郎であればそのまま自分の側にいてくれると期待していました。
あくまでも詩織は今のままの関係で添い遂げるということに夢を見ていたのです

そのように考えるに至ったきっかけは中学時代にさかのぼります。
小学校の時からすでにほんのり次郎に好意を抱いていた詩織ですが、付き合うという行為がイメージできなかった彼女は、好きだと伝えることができませんでした。
そして次郎の側もそう思っていることを期待して、いずれ結婚するその時までそのままでいたいと思っていました。

そんな仄かな恋を育んでいた詩織ですが、二人で登校し続けていることから来る好奇の目や、周囲の男子の性的な話題やいたずらといったものにストレスを感じ始めます。
胸の写真を黙って撮られていた事件もあって、そういった下品な感情に拒否反応を示していたのです。

そんな詩織の様子を見た次郎ですが、詩織を介抱した時の胸の感触が手に残っているのを感じて自分も同類なのではないかと感じ始めます。
そして、詩織を安心させるために恋愛には鈍く興味がないという姿勢を貫き続けたのでした
詩織はそんな奥手な次郎の態度に心底安堵し、何も変わらないでいてほしいとより一層強く願うのでした。

ですが、星との出会いが次郎を変えてしまいました。
そして、次郎が星に向ける視線を羨ましいと思った時、自分もかつて同じ視線を受け取っていたことに気付きます。
そこにあるのが当たり前でちゃんと恋をしていたという事実から目を背けていたのです。

「間違っていたかもしれないけれど、自分なりに精一杯の答えだった」と訴える詩織。
だから、戻ってきてほしいという想いを伝えようとするのですが、次郎は「好きになってくれてありがとう……ごめん」と断りの返事を入れるのでした。
「これからもずっと、私と――」と叫ぶ詩織。
その先にある言葉は依然と同じく"友達"だったのか、それとも――。
いずれにせよ、こうして間違いだらけだった二人の恋は終わったのです。

詩織はずっと恋愛に対して臆病でした。
そんな自分を変えたいと夫婦実習のある高校に入ったにもかかわらず、次郎が「女子は苦手だ」と口にするたびに安堵している自分がいて、そんな自分が嫌いでした。
立派に恋しているにもかかわらず、恋してないフリをして一方的な愛を享受するズルい存在だったから
変わりつつあった次郎を押さえつけて自分の都合を押し付けていたから。

そんな自分を見つめなおした詩織は、好意を一方的に受け取るだけではなく、与えられる人になりたいと願った彼女は新たな一歩を踏み出します。

桜坂詩織の恋は、周囲との認識のギャップに苦しむ等身大の姿が招いた悲劇として、生々しいリアリティがありました。
特に、周囲の性的な話題や視線が自分の恋への認識を硬直化させるというのは、よくある話なのだと思います
恐らく大部分の人はなんとなく周囲に迎合してそれを乗り越えていくのですが、高3まで硬直化させた結果、拗れに拗れてしまいました。
そんな関係を清算できたことで、彼女はようやく自分の中の恋という概念を見つめることができるようになったのかもしれません

それにしても、作者は片想いにやきもきする姿を非常にかわいらしく描くのが得意なのですが、溜めてきた後悔が一気に溶け出すような詩織の恋の決着の描写は素晴らしいものでした。
とはいえ、次郎くんは告白の返事を試験後まで引き延ばそうとしていたのはどうかと思う。

これが人間的な愛のカタチ――入江愛(『ココロのプログラム』)

ジャンププラスで連載されていた、中村ひなた氏による漫画。
ごく普通の家庭に育った少年宇佐美九が、心を学ぶためにホームステイにやってきたいちこというロボットと心を通わせ、恋愛感情に目覚めるラブストーリー。
小学校から高校までという長いスパンでしっかりと心の変遷を描き、恋愛感情というものと向き合っていく真摯な作品です。

入江愛は九と同じマンションに住む同い年の幼馴染。男性陣二名と渡り合うためにゲームが得意。
昔は愛の兄と三人で一緒に遊んでいましたが、兄が中学に進級してからは二人でいることが多くなりました。

小学校時代。
学校に転校性としてやってきたいちこは、ロボットという物珍しさだけでなく、流行の話題にもついていける柔軟さもありクラスで人気者になります。
それが面白くないのがこれまでいちこのことを独占できていた九。
そんな九の期限を取り持つため、突然いちこは九にキスをします。
それを見ていたのが同じマンションに住んでいた愛です。

衝撃の現場を目撃してしまった愛。
単なるいちこの非常識な行動で、何の意味もないということは察したものの、同時に九にまだ恋愛的な衝動が一切ないこともわかったのです。
とりあえずいちこのことをライバルと認定した愛。
この愛と九の恋愛感情の成熟の差が、その後の二人の運命を決定づけていきます

そして、修学旅行で九は愛といちこ双方と手をつなぐ機会を得ます。
愛と手をつないだ時にはなんとも思わなかったのに、いちこと手をつないだ時にはこの時間が続けばいいと願ってしまった。
これをきっかけに、九はいちこに対して恋愛感情を抱いている可能性について考えるようになります。
ただ手をつないでもらって舞い上がっていた愛は道化です。

中学に上がった三人。
ますます人間らしい感情を獲得していくいちこに惹かれていく九。
愛は距離の取り方がわからずに九を避けていましたが、ある時、九と話す機会を得て、再び九への気持ちを自覚します。
九と一緒にいると自分の嫌なところがなくなっていくような気がする感覚。それをもって、愛はやはり九のことが好きなのだと改めて実感するのでした。

しかし、その感情は一人になると嫌な部分が表出していくということとセットでもあります。
さりげないライバルへの牽制、嫉妬、嫌悪。そして、今のままの関係では痛くないという留まらない欲求。
とまらない衝動の渦と自己嫌悪に彼女の心は苛まれていきます。
夏祭りの日、その衝動が頂点に達した彼女は、九に告白をします。

それに対して九は「じゃあ、付き合う?」と返事をします。
この「じゃあ」という部分に引っかかりを覚えつつも、愛は九と付き合うことに。
「毎日一緒に帰る」「おそろいのキーホルダーをつける」などの決めごとを設定しながら、交際をスタートさせます。
この一つ一つがしっかりいちこへの牽制になっているのが、愛の生々しい本音を表しているように感じられてよいですね

九にとって恋愛感情とはどんなものか、本人もまだよくわかっていません。
それでも、彼は愛の告白を嬉しいと感じ、愛の寂しそうな表情だけは見たくないと思ってしまった。
この感情を好きと呼ぶのなら、九は愛のことを「ちゃんと好き」であると結論します。
そして、キスといった取り返しのつかない傷をつけることは恐れつつも、表面的には順調に交際を進めていきます。

九は「いい加減なことはしたくない」と、愛へのキスに消極的です。
そもそも、愛が嫉妬に駆られ始めたのも、無自覚にいちこが九にキスをしたのがきっかけ。
相手のパーソナルな領域に踏み込み侵食するこの行為に対して、この作品はは慎重に描いています。
キスは「ちゃんと好き」と「好き」の境界にある行為なのです。

そんな中、高校受験の直前、いちこのプログラムが故障して記憶を一時的にリセットされた状態になります。
明示的には語られていませんが、いちこは九に恋愛感情を抱いていたことによりメモリにエラーを起こしています
皮肉なことに、愛が抱いていたような、嫉妬や羨望、独占欲といった醜い感情をいちこも習得していました
少しでも多く九との記憶を覚えていたいと願ってしまったいちこがバグを誘発したのです。
(結果として、いちこは九にだけは好きになることが無いようにプログラムされます)

記憶をリセットされたいちこに対する喪失感といちこが直るかどうかという不安により、九は入試問題が手に尽きません。
その喪失感、手放したくないという衝動に直面することにより、九はいちこが好きになってはいけない好きな人であるということを明確に自覚します

結果として、九は志望校に落ち、愛だけが合格しました。
愛は入試の日、九が一緒の高校に行くことよりもいちこのことを心配していたために試験に身が入っていなかったということに気付いていました。
いちこのことが九にとって大切な存在だとわかっているからこそ、自分のことを一番に優先したかったと願う愛。
その事実を突きつけられることに耐えられなかった愛は、九に別れを申し出ます。

もう誤魔化さなくていい、九はいちこが好きなのだと諭す愛。
「別れたくない」ではなく「ごめん」しか言わない九に対して、愛は「最後にキスしてほしい」と言います
しかし、それすらも叶いませんでした。
ごめんと言いながら抱きしめる九に対して、愛は「大っ嫌い」と何度も叫びながら涙にくれます。
九にとって最後まで愛は「大切にしたい人」以上にも以下にもなることはできませんでした

高校になってから、九と愛は連絡を取ることもなかったのですが、ある日偶然登校時の電車で再会します。
そこで、相変わらず九にときめいてしまう自分に、失恋から踏み出せていない虚しさを感じてしまいます
願うことならばロボットのように記憶を消してしまいたいと願う姿が何とも皮肉。

そして、愛はバイト先のドラッグストアでいちことも再会します。
彼女はメイク用品を探しに来ていました。
見かねた愛はいちこを部屋に招き、メイクの仕方を教えます。
いちこは「告白して受け入れてもらえた愛を羨ましい」と語ります。
その言葉で、いちこが真剣に九を想っていたことを知った愛は、何で告白しなかったのかと詰め寄ります。
そして軽く言い争いになるのですが、このように九に関することで本音をぶつけ合えるということで、自分の中の気持ちが変化していることに気付きます
そうした自分に気付けたもっと可愛くなってカッコいい彼氏を作って九を後悔させてやろうと奮起します。

愛は、いちことは異なり、人間らしい泥臭い恋愛感情を持った存在として描かれました。
一方で、いちこは九との記憶を少しでも引き継ごうと全てを記憶しようとしてエラーを起こしました。
人間はロボットと違って物事をどんどん忘れていく生き物ですが、必ずしもすべてが消去されるわけではありません。
痛ましい記憶も辛い過去も、想い出としてポジティブな形に変換して前を向く。それもまた、人間らしい恋愛との向き合い方なのかもしれません。

泥臭さと向き合う姿がとてもいじらしくて素敵な負けヒロインです。

ifの世界に閉じ込めて――鶴山白日(『甘神さんちの縁結び』)

マガジンで連載されている3対1の同居ラブコメ。

施設育ちの孤児で育ち京大医学部を目指す主人公・上終瓜生が、受け入れ先である神社の巫女の三姉妹と同居するという、近年のマガジンらしいハーレム系ラブコメ作品
奇跡を信じず独力で夢を掴もうとする瓜生が、神社での数々の出来事を通じて"縁"や"願い"の大切さを学んでいくという成長物語でもあります。
瓜生がこのようにまっすぐな男なので、三姉妹にはっきりと好意を向けられながらも、変にうじうじせず真正面から受け止めているのが好印象です。

鶴山白日は瓜生と同じ施設で育った家族同然の幼馴染です。
一人称はボクで昔は男の子のような格好をして、瓜生の後ろを弟のようについて回っていたという、異性として認識されない幼馴染というコテコテの報われないオーラをまとって登場します。

瓜生と白日は予備校の入学テストで再会します。
白日は瓜生の京大医学部を目指すという夢を一緒に追いかけようと、引き取られた先でも勉強に励んでいたのでした。
そして、神社の三姉妹から一人を選んで婿入りするという瓜生の現状を知ると、白日は瓜生の隣はボクの特等席なのにと激しい嫉妬を見せます。

三姉妹と直接出会い、さらに以前は全く信じていなかった神頼みを肯定する態度まで見せている瓜生の姿を見て、白日の心は乱されていきます。
そして、暗い部屋に突っ伏して虚ろな瞳で「ボクの知ってる瓜生に会いたい」と涙を流します。
このサバサバしたように見えて嫉妬深く独占欲の強いメンヘラ気質が彼女魅力です。

白日は藁にもすがる思いで、クラスで話題になっていた暗神様という願いを叶えてくれる神様に「ボクと瓜生が隣り合う世界」を望みました。

そして、瓜生は三姉妹と出会うことなく、白日の恋人として施設で過ごしている世界に取り込まれます。
神社に行ってみても、三姉妹は当然瓜生のことを認識しておらず、不審者として追い返されてしまいます。
(なお、学生のうちということで勉強デートなど極端なまでに健全な交際をしています。これもまた、白日の理想のひとつなのかもしれません)

それでも瓜生は三姉妹を諦めることができませんでした。
唯一過去に接点のあった夜重との想い出を頼りに再びコンタクトを取り、新しい知り合いとして、再び三姉妹との絆を結び始めました。
そして、自身が置かれている事情を説明し、元の世界に戻るための協力を三姉妹に仰ぎます。

そこに、事情を察知した雨でずぶ濡れの白日が瓜生の彼女ですと言って乱入してきます。
執拗な彼女アピールで牽制をかける白日ですが、寝ている時に「ごめんね」とつぶやきます
これで瓜生はこの事態の元凶が白日であることを見抜きました。

瓜生の問いに白日は自身の想いを打ち明けます。
関係が変わるのが怖くて、一歩を踏み出せなかったこと。
弟分というポジションの居心地の良さに甘えていたこと。
甘神神社の三姉妹との出会いに焦ったこと。
瓜生の隣という居場所を誰にも奪われたくなかったこと。
自分の首を締めながら懺悔する白日の姿があまりに痛々しく、切ない。

気持ちをすべて吐き出した白日は、瓜生を望まない世界に縛り付けているわけにはいかないと、共に元の世界に戻る方法を探し始めます。
そして、暗神を見つけて元の世界に戻るようお願いします。
ですが、神の願いに代償はつきものです。縁結びの代償は縁切り。
元の世界に戻れば、瓜生と白日の縁は切れ、決して結ばれない運命になるということを告げられます。

白日は改めて瓜生に告白をします。
ずっとずっと前から好きでしたと。
最初からこうすればよかったと自嘲しますが、もう引き返すことはできません。

白日は瓜生の口から、瓜生の言葉で想いを聞きます。
三姉妹との縁をこれからも結んでいきたいと。
その際に、白日を傷つけないように必死にフォローを入れるのですが「ボクが惨めな女みたいになるじゃん」と渇を入れる白日の姿がとても良い

そして、二人の縁は切れるということを改めて告げられます。
ですが、白日はこの世界で瓜生が夜重との絆を結んだように、それでもやっぱり瓜生との縁を結び続けたいということを宣言するのです。

運命の分かれ道。
「じゃあまた、予備校で」と別れを告げる瓜生に対し、白日は「うん、またね」と再会を誓った言葉を紡ぎます。
もしかしたらもう二度と会えないかもしれないという恐怖に震えながら、その手を放して必死の笑顔を見せる白日の姿が眩しくも切ない。

そして、瓜生は元の世界に戻りました。
その後、白日の出番は清々しいほどにありません
何事もなかったかのように三姉妹のパンツを探しているので、情緒がおかしくなります。

一応、成績自慢のラインが来ていたり、最近の回では久々に登場して予備校で多少の会話はしていましたが、負けヒロインの扱いとしてここまで綺麗に出番がなくなるのはなかなか珍しい。
それが縁が切れたという代償ということなのでしょう。
その後の三十話以上の中で二回の出番が、白日が新たに手繰り寄せた瓜生との縁なのです。

鶴山白日は、サバサバした外見とは真逆の感情の重さと、罪悪感にむしばまれながらも神頼みに走ってしまう脆さを持っています。
それでも最後には震える手でその恐怖を乗り越えて笑顔で瓜生を送り出します。
この弱さを乗り越えながら一歩を踏み出す姿がとても美しい。

この作品は内藤マーシー先生の情感たっぷりの表情描写が魅力なのですが、それは白日に関してもいかんなく発揮されています。
ボロボロになりながら神頼みに縋る痛々しさや、自らの首を締めながら懺悔する苦しさ、精一杯の作り笑顔で瓜生を送り出す切なさは必見です。

負けヒロインの勝つところ――慈美柚子(『恋したので配信してみた』)

あずまたまによるコミックGANMAで連載されているラブコメ作品。
生まれ持っての悪人面で人から誤解をされやすい主人公犬塚悠が、高校で新しい青春を送るためにシェアハウスに入るところから始まるラブコメ作品。
この作品の最大の特徴はシェアハウスに住んでいる全員が配信者としての裏の顔を持っているというところ。
かくいう犬塚もかつて凸待ち相談をやっており、ネットのみに居場所があった自分を変えたいと過去を封印しています。

ちょっとした偶然から全員の正体を知って協力を求められる犬塚。
理事長の娘のお嬢様でありながら、コスプレFPS配信者"ウサギ首領"という裏の顔を持つ有栖川白愛。
引きこもり気質の萌え声雑談配信者ぷちねここと慈美柚子。
クールな外見の裏でバーチャルアイドル甘居マカロンとして歌を歌う高嶺そら。
爽やかなイケメンだが、中二溢れる世界観でリスナーをわかせる佐藤アルヴィナ(ヴィーナ)。
童顔を活かして女装して男を釣る危険な配信をするBATという裏の顔を持つ早乙女颯太。
という濃いメンバーで共同生活を送ることとなります。

この中で恋愛に直接かかわってくるのは白愛と柚子の二名。
混じりけなしの綺麗な三角関係です。

柚子はガチ恋リスナーにストーカーされていたところを助けたことをきっかけに、犬塚に萌え声雑談配信者として承認欲求を満たしていることがバレます。
犬塚は白愛の衣装が見つかった時の咄嗟の嘘で、メイド服を隠し持っている変態ということになっていたため、恥ずかしい秘密を共有する友人として関係性をスタートさせます。

そんなドタバタで始まった二人の関係ですが、屋台の売り込みで共同作業をしたことをきっかけに、柚子は犬塚のことが気になり始めます。
そして、"面白いもの"が好きな颯太の挑発もあり、自分だけが犬塚の特別になりたいと思い始めるようになるのです。
一方で、犬塚は白愛とも順調に距離を縮めており、柚子は負けじと積極的に犬塚にアプローチを仕掛けていきます。
また、途中で正体バレするのですが、柚子は配信者として白愛の正体であるウサギ首領を強烈にライバル視してもいます。
諸々の事情により、対抗心剥き出しで不器用ながらも犬塚に振り向いてもらおうと頑張る一途さが、柚子最大の魅力です。

しかし、最初に運命共同体となった犬塚と白愛の絆は深く、客観的にはどう見ても白愛に分がある状況。
人間観察に長けた颯太はこの事実に気付いており、柚子に「その恋はしんどくないか?」と尋ねます。
それに対して、柚子は「それでももう止められない」と報われないかもしれない恋に精一杯食らいつく姿勢を見せます。

その後、様々な誤解や騒動があり、白愛と犬塚の仲は再び縮まり、柚子はいっそう危機感を覚えます。
そんな時、颯太が「負けヒロインが勝っちゃうところが見たい」といって協力を申し出ます。
颯太は、いかにも自分を好きでいてくれる人が好きそうな承認欲求の塊みたいな子が、勝算の薄い恋に一生懸命に向き合おうとする姿に心を動かされたのです。

そうしてお膳立てされた観覧車デートで、柚子は犬塚に告白します。
「今日からそういう目であたしを見てください。もっともっとあたしのことを考えてください」と犬塚を振り向かせる宣言をするのでした。
自分から逃げることをやめた柚子は、ここからストレートに犬塚に好意をアピールするようになります。

その後、犬塚は自身の過去に悩んだり文化祭の舞台で主役を張ったりと、多くの壁にぶつかっていくのですが、それに対して全幅の好意を寄せて犬塚を癒し励まそうと姿がとても眩しい

不安や嫉妬といった様々な障害を乗り越えて、真に相手を思いやり寄り添っていくという境地にまで愛が達するラブコメはそう多くありません。
たとえ傷だらけになっても慰めてあげますので、安心してください。どうなってもあたしはいますから」というセリフが個人的にすごく好きなのですが、選ばれない子にここまで言わせる作品もなかなかないなと思います。

来たる後夜祭。
犬塚は返事を待たせている二人の女の子に対して"答え"を出す覚悟を固めます。
そしてやってきたのは柚子のところ。
犬塚は「好きな人がいる、だから柚子の気持ちにはこたえられない」と残酷な真実を打ち明けるのでした。

これから本命の相手への告白を断られたらこちらに来ればと提案する柚子ですが、犬塚は「柚子を誰かの代わりにしたくない」とそれを否定します。
犬塚にとって、柚子という存在が唯一無二の友人だからこそ、中途半端な形で想いに応えるわけにはいかない。
人を傷つける犬塚が、相手を傷つけてでも"大切な友人"であるというラインを譲らないという覚悟を示したことが、彼の答えなのです。

言ってくれてありがとうとか、好きな人のところへ行ってとかそんな綺麗で大人な子とは言えない」と語る柚子。
それでも、余計に犬塚を傷つけまいと、涙を見せることなく黙って立ち去る犬塚を見送ります
それが柚子にできた精一杯の返事でした。

そして、犬塚が去った後、通りがかったそらの前で大粒の涙を流すのです。

後日「負けヒロインが勝っちゃうところ、見せられませんでした」と自嘲する柚子に対し、颯太は「負け」てはいなかったと伝えます。
柚子は結局一番になれなかったと悲観しますが、颯太は「本当に何もない?」と尋ねます。
そこで会話は終わり、柚子は颯太に差し出されたスイーツを口にするのでした。

颯太の語る「負け」ていないとはどういうことなのか。その答えは作中で明示されていません。
ですが、萌え声雑談配信者という承認欲求の塊のような活動をしていた子が、大きな愛で相手を受け止め包み込むことができるような境地まで成長した。
慈美柚子は、当初の印象とは真逆と言ってもいい強力なヒロイン性を獲得したキャラクターとなりました。
それが一つの答えなのではないでしょうか。

素朴な始まりを迎えた慈美柚子の恋は、負けヒロインとしては異例なまでの愛の境地に達していたと思います。
それゆえに、なお報われないという現実の残酷さが一層際立つのではないでしょうか

刻み付ける初恋のレクイエム――泉志帆(『ささやくように恋を唄う』)

『ささやくように恋を唄う』はコミック百合姫で連載されている竹嶋えく氏による百合作品です。
歌を愛する朝凪依と、その歌声に惚れ込んだ後輩の木野ひまりを中心とした人間模様を描いています。

ひまりに一目惚れした依は、恋がよくわからず歌に惚れ込んだだけのひまりを振り向かせるために、以前助っ人として参加していた親友・水口亜季がベースを務めるバンドSS GIRLSのボーカルとしてバンド活動を本格的に始めます。
しかし、その亜季は依に密かに想いを抱いていて――と多重で切ない恋模様を繊細で美しいタッチで描き出す素敵な作品です

泉志帆はSS GIRLSの先代のボーカルで、現在は他の二人のメンバーと共にローレライというバンドを結成して活動しています。
そもそもSS GIRLSは、衝突を繰り返して軽音部内で孤立していた志帆を亜季が勧誘する形で始まったバンドでした。
しかし、音楽に対してストイックすぎる志帆の性格が災いしたのか、音楽性に対する衝突が増え、志帆はこんなおふざけバンドと言い残してSS GIRLSを去りました。
このことは、志帆とのバンド活動の中に確かな友情を感じていた亜季の心に大きな爪痕を残しています。

そうして疎遠となっていた志帆ですが、文化祭ステージのオーディションで再び亜季たちの前に姿を現しました。
志帆は亜季、そして新ボーカルである依に敵愾心をむき出しにし、文化祭での観客の投票数で勝負を持ち掛けます。
そして、ローレライの高い技術とセンスを見せつけるような形で圧倒した後、「後ろにいる亜季のだーい好きな子より上手かった?」と挑発するのです。
志帆は、亜季が依を想っていることを知っていました。

さらに、その依がひまりと付き合っていること――すなわち亜季が叶わない恋をしていることを知った志帆は、ひまりをマネージャーとしてローレライに引き抜くことを要求し、ひまりがそれを受け入れます。
そして、ひまりはSSのメンバーも知らなかった志帆とローレライのルーツを知ることになるのです。

志帆はかつてヴァイオリンのコンクールに出るほどの腕前でした。
そこで、彼女はキョウという天才的なヴァイオリニストの前に敗れました。どれだけ練習しても敗れ続けました。
常に一位を目指し続けてきた志帆にとって、それは大きな挫折です。
そして、志帆は偶然出会ったギターを見て、ギターに興味を示していたキョウの言葉を思い出し、こちらの世界でなら勝てるかもしれないと逃げるようにギターの道へと進んだのです。
そうしてギターを始めた矢先、キョウの訃報が届きます。
永遠に叶わないかもしれないと思っていた相手は、新しい舞台で戦うことなく姿を消してしまったのです。

こうして彼女の音楽は目標を見失いました。
しかし、このような背景から来る極めて高い上昇志向が、学校の部活レベルのバンドとは相性が悪く、彼女はどこへ行っても邪険に扱われます。
そうして絶望していた彼女を救ってくれたのが、他ならぬ水口亜季でした。
彼女は、志帆の真面目な姿勢を好きだと言ってくれて、メンバーに誘ってくれたのです。
亜季という存在と共に過ごしたSS GIRLSという新しい居場所は、純粋に音楽を楽しむことを目指すことのできた、彼女にとって救済ともいえる期間であったと言えます。
自分の存在を受け入れて新しい居場所を与えてくれた亜季に、志帆は恋心を抱きました。
それは、依やひまりと同じ一目惚れと言っていい衝動でした。

しかし、志帆は亜季が親友である依に友情を超えた感情を抱いていることを知ってしまいます。
新しく見つけたと思った居場所は、彼女の居場所ではありませんでした。
そうして失恋の涙にくれた志帆は、理由を語ることなくSS GIRLSを脱退します。

そうして、志帆は自暴自棄気味にキョウの墓前でバンド脱退の報告をします。
そこにやってきたのが、キョウの妹である始と、キョウの恋人であった百々花です。
キョウは志帆の音楽を好きだと語っており、彼女のバンド演奏を心待ちにしていました。
キョウの願いを繋ぎ止めたいと願う二人に、志帆はバンド結成を持ち掛けます。
音楽という呪縛を背負ったバンド、ローレライが誕生した瞬間でした。

元いた世界の呪縛に飲まれた以上、一瞬でも夢を見た世界とは決別しなければならない。
そう考えた志帆は、文化祭を最後に亜季と絶縁することを宣言します

それで納得がいかないのは亜季の側です。
ひまりを経由して、亜季と志帆は最後の話し合いの場を設けます。

志帆と仲直りしてまた友達になりたいと訴える亜季。
しかし、志帆は失恋した相手の側に居続けることはできないと言います。

事態の飲み込めない亜季にずいっと顔を近づけ、志帆は自身の想いを伝えます。
「ここまで言ってもまだわかんないわけ?」
「アキ。あんたのことが好きだったって言ってんのよ」

ここできっぱりお別れしましょうと言って志帆はその場を立ち去ります。
しかし、後腐れなく立ち去ったはずだったのに、一人になると涙がこみ上げてきます。
決別したと思っていたものは、あくまで蓋をしていただけ
志帆はまだ自身の想いにまだ未練が残っていることを知ります。

今度こそ、本当の決別を。
志帆は仲間たちと共にステージへ立ちます。

「今のあたしには、全力を出せる仲間との音楽がある」
「進むべき道がある」
「この息苦しさも、胸の痛みも、すべてが私を紡ぐ歌への力になる」
「今日のあたしは――最強だ」

全霊を捧げた演奏の後、志帆は「さよなら、あたしの初恋」と呟き舞台を降ります。

ここまで語ってきた失恋の多くもそうですが、失恋への向き合い方としては恋の過程で手に入れたものを大切に抱えていくという終わり方が基本です。
しかし、泉志帆という女はそれを許しません。なぜなら、それが泉志帆という生き様だから。
フラれた相手の側でニコニコと笑っているなんて、そんな惨めな生き方はできない。
未練も後悔も全て断ち切って、元いた世界――高みを目指し続ける音楽の呪縛の中へと帰っていく。

その決意表明ともいえるのが、ラストのライブシーンです。
ライブと失恋の相性の良さは古今東西の様々な作品が証明しています。
一時でも夢見た温かな世界に、あなたがくれた温もりに永遠の別れを告げること。
その完全燃焼が見せる壮絶な想いの発露は、まさに叶わぬ恋に捧げた情熱そのものであると言ってよいでしょう

嘘の中に閉じ込めた想い――本宮美織(『灰原くんの強くて青春ニューゲーム』)

雨宮和希氏によるライトノベル作品。
灰色の青春を送ってきたことを後悔する主人公灰原夏希が7年前の高校入学前にタイムスリップしたことで、虹色の青春を手に入れるべく高校デビューして美男美女の一軍グループと共に青春を謳歌しようとする物語。
元の世界線で片想いをし続けた相手である学校一の美少女星宮陽花里との恋愛模様が作品の主軸となっているラブコメ作品。
二週目にしても主人公のスペックが高すぎるので、見ていて気持ちいいタイプの作品です。

本宮美織は幼稚園からの夏希の幼馴染。
男勝りな性格で、小学校時代は男子三人と美織のグループでやんちゃしていたほど。
しかし、とある事情により中学以降は疎遠となり、元の世界線では高校でもあまり交わりはありませんでした。
そんな彼女ですが、二週目の世界では過去を知る友人として夏希の高校デビューをサポートしてくれるようになります

それだけではなく、夏希が陽花里とうまくいけるよう、恋の相談役としてお膳立てまでしてくれます。
そして、当の美織はカッコいい彼氏を作りたいと夏希と同じグループで在り学校一のイケメンである白鳥怜太にアタックを書けます。
バスケ部で美織が孤立したり、真っすぐに夏希に想いを寄せる佐倉詩からのアプローチなど、様々な波乱はありましたが、最終的に文化祭を経て無事夏希は陽花里と、美織は怜太と付き合うことになりました
こうして、全ては丸く収まった――かのように思いました。

球技大会でともに実行委員になった美織。
陽花里と付き合いだしてからは相談することも少なくなっていたのですが、再会した美織の様子が明らかにおかしくなっており、怜太と順風満帆に過ごしているはずなのに彼女の顔は晴れません。
そして、球技大会の終わりの帰り道、美織は突然よろめいて夏希に抱き留められたかと思うと、そのまま動かずに「あなたのこと好きだよ……って言ったらどうする?」と尋ねてきます。
動揺する夏希に対して、冗談だよと笑ってその場を後にする美織。
しかし、それはまごうことなき彼女の本音でした。

美織はずっと高校で再会するはるか前――下手をすれば小学生の時にはもう夏希に惹かれていました。
しかし、そのことに気付いた時にはすべてが遅く、夏希に陽花里への恋に協力を申し出ていました。
何度も夏希が失敗して自分が慰める姿を空想していました。
そして、その想いから目を背けるように白鳥怜太と多くの時を過ごすようになりました。
それでも、夏希のことを忘れることはできませんでした。

文化祭の日、怜太は美織に告白してくれました。
散々アプローチをかけておきながら、本当は別に好きな人がいると、自分勝手な理屈を述べ立てて、その申し出を一度は断りました。
しかし、怜太はそれでも構わないと言い、振り向かせる努力をするから、練習台として付き合ってほしいと言います。
夏希のことを忘れたいと願う美織にとっては、あまりに都合の良い提案で、縋るような思いで美織は怜太と交際を始めます。
でも、それがうまくいくのはちゃんと夏希を忘れられる場合だけなのです

その罪の代償を背負う瞬間が訪れます。
球技大会の帰り道、抑え切れられなくなった想いが爆発して夏希と抱き合ってしまった瞬間を目撃され、灰原と白鳥二人と同時に付き合っているという噂が流れます
近しい友人たちは自分のことを信じてくれるし、怜太は率先して誤解を解こうと矢面に立ってくれますが、残念ながら噂は真実。
罪悪感が彼女の心を蝕みます。

そして、その罪悪感が頂点に達するのが、噂をふりまいているグループのリーダーの子にも水をかけられながら激しく糾弾された時。
彼女は、怜太のことが好きで美織がいるから身を引いていたのでした。
美織は、自分の想いを隠すというただそれだけのために、あまりに多くの人間の気持ちを踏みにじってきたのです。

美織は、庇いに来てくれた陽花里に自分が夏希のことをずっと好きであるという事実を打ち明けます。
不誠実の極みのような美織の状況を聞く陽花里の中には、目を背けたくなるような嫉妬と怒りが芽生えていました。
夏希と美織の間には、長年の絆や協力関係に起因する陽花里とは違う特別な空気が流れています。
人間関係まで束縛したくない陽花里からすれば、それは目を瞑るしかないもの――でも、そこに特別な感情が乗っているとなれば話は別です。
「じゃあ私、美織ちゃんのこと、許せないかも」と素直に自分の胸中を打ち明ける陽花里。
本宮美織は、もはや存在しているだけで周囲の人間を不幸にしている。
その事実を突きつけられた彼女は――姿を消します。

雨の中、姿を消した美織を夏希は探しに行きます。
途中、自分こそが美織を救いたいとついてきた怜太と取っ組み合いになりながらも、夏希は一人、「あの頃に戻りたい」という言葉を手掛かりに、小学校時代に美織たちと作った秘密基地へと向かいます。
夏希は自分が美織を救わなければならない譲れない理由がありました。

夏希は秘密基地の奥で実を投げだそうとしていた美織を紙一重のところで救い出します。
昔から、かくれんぼで美織を見つけ出すのは夏希の役割でした。
夏希は美織の告白に返事をします。
ごめん。俺には心に決めた人がいる。お前の気持ちに応えることはできない
ですが、これが第一の嘘です

夏希にとって美織は初恋の存在でした。
小学校時代、夏希たちは男三人と美織という四人で一つのグループでした。
その中の一人が美織に告白したことをきっかけにグループは瓦解しました。
四人だった日常は、夏希と美織の二人きりになりました。

周囲から恋人のようだと囃し立てられるも、夏希はそれでも美織との友情を大切にしたいと思いました。
一方、美織は夏希と距離を置くようなります。
自分を差し置いて、女子グループとキラキラした青春を送る美織を見て、夏希は人間不信を募らせ孤立するようになりました。
そして、再びコンタクトを取ろうとしてくれた美織をも拒絶して、灰色の青春を選び取ります。
なぜなら、夏希は美織に恋をしていて、美織の送る虹色の青春に嫉妬していたから。
夏希がやり直して手に入れたいと願った虹色の青春とは、美織のことそのものだったのです。

今の夏希の生きる理由そのものと言ってもよい虹色の青春と紐づく美織に何の気持ちもないということはあり得ません。
今も夏希は美織の影を追いかけ続けています。
陽花里への想いとどちらが大きいかなんて比べることなんてできない――だからこそ、そんなものは存在しないのだと、嘘をつき続けるしかないのです

後日、美織もまた夏希に「私はもう、あなたに恋はしていない」と伝えます。
これが、夏希の嘘に対してのアンサーである美織の嘘です。
夏希と美織は、二人の間に横たわる深い絆と共に生きながら、嘘で塗り固めて二度と掘り起こせないように封印したのです。

幼馴染というのは、それだけでヒロインの存在を脅かします。
ずっと傍に自分とは異なる特別な関係があるということが、面白いはずもないから。
だからこそ、幼馴染は失恋する際にどのように関係を清算するか、答えを出さなければなりません。
でも、本宮美織はそこから逃げて気付けば取り返しのつかないところに来てしまった。
そして、灰原夏希もまた時間をさかのぼってなおその幻影を追い求めた。

だからこそ、二人の想いは嘘で塗り固めて封じる必要があった。
夏希の根幹にかかわるぐらい大切な感情だったからこそ、それは無理やりにでも消し去らないと清算できないものなのです。

「やり直し」をテーマにした作品において、それでもやり直し不可能な強固に結びついた関係。
負けヒロインという言葉は似合わないというか、強すぎて封じられた魔王のような、そんな壮絶な恋の終わりでした。

性と愛の狭間に取り残されて――三谷結衣(『おかえりアリス』)

この作品を負けヒロインを語る枠で紹介するということ自体が、かなり冒涜的な行為かもしれません。
それでも、だからこそ、この作品には触れたいと思いました。

『おかえりアリス』は押見修造氏による性についての葛藤をテーマとした作品です。
主人公である亀川洋平には三谷結衣室田慧という二人の幼稚園からの幼馴染がいました。
洋平は結衣に対して好意を抱いており、毎日のように三谷の痴態を妄想してはオナニーにふけっていました。
そんなあるとき、結衣が慧に告白する現場を目撃します。
そして慧は「どう思うか確かめていい?」と結衣の唇を奪います。
しかし、当の慧は何も感じることができずに結衣を拒絶します。
一方で、キスという生々しい性のやり取りは洋平にとって衝撃的なものであり、慧が親の転勤でいなくなってからも忘れがたい記憶となりました。

そして高校に入学すると、慧が女装した姿で立っていました。
いわく「男であることを降りた」とのこと。
そうして、慧は洋平に対してディープキスをしたり手淫をしたりと、性的な挑発を繰り返します。
慧は洋平にも共に男を降りて、交わり合いたいと願っているのです。

それが面白くないのが、かつて自身の告白を否定された結衣。
結衣は洋平に対しスキンシップを取って"女"として誘惑をし始めます。
「洋平のことを好きになってきたかもしれない」と宣言する結衣に対して、慧はそんな結衣の"好き"の定義は狭くて嫌いだと一周します。

慧は洋平と共に性からの逸脱を模索する旅に出ようとしました。
結衣は、そんな慧を否定するために、"女"によって洋平を繋ぎ止めようとするのです。
そして、洋平と付き合うことにより、洋平の目を慧から逸らさせようとしました。

洋平と慧との性を否定した児戯のような交わりに対抗するための手段はただ一つ――セックスです。

しかし、いざ洋平をベッドに連れ込んで交わろうとした矢先。
洋平のソレは緊張ゆえか一切使い物にならなくなります。
女としての自信まで失い、自身を愛してもらうすべを失った結衣は涙にくれます。

性愛というのはどうしても理想通りにことは運びません。
それは、行為の成否だけではなく、自身の身体にある"美しくない"性の兆候に直面することも含まれます。
作者は自身の肉体の醜さからくる性への恐怖について巻末で語っていて、それがこの作品のテーマだとも述べています。その根底にあるのは、性という他者に評価されて成立する身体性に対する恐怖です。
性と向き合うということは、その恐怖との戦いでもあります。

洋平は慧の元で事情を全て話します。
慧は「勃たないことは悪いことではない」といって、男を降りた交わりを始めます。
男でも女でもなく、素直になって肉体同士を愛撫しあう。
その接触によって、二人は"性を降りた融合"という体験を得ることとなります

一方の結衣は、今度こそ行為を成功させるためにセックスについて学んだうえで洋平の前に現れます
そして、洋平と慧が交わったことを知ると、強引に洋平の唇を奪います。
「普段のオナニーでやっていることを教えてほしい」と言いながら、洋平の"男"を刺激して、彼のモノを勃たせることに成功します。
さらには、自宅まで招き入れて、今度こそ最後までセックスを完遂させます。
中で射精することもできた洋平ですが、それでも慧と交わった時のような充足感を得ることはできませんでした

ですが、結衣と洋平のしている行為の差は、表面的にはほぼ挿入があるかないかというだけの違いです。
ここで洋平と慧のしている行為が性から完全に無縁かというとそれもまた違うのです。
彼らは少なからず性の特徴を持つ、自らの肉体同士による接触で混ざり合っており、何より、最後に射精が伴った関係であることが暗示されます。
ただ、極力それに目を向けないようにしてそれを実現しようとしているだけです。
ある意味、挿入という行為を否定することによる一時的な錯覚にエクスタシーを見出していると言えるのかもしれません。
それでも性を否定した愛という形を模索するのが二人の目的なのです。

では、洋平にとって慧と結衣の差は何かというと、交わりたいと願う欲求なのかもしれません一般的に恋だの愛だのいわれているものです。
ひたすら暴力的に性器を刺激してきた結衣に向けられていたのは、あくまでオナニーの延長としての純粋な性欲であり、慧は共に達することを目的とした交わりであるという点で異なっています。
これは性器の挿入はあろうがなかろうが関係のない部分となります。慧は性を捨てることに固執しますが、セックスでも同様の行為は達成可能なのです

さて、成功体験を得た結衣は積極的に、時に暴力的に洋平を犯すようになり、遂には射精管理まで始めます。
情けない顔で射精する洋平の姿を慧に見せつけることで、徹底的に洋平の中の"男"を引き出し、復讐を果たそうとしたのです。
彼も男である以上、その性欲との切り離しはできないと、そう言い聞かせているようでもありました。

しかし、洋平は結衣を拒絶し、もうこんなことはしないと告げます。
拒絶された結衣は、「洋ちゃんはただ私とヤりたがっていればいいの」と激高します。
それに対して洋平は「これ以上セックスで自分が汚れていくのが嫌だ」と言います。

結衣は「じゃあ私はどうすればいいの?」と問いかけます。
自分の持てる性を駆使して洋平を篭絡しようが、結局洋平は手に入りませんでした。
どんなに自分を汚して苦しもうが、洋平と慧の間に割って入ることはできないのです。

結衣は幼稚園の頃から慧を愛していました。
洋平と慧の間の関係性に憧れ、そこに混ざりたいと願っていました。
"女"として目覚めてからは、慧のことを性的な目でも見るようになりました。
そして、夜は一人自慰にふけるようになります。
"性"の力を使えば、慧を手に入れることができるかもしれない――そう思ったこともありました。

でも、慧は結衣の告白を拒絶し、洋平を選んだ。
更には「男を降りる」と宣言し、自分が割り込めそうな僅かな可能性さえも排除されました。
むしろ、だからこそ男を降りたという方が正確かもしれません。

なら、どうすれば二人の間に入ることができるのか?

慧は性を捨てた愛を模索していました。
二次性徴により人の身体は醜く変化していき、性欲という恋物語で語られるそれとは異なる別種の衝動が生まれます。
これに乗っかってしまうと、自身の交わりたいという欲求――愛なるものが不純になるような気がします。
主観と言ってしまえばそれまでですが、私たちは常に性欲を越えたところに愛なるものがあると信じています。
慧もまた、そのようなつながりを追い求めて、混じりけのない愛を求めて、二次性徴が起こる前に"交わり"を体感した洋平と性を捨てた旅に出ることを望んだのです。

物語の終盤。
自らの性器を傷つけて男性を破壊することを選んだ洋平のもとに、慧と結衣が駆けつけます。
そして、慧と性を超越して交わりたいと願って、慧と口づけを交わします。

それを見た結衣は「おいていかないで」と涙ながらに訴えます。
慧は結衣に対して「女だって降りられる」と諭しながら、口づけを交わします。
しかし、それは結衣にとって意味のない選択です。
なぜなら、女を降りてしまったらいよいよ二人の世界に入り込む方法がなくなってしまうのだから。
結衣は「さよなら」と言い残してその場を後にします。

結局、慧は色々言っていますが、他の誰でもない洋平を相手として選んだ
仮に他の人が性を捨ててやってこようが、洋平の代わりにはなりません。
性を捨てたからと言って割って入ることはできない――むしろ、性による気の迷いがないからこそ絶対的に割り込めないものなのです

私たちは性欲を超えた先に愛というものがあると期待してしまいます。
多くの恋物語がそんな愛の存在を高らかに歌い上げます。
もしかしたら、現実は違うかもしれません。
現実として、愛を交わした先には、性欲を伴うセックスがある。
慧と洋平だって、キスや愛撫という皮膚感覚による刺激を経由して交わっています。
それでも、生理的刺激だけで終わりなはずはないと信じて交わりを模索し続けるということが、彼らなりの終着点なのかもしれません。

私自身、思想として「叶わないかもしれない恋にしかない純粋な愛のカタチがある」という考えを持っています。
それは、決して結ばれないという性欲が否定された条件下だからこそ、純粋な愛が試されるという信念によるものです。
これは、私か失恋を愛してやまない理由のひとつでもあります。

そして、その愛は結衣がそうであったように、いかなる手段をもってしても獲得できない絶対的な「負け」の上に成り立っているのです。

おわりに

というわけで、今年一年の中で、特に印象的だった失恋シーンを振り返ってきました。

改めて振り返ってみると圧倒的幼馴染率に驚愕させられます
常日頃「幼馴染は負けフラグは嘘」と主張している筆者ですが、この結果を見ると、ちょっと考えを改めざるを得ないかもしれない。
(もちろん、幼馴染がメインヒロインの作品も非常に多いです)

しかし、かつての幼馴染負けヒロインとは傾向が異なります。
負けヒロインとは「メインヒロインのアンチテーゼ」であることが多いのですが、かつて主流だった幼馴染はボーイミーツガールのアンチテーゼで日常を象徴する家庭的な幼馴染だったのですが、今回のラインナップの幼馴染の多くは、過去に何らかの後悔や傷を抱えているトラウマとしての幼馴染です

負けヒロインのもう一つのトレンドとして「少し前に流行ったメインヒロイン像が負けヒロインとして採用される」というものもあります。
これは、読者に惜しいと思ってもらうようその時の理想のヒロイン像が反映されるというものです。
そういった点では、「実は過去に出会ったことがあるヒロイン」という名作がいくつもあるヒロイン像を乗り越えようという試みの表れなのかもしれません。

また、もうひとつ目立ったなと思うのが思春期特有の性の目覚めへの葛藤とそれに付随した周囲の視線といったテーマでしょうか。
恋愛というものに真剣に向き合った時、これらの身体性や社会性は切っても切れない関係にあります。
個人のエゴに過ぎない恋愛感情と、それらの外的な因子をどのように折り合いをつけていくのかというのは、恋愛の永遠の課題ですが、そこから切り離そうして孤立するからこそ生まれる片想いの形というのは、これまた美しいなと思わされるのでした

……ち、そのような理屈っぽいお話はほどほどにして、今年も様々な形の失恋に出会うことができました。
失恋の痛みを前向きにとらえていく成長していくものから、徹底的に否定して完全燃焼させるものまで、命がけで恋をしている人たちの失恋は本当に美しいなと思わされます。

来年はどのような負けヒロインに出会えるかはわかりませんが……(もちろん目星をつけているのは何人もいる)
来年もたくさん失恋を浴びて、たくさん傷ついていけたらと思います。

では、よいお年を。

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