『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は鬱小説という声に思うこと

きっかけは以下のツイート。

集計方法は知らないが、このランキングで桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』が2位に大差をつけて1位をとっており、「砂糖菓子の弾丸」がトレンド入りするなど話題を呼んだ。

しかし、一方で「この小説を鬱小説と呼ぶのは違和感がある」という声もある。中には「鬱小説という安易なラベリングをしてほしくない」という強い拒否反応を示すツイートも見られた。

かくいう私もそちら側の人間だ。

それに対して「作品の受け取り方は人それぞれ」「救いがない物語なのは事実」という声もあるかもしれない。それは確かに正しい。しかし、そういった解釈の違いで済むようなズレならば、ここまでの反発の声は上がらなかったと思う

この記事では、一体どうしてこのようなすれ違いが起こったのか。なぜこの作品を「鬱小説」と呼ばれたくないのかについて、自分なりの見解を書いておく

語彙力がないだけだったらごめん、まじごめん


「鬱小説」というカテゴライズは、少なからず「この物語は悲劇だ」というニュアンスを含んでいる。確かに、『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』という作品は、俗に「鬱展開」と呼ばれるような救いのない展開が目立つ作品だ。その点において、鬱小説としてカテゴライズされることは間違いではないのだろう。

しかし、ここで重要なのは、この物語が「私たちの生を単なる悲劇として処理されたくない」という切なる願いをテーマとした作品であるということだ。

どんなに悲劇的で報われない境遇であっても、そこに抗って「弾丸」を打ち込もうとする「私たち」の存在――そこに眠る生の拍動を肯定することが、この作品を貫く意志であり物語としての「救い」でもある。この「救い」の存在によって、作品は悲劇を否定しないまま前向きな終わりを迎える。

なので、この物語に「悲劇」「鬱小説」というラベルを張ることは、彼女らの願いを切り捨てることに他ならないのではないか?

たしかにこの物語は客観的には悲劇であることは間違いない。この作品に登場する先生のような「大人たち」は口をそろえて「かわいそうだ」と言う。しかし、主人公たちが聞きたいのはそのような知ったふうな同情ではない。そこにある「私たち」という主体を認めてほしいという欲求だ

確かに「私たち」の置かれている状況は悲劇かもしれない。しかしそれでも、彼女たちは絶望せずに抗い続ける。その意志が存在している限り、悲劇として完成しないし完成なんてさせない――そんな少女たちの痛切な「祈り」が桜庭一樹という作家が長年の様々な作品を通じて描いてきたテーマでもある

この作品と類似したテーマを扱う『少女には向かない職業』をはじめ、直木賞受賞作でもある歪んだ愛の中に生きる『私の男』や、異なる時代異なる背景の生きづらさを背負った少女たちの生き様を描く『赤朽葉家の伝説』少女のない時代を通じて少女性を問うSF作品である『ブルースカイ』――。

いずれの作品も客観的には悲劇であるし救いのない展開も多い。それでも読後感が爽やかなのは、決してそれを悲劇として消化せず、その中を生きる「私たち」の主体性を肯定的してほしいという痛切な「祈り」を前向きに描かいているからだ。

たしかに客観で見る限りにおいては、これらの作品を「鬱小説」という評価を下すことは可能だし、彼女らの事情によらず単なる救いのない悲劇だという認定を行うこともできる。しかし、そのようなラベリングを行うことは、まさに彼女たちの敵である「大人たち」の視点に他ならないのではないかと思う

だから、このような作品を「鬱小説」と分類すること自体は、決して誤読ではないし、そのことを責めるつもりもない。鬱展開があることは事実だし、それも立派な作品の受け取り方だ。

だが、少なくとも自分がこの作品に感銘を受けた部分は、その悲痛な観光を単なる悲劇として消化されたくないという、少女の主体的な叫びだ。それにもかかわらず「鬱小説」というありふれた大衆悲劇として消費する姿勢は、彼女たちの否定に他ならないと思う

何度も言うように、そのような姿勢も一つの主張のあり方だし間違ってはいない。そんな陶酔は思春期特有の浮かれた自意識だ、と言われたらその通りなのだろう。

でもだからこそ、ただ「そちら側か」と悲しくなるのだ。





どうでもいい余談

筆者は失恋や片想いが大好きで、あらゆる創作物の「負けヒロイン」や「当て馬男子」を愛する日々を送っている。これらもまた、恋愛物語の主役になれずに、客観的には「不要な感情」として切り捨てられていく彼らの想いや捧げられた愛を肯定したいという「祈り」なのだと、ふと思った。

この性癖の醸成と、桜庭一樹氏の小説を読みふけっていた青春時代の体験は無関係ではない……のかもしれない。

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