「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」①(片渕須直監督、2019)

すずさんの戦争はいつ始まったんだろう。

呉に空襲が来るようになってから?
お兄が兵隊に行ってから?
北条家に嫁いでから?

日常と非日常(戦争)に明確な区切りはなく、ぼんやりとしたグラデーションがあるだけなのだろう。
映画の題字がぼんやりとしている。

戦時下だろうが、人々はたくましく生きている。
配給が少なくなれば、工夫を凝らして生き抜く。
でも、その「たくましさ」は戦争の前ではあまりに非力だ。

4月3日、すずさんたちは花見を楽しむ。
その2日前には沖縄に米軍が上陸している。
地上戦が行われる沖縄を想像しながら見ると、なんとも複雑な気持ちになる。
でも、沖縄の人だって南洋が戦地となっていたときに、まさか「戦争」が来るとは思っていなかっただろう。
「世界の片隅」で起きていることが、今ここにいる僕らと陸続きであることを考えれば、僕らの「日常」も脆いのかもしれない。
いつの間にか戦争に巻き込まれていた登場人物たちのように。

前作のすずさんのイメージは、ボケーっとしていて、でも芯は強くて、真面目な人物というある種の「分かりやすい人物」だった。
今作では、そこに悩みや葛藤などが加わって、親しみが増した。
リンさんの物語が加わったからだろう。
彼女の存在はすずさんをときには揺らし、ときには支える。

ただ、リンさんはすずさんという主人公を引き立て、物語に深みを与えるというだけの存在ではない。
彼女は彼女の過去を持ち、今を生きている。
脇役ではなく、一人の人物として。

それはリンさんに限らず、この作品の登場人物全員にあたることかもしれない。
テルさんの九州言葉も、彼女の過去についての想像をかき立てる。
人間誰もが、それぞれの物語を持っている。
その過去に思いを馳せることで、他者が立体感を持って現れる。
他者に体温が生まれる。

右手を失ったすずさんは、どのな戦後をおくるだろう。
綺麗な絵を描く右手、晴美さんと繋いだ右手。
最終盤、すずさんの右側には孤児を背負う秀作さん。
孤児はすずさんの右腕をギュッと掴んでいる。
そもそも、すずさんの「戦後」ってなんだ。

作中、蜂の羽音を戦闘機のプロペラ音だと勘違いしたシーンがある。
サギが飛ぶ空はいつの間にか戦闘機が飛び交うものとなった。
すずさんの顔がいつの間にか白くなっているような気もした。

1回見ただけでは、この映画は分からない。
何度も見たい、やっぱりそう思う映画だった。


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