ジョジョ・ラビット(2020年、タイカ・ワイティティ監督)

ジョジョ・ラビット(2020年、タイカ・ワイティティ監督)

http://www.foxmovies-jp.com/jojorabbit/

「戦争への辛口なユーモアを効かせたハートフルなコメディの形をとりながら、困難の中にあっても輝く希望と生きる歓び」を描いた映画だと紹介されているが、ジョジョの「無邪気さ」が際立った映画のように感じた。戦争映画としても、コメディとしても中途半端だった。劇場では「いやー、いい映画だったなー」と耽ったけど、帰路では「んー、ん?」となる。

ジョジョは、最後には空想上の友達であるヒトラーを蹴り飛ばすわけだけれども、ナチス信奉者だったことへの「反省」や「後悔」みたいなのはなくて「戦争に負けたからナチスは駄目だったんだ」というだけではないか。それはジョジョの「強い男になる」という目標としてのヒトラーがいなくなっただけで、マチズモ(男性優位主義)は残っているんだと思う。

屋根裏部屋で匿われているエルサに対して、どう見てもエルサがジョジョよりも年上で、あらゆる面で「完敗」したはずなのに上から目線で接するのはそういうとこが影響しているんだろう。
父がいなくなり、姉も死んだジョジョが「強くならないと」と思うのは自然なんだけれども。

最後、ジョジョがエルサに「ドイツが勝った」と嘘をつく。ドイツの負けを知ったエルサは家を出て自由になり、パリに行くだろうから。母も姉も死に、父も生存不明のところで一人になることは辛い。
寂しがり屋のジョジョ。母は反ナチ活動でほとんど家にいなかったし、エルサを匿っていたことも教えてもらえなかった。ジョジョの言うことを母が「そうだね」と肯定することなんて、ほとんどなかったような気がする。信頼されていなかったことに、ジョジョは気付いていたかもしれない。

ジョジョの寂しさ、それを紛らわせるための「無邪気さ」はある種の普遍性を見出せるような気がする。大きなうねりに身を任せ、同一化する。それで強くなった気が、正しくなった気がする。でも、ジョジョが生き延びることができたのは、臆病な「ジョジョ・ラビット」だったから。戦場から逃げるという選択を取れたから。どうせなら「エルサに会いたい」的な感じだと良かったんだけど、ヨーキーに言われるまでエルサを忘れていたところを見るとそうでもなかったみたいだ。序盤のシーンで負った顔の傷がなければ、誇りある「ドイツ兵」として逃げることはできなかったのかもしれない。「落第者」という自覚が逃げることへの抵抗を少なくした。それにこの「障害」なしに、ジョジョはエルサと関係をうまく作ることはできただろうか。おそらくできていないだろう。どうしようもない「弱さ」を抱えることはジョジョにとって必要なことで、それを認めて受け入れることができればなお良かった。

平々凡々な主人公が平々凡々のまま終わった映画だった。ジョジョはまた「別のナチス」を支持しないとも言えない。嫌いではないけど、消化不良。


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