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「水樹奈々」をサウンド面から問うてみたい LIVE HOMEに想う事【幕間】-ヲタクノ独り言-

僕に3分だけ時間をください。
解決編のお時間です。
と言いたいところですが、、、
今回は本題を記す前に前に少し書いておきたい内容を、幕間として、独立した形で記していこうと思います。
熱い文章に中てられて、書かずにはいられなくなってしまったのです。
真の解決編は後日お届けしますので今しばらくお待ちを。どうかお許しを。

LIVE HOME に想った事

件のライブ後、SNS各所では多くの意見がぶつかり合い、様々な意見に触れたここ数日。
想う事はそれぞれ。それは筆者とて例外ではなく、色んなことを見聞きする中で、考えること、気づきが多かった。
そこで件の事柄について改めて記したく思う。

肌で感じた衝撃

「スーパーアリーナが満員じゃない」

その光景にはやはり衝撃を受けた。
昨今の疫病騒ぎで、参加したくてもできなかった同志諸君が大勢いたことは火を見るより明らか。直近の陽性確認者の数も多かったため、泣く泣く控えた人だっていただろう。

とはいえど、深く刻まれた思い出の光景をついぞ忘れがたく、記憶にある景色との乖離に驚愕を禁じえなかった。

その辺については、私の敬愛するななしさんが記してくれていて、筆者はその影響下でこれを記している。

筆者個人として、「水樹奈々が山を下りてしまう」ことを「純度100%のワガママ」「絶対に嫌である」と思うことには共感度2億パーセントだった。

そう。あまりにも多くのことを成し遂げ、連戦連勝であった無敵の水樹奈々が、負けてしまうのではなかろうか、このままフィールドを下りてしまうのではないか、そんな思いが芽吹いた。
一方で、「どんなにステージが変わろうと、満員でなかろうと、応援し続けるんだ!」という推しへの気概を新たにしたことも事実である。

しかしながら、現実を、そして未来を見据えた時に、
「スーパーアリーナが満員ではない」という事実は、我々が想像しているよりもはるかに重く、シビアな問題の一端なのである。

興行は集客が全て

音楽ライブ、スポーツ、舞台、その他多くのエンターテインメント、
「興行」というやつは、実にシンプルな原理原則で成り立っている。

「集客」

その一点に尽きる。
どれほど面白くとも、どれほど熱くとも、どれほど楽しくとも、「集客」の見込めない興行は消滅する。
興行は集客こそ全て。

ショービジネスである以上、数多のお客が集まり、お金を落としてくれなければ、利益をあげられなければ、その存続はかなわない。
演者がどれほど望もうと、レーベルが、事務所が、どれほど切望しても、そこに「集客」という実利が無ければエンターテインメントショーは成立しない。

悲しいかな、これが現実。
赤字や借金をこさえて一時を凌げても、いつかは限界が来る。
興行には想像を超える多額の金銭が動いている。会場費、グッズ制作、プロモーション、人件費、資材費…枚挙にいとまがない。
興行主は利益が出ない事業からは撤退。幕引きを行う。

それは「水樹奈々」とて例外ではない。
集客力が無くなれば、従来のような活動は不可能になる。
個の力だけでは抗いきれない。

ではなぜ集客減が起きたのか。その原因についてを素人ながら探ってみようと思う。

コロナ禍の2年半の月日に起きたこと

コロナ禍は集客減の最も大きな要因の一つであろう。
ライブツアー「NANA MIZUKI LIVE RUNNER2020」はコロナ禍により中止。
この災禍の最中、エンタメはとされ、「自粛」という名の病に侵され、その勢いは急速に失われた。五輪をはじめ多くの興行が中止になり、スポーツを含むエンタメカルチャーはその形を非対面のオンラインへと変えざるを得なくなった。
水樹奈々においても同様であり、ファンクラブイベント、ライブイベントがオンライン配信形式で行われた。

水樹奈々個人においては、
めでたく結婚、無事に出産を迎え、妻となり、一児の母となった。
このコロナ禍にあって、唯一無二の慶事だった。

20年~21年の間、アルバムのリリースシングルのリリースニコニコ生放送特番、等かつてと変わらぬ活動が継続して行われていた。

そして2022年1月。
2日間の日程で行われた「NANA MIZUKI LIVE RUNNER2020→2022」
制約はあったが、「生」の水樹奈々が、ステージ上に帰還した。

こうして書き出すと、活動内容そのものに大きな変化は見られない。
公演で声は出せなくなり、マスク着用という制約はついたけれども、それはおおよそすべてのライブに共通している。

そう思った時に、
果たして集客減の原因をコロナ禍単独に求めるべきなのだろうか?
と疑念がわいた。

「コロナ禍なんで」
そう言ってしまえばそれまでだが、陽性確認者数は増加傾向でも都心は通常通りの賑わいで、同時期に行われていたFUJI ROCK FESTIVAL、ROCK IN JAPAN FESには多くの聴衆が集まり、サマソニのチケットは売り切れた。

だからこそ、こんなご時世でも「水樹奈々」ならば…と筆者は信じて疑わなかった。

しかし集客は減り、初日はチケットが余った。

筆者はその要因をコロナ禍を含む、複数の事象が重なった複合的結果であろうと推察している。

会えない時間が愛を育てることの難しさ

推し活において、推しに会うということは何よりもモチベーションを維持させる。原動力だ。
たとえそれが年に1度だとしても。
1つのライブに命を懸ける、鎌倉武士も圧倒されるような一所懸命の姿勢は、推しに会える喜びがあってこそ生まれるのだ。

「会えない時間が 愛育てるのさ」とかつて歌われたように、水樹奈々に会えなかった2年半の間、筆者の想いは絶ゆることなく燃え続けたし、いつか来たるその時に向けて、大きく大きく助走を続けていた。

しかし誰しもがそうであるとは限らない。

先述のように、推しに会うこと=推す原動力
先の見通せないコロナ禍にあって、原動力を失ってしまった、かっての同志諸君も多かったに違いない。

会えない時間という負の物を、愛という正のエネルギーに変換し、原動力を保ち続け、大きくし続けることは中々どうして難しい。
個人レベルでもコロナ禍の影響はあったであろうし、生活環境が激変した可能性もある。
筆者もコロナ禍で卒業したものがある。原動力を一度失ってしまうと、再点火は非常に難しいのだ。

新作の力は充分だったか?

会えない時間は長くなったが、水樹奈々を感じることが皆無だったわけではない。アルバム、シングルともにリリースがあり、タイアップもあった。
リリース感覚としては従来通りであり、ファンの心をつなぎとめるには十分ではなかっただろうか。
ここに集客減の理由を求めるのはいささか強引だろうか?

しかし、筆者は新作のサウンドが、新譜の力が幾分不足していたのではないかとの推論を立てている。

新作のパワーは絶大だ。
ライブでの初披露に胸を高鳴らせ、ワクワクしながら参加する。
音源と「生音」の違いを味わうことは、ライブに参加する醍醐味である。
さらにライブで解禁される未リリースの新曲を聴くことだってある。

配信でもフィジカルでもリリースし、初披露にむけて新曲たちが渋滞を起こしていた今回。
通常ならば多くのファンがそれを目当てに来場したって不思議ではない。
筆者自身「ダブルシャッフル」を目当てにしていたくらいだ。

ニューシングル、ニューアルバムは果たして聴衆にどのように受け止められたのか?

ここに至り、「サウンド面から問い直す」必要性の一端を感じたのである。
結論はまた後日になることをどうか許して欲しい。

どんな時でも「水樹奈々」は「水樹奈々」であって欲しい

長々と書き連ねてきたが、筆者個人としては水樹奈々から離れることなく、ファンとして、フォロワーとして、多くの同志諸君と共に前進を続けるつもりだ。
しかし、ただ妄信的にすべての楽曲を「素晴らしい」と手放しで称賛したり、水樹奈々にまつわる、ありとあらゆる全てを肯定し、他者へ押し付けるような行いはしない。これは今も昔も変わらない姿勢である。

そしてこれは筆者の願望であり切望であり、水樹奈々個人に対しての強烈な「押しつけ」なのだけれども、

水樹奈々には、世の中がどんなに暗くとも、超満員のスタジアムを歓喜の渦に飲み込み、あらゆる人々を沸かし、照らし続けてほしい。それを出来るのが「水樹奈々」の姿であるだと思うがゆえに。

水樹奈々が水樹奈々であり続けるために、集客は大事な必要要件であり、
「あってありすぎることはない」のである。

結びに

多くのアーティスト、声優、役者、スポーツ選手が「集客力がない」ことを理由にその道を断たれている。
声優に限って言えば、声優であって、単身でアーティスト活動をしている人はどれほどいるか、皆さん数えてみてほしい。
それだけエンターテインメント業界は厳しく、シビアだ。

今までは思いもよらなかったことが垣間見えたLIVE HOME。
LIVE、出演作品、タイアップ、プロモーションetc.多角的に論じられてきた彼女のことを、「音楽・サウンド」面からのアプローチで、その変化と歴史を紐解きつつ、つまるところ今何が起こっているのか、次回はそんなことの一端を僅かばかりでも解き明かしたく思っている

燃えずに書ききれることを祈って…

それでは!!

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