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なんてことない朝に、心地よい生き方について言葉がとめどなく溢れる
落ち着いて外を眺められる、とあるスターバックスでの朝。仕事へ行く前に寄ったら、言葉が溢れるあふれる。自分の中に留めておくこともできたけれど、noteに置いておきたくなり、いくつもの下書きを横目に、拙いけれど、そのままの気持ちを置く。
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突然だけれど、どんなに些細なことでも、私は家族の愛情を受け取ると、涙が出るほど嬉しくて、幸せだ。
ただ涙脆いのかなって思っていた。でもなんとなく、それだけじゃない気がしていた。
ただ嬉しい、とかだけじゃなくて。ありのままで認められているような気持ちになる。何かを一生懸命に与えなくても、ただそこに愛ある繋がりがある。
これも突然だけれど、もしも何回も繰り返し生きている中のひとつが今だとしたら。
前世めっちゃ頑張ったから、今世はいいでしょう?という気持ちが湧き上がってくる。
愛を受け取って、感じて、ありのままで、ゆったりたっぷり生きてもいいでしょう?って。
自分に甘い、そんな言葉をかけられたこともあるし、占いでも出ていたけれど。
え、よくない?笑
自分が心地よければ、よくない?
頑張ってと言われると、頑張ってるよ!と言いたくなるのは、それだけ頑張った、身を削ってやってきたの、っていう、なんか意地みたいなものが、ある気がして。これって、今世だけのものじゃない気がするんだよね。だから、すごく反応しちゃう。言ってくれる人たちは、私のことを応援してくれているだけかもしれないのに。
これまでの思考のベースに、頑張らないと、気を張ってギリギリまで追い込む感じ、それじゃないと人生じゃない!っていう設定をしてしまっていたと思う。あとは、それを求められてるような気がしていた。頑張ってないと、申し訳ない、評価されない、みたいな。
でもね、本当にそうなの?って。意外とそんなことなくない?というか、意外でもなく、そんなことないのよ。心地よく力まずに力抜いて生きること、できるのよ。そういう世界線あるよ?と、自分に毎日言い聞かせてる。
そういう世界線ある、という設定で生きていいよって。
みんなが速く歩いてるからって、自分も合わせて速く歩かなくていいし。ゆっくり行きたければ行けばいい。その時、意地になってゆっくりするのとは違う。自分が、心地いいかどうかで決める。
みんなが変な感じで頑張っちゃうと、全体が変な感じになっちゃう。変な感じで頑張ることが、なんか目的になっちゃったり、意地になってしがみついちゃったりして。そうして世界が変な感じに見えてくる。そういうことって、ありそうじゃない?
みんなが心地よくいられると、本当に場が心地良くなる。頑張るっていうのがないっていうか、心地よく進んで、楽しい。みんな気持ちよさそうな感じ。そういう体験が、実際にあった。
何が違うんだろうって、考えてみるのだけれど、自分が心地いいことが相手のためになることを分かっていたり、ベースに愛があるからなのかなぁ。純粋な愛。自分に対しても、場に対しても。この辺りは、改めて言語化してみたい。だって、そういう場と繋がり続けたいもん!
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コーヒーも飲み終わったし、仕事へ行こう!
今日はいつもより少しだけ、柔らかいエネルギーで向かえそうだ🙌
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