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12年前のあの日、ここで何が起きていたのか。

私には自分の目で見るべき場所であり、感じるべき場所だと10年ほど前からずっとずっと思っていた場所がありました。

2011年03月11日

のちに東日本大震災と呼ばれる大地震が、観測史上最大のマグニチュードで日本を襲いかかりました。

記憶に新しいこの地震が起きたのは今から12年前。震災が起きてから今日の日までこの期間をどう捉えるか、それはもちろん人によって様々だと思います。

被害の大きかった東北地方にとって12年という時間がどのようなものだったのか。今の私にできることは何なのか。その答えを探すべく、今回は東日本大震災を知るための旅を決行しました。


2011年3月11日金曜日、14時46分。
宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、マグニチュード9、深さ約24kmを震源とする地震が起きました。

当時私は小学校4年生。

小学校から帰宅してすぐ、ランドセルを背負ったままリビングの絨毯に仰向けに大の字に寝転び、今まで体験したことのない感覚に驚きながらも、家が揺れていることをしっかりと感じていました。

おさまらない揺れに夜ご飯の支度をしていた母が急いでテレビをつけると、どのチャンネルをつけても画面は東北地方の中継。青い画面で見た大津波警報。何が起きているのかわからず、母と2人テレビを見つめていた記憶がはっきりとあります。

私自身が北海道で何かを感じていたのはここから数日の揺れのみでした。しかし時同じくして、かけがえのないものを一瞬にして奪われた方が数えきれないほどいます。連日報道されるニュース、新聞、全国各地から集うボランティアや自衛隊員の方々、私の叔父もこの震災によって現地へ向かった一人でした。


死者19,765人、行方不明者2,553人、
負傷者6,242人

平成23年東日本大震災の被害状況
(令和5年3月1日現在)消防庁


これは12年の時を経て、現在集計されている死者、行方不明者、負傷者の人数です。この数字が意味するのは、単なる大きな値ではなく、何に変えることもできないひとつの尊い命が

19,765 と 2,553

今日も彼らを想い続けている人の元へ帰ることができていない、ということです。

”たくさんの亡くなられた方がいました”

こんな簡単な言葉では決して済まされることのできない数の命が失われたという事実を、きちんと理解するまでに、私はずいぶんと時間がかかってしまいました。

どれだけの恐怖を感じ、どのような気持ちで、大切な人、場所、ものが奪われた喪失感や孤独と闘い抜いてきたのか。

震災遺構を巡り実際の現場をこの目で見て、被災者の方のお話を聞いても、私にはほんの、ほんの一部を知ることしかできません。

それでも、今を生きる自分ができることはあの日この場所で何が起きていたのか、それを知り、次へと繋げていくことだと考えています。


今回訪れた震災遺構のひとつに仙台市立荒浜小学校という場所がありました。仙台中心部から東へ10km、海岸から700mの海岸沿いに位置している小学校です。

当時ここには児童、教職員、周辺住民ら320人が避難していました。本来は一度校庭に集まり、その後で屋上避難するという2段階式の避難方法をとっていましたが、地震発生後、消防団の方の”津波が来るぞ”という声を聞いた校長先生は指示を変更し、全員が3階へ避難。実際に津波は地震発生から70分後、校舎2階床下40cmまで浸水したそうです。どこの小学校にもある書類を入れる棚や壁には、くっきりと水が到達したラインがそのままの形で残されていました。


その後ヘリコプターがホバリングし、ひとりずつ引き上げられ救助。最後のヘリコプターが陸上自衛隊駐屯地へ到着したのは翌日18:30頃のことでした。

町内会ごと指定された教室で、どれだけ不安な思いで身を寄せ合い救助を待っていたのか。教室の黒板には、当時の班編成の時に書かれたであろう名前がまだ残されていました。

荒浜小学校は自分の知っている日本の小学校とはかけ離れた姿で、今も一人でも多くの方に当時の状況を伝えるべく建っています。

それは私が生まれて初めて見る、教室の光景でした。しかし、係活動のポスターも、廊下にある画鋲が刺さったままの掲示板も、卒業式練習と書かれた黒板も、どれもこれも身に覚えのあるものでした。

現在は災害危険区域と認定され、住居地の内陸化がなされたためこの小学校周辺に家はありません。880世帯、約2000人の住民でにぎわう街は消えてしまいました。

かつて海水浴場としてにぎわっていた海はあの日、高さ10mの暗く黒い津波へと姿を変え、遊泳禁止の海となりました。私たちがここを訪れた際は、本当に穏やかで青く大きな海でした。この海があの日どんな顔をしていたのか。一瞬にして街と逃げ遅れた人間を襲った海を、小学校屋上にいた320人はどのような思いで見ていたのか。私も屋上に上がりましたが、同じ場所から海を眺めたあの時の感情を表す言葉は見つかりません。

荒浜小学校は、日本の小学校に通ったことのある方ならばぜひ一度、もちろんそうでない方も。訪れてほしい場所だと心から思っています。

4階廊下にあった掲示板には、カラフルな付箋でこの場所を訪れた方々の想いが壁一面に敷き詰められていました。私が張った付箋のお隣さんはベルリンの方でした。みなそれぞれ、この場所を訪れた経緯、感じたこと、たくさんの言葉を紡いでいました。私はここに、今回の旅で感じたことと共に、これから先東日本大震災を風化させないために先へ繋げていくことを記してきました。


これまでは、被災者ではない私が当時のことを誰かに語ってもいいのか、とても戸惑いがありました。

しかし今回の旅を経て、特に荒浜小学校へ行ったとき、まだ東日本大震災の存在を知らないこれからを背負って立つ子どもたちがいることに改めて気づかされました。この子たちや、この震災を過去のこととして捉えている方たちに対して2011年3月11日を境に、ここで何が起きたのか、今日までの期間どのようにして復興の道を進んできたのか、東北地方に生きた人々の想いはどのようなものなのか。

誰かが伝えていかなくてはならない、この先これらを人任せに生きることは違うと、今回の旅で強く感じました。


荒浜小学校の最寄り駅構内にある3.11メモリアル記念館で出会ったご年配の女性は、私たちの目をまっすぐに見てこう伝えてくれました。

"1人でもいいから逃げてほしい。
逃げたら、また必ず普通の生活に戻れる時が来る。私は白衣と2本のボールペン以外何もかも失った、でもその代わりにこうして新しい出会いがある。自分だけの出会いは自分の引き出しにしまっておける、こう思えるのに10年はかかってしまったけどね"

私たちに優しさと愛を持って接してくださったこの方にとってこの12年間はどんな時間だったのか、本当に胸がいっぱいになりました。


失くした、奪われた、壊れた。

たくさんの悲しみの中には、

守られた、離さなかった、繋がった。

たくさんの希望がありました。

この記事をきっかけにしてでも、この想いがひとりでも多くの方へ伝わりますように。


今回のこの旅を共にしたのは高校生からの友人。自分一人では気がつくことのできなかった視点からの彼女が感じたことを聞き、理解がより深化していく瞬間が何度もありました。私だけでは抱えきれなかった感情も2人で行けたからこそこの旅の本当の意味に近づくことができました、本当にありがとう!またどっか行こうナ!



東日本大震災によって亡くなられたすべての方のご冥福を心からお祈りいたします。そして、かけがえのない大切な大切な人を失われた方々にお悔やみ申し上げます。

2023/11/30




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