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頭に残った展覧会N選

 まず言いますけど、私はなんの美術的教養もないので選ぶなんておこがましいと思ってます。
そのうえで、あなたが美術館に行きたいと思えるのなら それが私の幸せになるのだと思う。時系列はめちゃくちゃだし、safari禁してるので情報もあやふやだが、許して欲しい。

なぜ美術館に行くのか?

A.時によって違う
 美術館に通うようになったのは今から約三年前、コロナ中後期の公共施設が開き始めた頃だった。
 あまりにも暇なオンライン授業に嫌気がさして、目的を持って歩きたいと思った。
 1人映画館、1人水族館、(1人焼肉:まだできてない)。色々やったけどピンと来なかった。海遊館の大水槽の前で3時間ボーッとしたり。どうやら考えるのが好きらしいから美術館に行ってみた。ハマった
 1.2年前からは義務感で行くようになった。それが純粋な体験ではないことを知っていながら、「そうせざるを得ない」と思い込むことにしていた。今思えば、美術館に行くことがアイデンティティになって、美術を見ることよりも行くこと自体に重きが置かれていたんだと思う。


 これは私の備忘録であり、啓発文でもある。

大山崎山荘美術館


庭園から

 はじめてひとりで行った美術館は大山崎山荘美術館だったと思う。その時は所蔵されているモディリアーニが出ていたはず。それと同じ区画にあったピカソの、ピカソにしては小さいと感じる絵画に見とれた。これを描いた理由を考えたかった。全ての筆のタッチが右に流れていた。

 今思えば、美術のどう考えても許される、突飛な考えも許容してくれるところに惚れていたのだと思う。

 ちょうどその時、認知心理学の関連で局所視とか、半側空間無視の話を聞いていたからか分からないが、モネの《アイリス》が異様に気になった記憶がある。近づけばただひとつの筆のタッチなのに絵全てを見ればたちまち花として現れる。

 「何を当たり前な」と思うかもしれないが、美術の原体験としてはとても純粋な物だったのかもしれない。魅せられるようになった。

庭園に安藤忠雄の建築

 この美術館で、建築にも興味が出たのかもしれない。あの時の桜と広場で録音したボイスメモは、見返さずとも鮮明に思い出せるのに、なぜ忘れることを怖がってストレージにあるのかは分からない。


兵庫県立美術館


 兵庫県立美術館に関しては思い出が多い。とりわけ、李禹煥の作品が展示されている展覧会はよかった記憶が多い。

ミニマル/コンセプチュアル

 「ミニマル/コンセプチュアル」はフィッシャー夫妻の収蔵品から展示が構成されていたはず。フィッシャーギャラリーの展示方法に興味を持った記憶がある。ギャラリーの展示室ではなく、廊下を使った作品展示(?)の写真がいちばん記憶に残っている。コンセプチュアル・アートは考えたい自分にとっては絶好の題材だ。より作者の中での正解が確固たるものとして現れてきたように思える。

入口の広告 かっこいい

 李禹煥の展覧会も良かった。《現象と知覚 A 改題 関係項》が特に印象に残っている。ゴムメジャーを岩石で床に留めるこの作品が、2次元的には同じ距離でも奥行のベクトルを表してくれているように思えた。ポスター貰いに行ってる人が自分のみで恥ずかしくなった。

 余談ですけど、複素数の絶対値って|a+bi|の時に√a^2+b^2になるんですってね、文系なんで初めて知りました。確かに距離と考えると複素数はなくなって当たり前なのかも。


国立国際美術館


外観 折り紙の鶴みたい

 最近の「ホーム・スイート・ホーム」に行けなかった記憶が強い。行きたい気持ちと、行かなければいけないという使命感、そして誰かと一緒じゃないと行っている感覚にならないという3つが重なった結果、行きたいと思ってくれる友達を探すことになり、結局行けずじまいになってしまった。

 現代アートに目覚めたのは、この展覧会と次に紹介する展覧会が大きな理由となっている。ヨーゼフ・ボイスとブリンキー・パレルモのボイス・パレルモは現代アートの展示でありながらも、双方存命でないことに興味を持っていこうと思った気がする。

ボイス・パレルモのチケット
*国立国際美術館は逆光になりがち

 特に気に入ったのは《カプリ・バッテリー》と《私はウィークエンドなんて知らない》だ。ボイスの展示を見たことがある人にとって鮮烈な印象となっているはずの(なっていることを望んでいる)前者に比べても、《私はウィークエンドなんて知らない》が自分の中では大きなものとして感じる。カントの純粋理性批判を用いた作品なのだが、自分はまだ純粋理性批判を読んだことはない。作品の文脈を知るために、読まなければならない本が山積している。


京都近代美術館


展覧会入場口の壁 京都近美のここすきポイント

「Your eye is my island」/ピピロッティ・リストが一番印象に残っている。没入型、というか映像作品主体の展示を見たのはこの展覧会が初めてだったように思う。人体と花の組み合わせは人によれば蓮コラを思い浮かべる組み合わせのようにも思えるが、みずみずしさや爽快さという点で、自分が育ってきた生活圏と全く異なる場所で生きてきたからこそ生まれた作品なんだなと感じ、美術館に行くこと=他人の価値観が生まれるまでの追体験という感覚を芽生えさせてくれる契機となった。

 今思えば、写真撮影許可が降りているにもかかわらず、それを信用しきれなかった自分、美術館ニュービーの自分を思い出して恥ずかしくなる。まあ、今もあまり写真撮らないんですけどね,,,


神戸ファッション美術館


当時の最新作 《僕の金魚園》

 深堀隆介の「金魚鉢、地球鉢」。深堀隆介の作品では、絶佳とも言えるような特殊技法を用いた金魚の立体絵画に注目している場合が多い。しかし、自分にとっては大山崎山荘美術館のモネがそうであったように、作品の中の金魚が1ストロークで書かれているにもかかわらず金魚として認識できてしまうことに興味を持った。やはり文脈の効果はすごい。歴史的文脈から切り離して考えた場合においても、群れという文脈が1ストロークの赤い線を金魚たらしめたのだなと思う。

水槽の中は2次元的 でも口の中は立体的

 その展示で公開されていた最新作(写真撮影許可が出ていた)では、アニメチックな、二次元平面上で処理されることを想定した金魚の水槽と、ビニールに詰められたリアルな金魚との対比をなぜ起こしたのかに興味を持った記憶がある。

樹脂で出来たビニールの中
ストロークで描かれた金魚が

 世の中は基本的に現実と虚構(創作物)でできていると思う。その中で、虚構であるところの芸術作品内に両者が内包されているというのはどういうことだろう?虚構の中に現実を立ち表せられることから考えると現実と虚構の関係は虚構∈現実というような形になりうるんじゃないだろうかと思う。


中之島美術館


 時間は進んで、割と最近の展示について話そうと思う。テート美術館展の印象はだいぶ強い。そもそも中之島美術館は俗っぽいというか、集客が望めそうな題材の展示(3階)+日本画の展示(2階)をメインで扱っているイメージがある。例にももれず、テートは3階の展示だった。友達と行ったから集中する作品を絞った気がする。

フォトスポット

 草間彌生の作品、構造がどうなってるのか気になった。テート展は光がテーマになった展覧会だったので、草間彌生が作り出す無限に、吸収されうるものである光を見出したのだろうと思う。

ゲルハルト・リヒター
《アブストラクト・ペインティング(726)》
リヒターの展覧会、行きたかったなあ

 ジェームズ・タレルの《レイマー、ブルー》はすごかった。語彙力がなくなってしまったがそう思うくらいにすごかった。俗っぽいけど、インスタレーションとして、空間デザインとして最上級の経験ができたと思う。

 あの部屋の中では地球の重力があるにもかかわらず作品が天井にあるように感じた。自分たちがあたかもクレバスに落ちて、氷の塊によって出口を封じられてしまったかのような感覚に陥り、息が詰まった。ただ、立ち尽くすことしかできなかった。(写真撮影ダメだったけど、写真撮っちゃう人が出るくらいには観覧者の心に刻まれているのだろう。)


今、美術館に行くということ


 美術館がライフワークになっている人も多いと思う。特に私の周りの友人はそういう人が多い。美術館に行く理由は様々あると思う。

 そのうえで私は、「なぜ、いま美術館に行くのか」を考えることも大事であると感じるようになってきた。自分が行きたいと思うのはなぜか、行かなければならない使命感は内発的な物なのか、それとも友達と会う口実として美術館に向かうのか。そのどれもを美術館は許しているし、美術館という場においては1来館者として人々は均質化される。

 とはいえ、美術館での体験は常に同じ体験が得られるものではなくて、その時の自分の心情とリンクしたから、自分のように真っ白な地図に自分で道を作り始められる感覚になったから、という無数にある前提条件によって感じられるものもさまざまになる。

 だからこそ、展覧会というブラックボックスを通して、自分を見つめられる機会を得ているのかもしれないと私は思う。

TMAG

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