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学力消費社会

#学力
#受験戦争
#教育費

高度経済成長を経て、バブルが崩壊し、それでも消費社会は続き、賃金が上がらないのに株価は上がる社会においては、学力すら消費社会の中に組み込まれている。

かつては、学校に行く事すら叶わない子供がいる時代があり、それが皆学校に通う事が当たり前になった。子供は学校に行けばそれでよく、授業を受け休み時間に友達と遊び、学校から帰ってきてからも宿題はあるが、遊んで過ごす事ができた。進学も高校までがほとんどで大学まで行く人数は少なく、高校卒業後は就職する。中学卒業後に働く者も一定数いる時代があった。

そんな様子は様変わりし、いまや大都市圏では大学受験のために、中学受験をするのが小学生の半数近く、中学生のほぼ全員が高校へ進学し、その8割は大学へ通う。高校選びの基準は、大学受験や指定校推薦を取りやすいかなど、高校そのものよりも進学率が重視される。良いとされる大学に多く進学するのが良い高校である。中学校や小学校では、全国学力学習状況調査で平均を越える学校が良い学校とされ、場合によってはその学校の校区に引っ越しをする。少子化にも関わらず一部の公立小学校や中学校では児童生徒数が増えている。

これは、物を消費する社会構造と似ている。

物の消費社会では、たくさんの広告が消費者に、買わないと損ですよ、トレンドに遅れますよと言ってくる。そういった物を購入する事で、一時的に満足し、消費者の充足感を満たす。しかし、消費をさせないと企業は儲からないため、ほんの僅かでも改良し、新モデルとして販売し広告を出す。消費者は、先程の満足感は消え失せてしまい、また消費のループにはまって行く。消費者は自ら購入を選択しているようであるが、実際は選択させられている。多くの場合は、この事に気づいていない。

さて、教育界ではどうか。
学力の高い、いわゆる偏差値の高い大学に行く為に、小さい頃から塾に習い事に通わせ、授業料を払い続ける。大学に行くと就職に有利だから、大企業に入りやすくなるから、将来の安定の為に、と学力の高い大学を目指す。ここで大切な事は、目指しているのは親である事である。そんな事はないと言われるかもしれないが、小学生が将来の安定を自ら進んで考えようとする訳はない事は容易に想像できるだろう。つまり、親が子供に言い聞かせ、そう思わせよう納得させようとしているに過ぎない。

なぜそのような行動を取ってしまうのか。それは物の消費と同じ論理である。学力の高い学校と世間に広く知られている大学や高校に子が通う事は、親が満足感を得られるからである。子供の将来が安定するという確証が得られたら子育てが成功した事になるからである。

クイズ番組では東大生や偏差値の高い高校生が、ほとんどの人が知らない知識を知っている事を見せ、高校はパンフレットに有名大学への合格者数を載せる。メディアは、学歴社会や企業の学歴フィルターを批判する。それらが広告と同じ働きをして、学歴社会を批判しながら学歴社会を加速させている。それによって、子供を塾に通わせ、中学受験をし、良い大学に行かせようと躍起になる。しかし、仮にいわゆる良い大学に合格しても就職できなかったり、卒業できなかったりしたら意味がないわけで、そうなると就職の為のセミナーや卒業する為の家庭教師を雇うのである。こうなれば、かけるお金には際限がなくなり、もはやそれまでの受験に何の意味があったのか?とすら思える。ただただ、お金を払い続けただけである。つまり、一時的な学力に対する安心感のためにお金を払っている。これが、学力消費社会と表現する一つの理由である。

もう一つの理由は子供の目線からである。中学受験を目指して、塾に通い始めたとする。初めのうちは楽しく、成績も順調に伸びた。しかし、ある時伸びなくなる。これは誰しも経験する事だ。中学受験では、直前に成績が下がり始める事もままある。それでも、中学受験まではと思い、何とか第一志望ではないにしても合格を勝ち得た。この時、子供はゴールをしたので、もう勉強しなくても良いと思う。しかし、入学してからも勉強は続く。むしろ、自分と同じかそれ以上の同級生の中で、上位の成績を勝ち取る事は難しく、更なる学力の向上が必要になる。もちろん、上位に入らないと指定校すら貰えない。大学受験のために受験したのだから、ここで諦めてはもったいない。そうして、更に学力の向上を目指す。今度はその甲斐あって、有名大学に入学できた。しかし、その大学では自分よりポテンシャルの高い学生ばかりである。その中で、希望の研究室に入り、就職しなくていけない。

さて、ここで、気づいたであろうか。学力の向上は際限がない。集団が変われば、平均も変わる。常に上位に入らないと有利ならないこの学力の世界では、消費社会と同じように延々と向上を目指し続けなければいけない。これが学力消費社会という二つ目の理由である。

このような社会であると、子供が伸びなくなると親が過熱し、子供を叱咤激励する。子供は終わりのない学力の向上を目指すループにはまり、学力が上がらないどころか下がってくる。上がったとしても、上には上がいる。テスト毎に順位も変動する。親は、その結果では不安になるので子供をもっと学習させようとする。そうなるとどうなるか。

子供は学力の向上を目指す事を辞める。となれば、向上心のある若者がたくさん育成されるわけがない。

学力消費社会の最大のデメリットは、学習へ主体性のない若者を育成してしまう事だ。

そう考えると本来、教育とはどうあるべきか。これをいよいよ文科省は自らに問わなくてはいけない。

文科省のやっている事は、学力消費社会を拡大させている。その代表が全国学力学習状況調査である。わざわざ平均値を公表し、わざわざ各都道府県の結果を出す。これは、消費社会の広告会社のする事と同じである。これによって、各都道府県は独自の学力テストをするようになった。教師はそのテスト対策をせざるを得なくなった。つまり、教師の仕事は数値で示される学力の向上になったという事である。しかし、これも際限がない。みんな頑張れば平均値が上がり、そうなると順位は下がる。全国調査も同じである。
つまり、学力の向上を訴える文科省が学力の向上を目指さない子供を育成している事になる。

ここまで、学力が消費される社会になっているという事について議論してきた。

子供達は、際限のない学力の向上を目指さないといけない社会に疲れている。または諦めを、もっている。だから不登校が増えるのだ。では、不登校を減らす為にどうするか?簡単だ。


全国調査を止めれば良い。一見繋がらないように見えるが、学力消費社会という概念から考えるに十分妥当性のある意見であると自負している。学力消費社会からの脱却を!

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