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4 自由に生きる―タイ仏教僧として―

 ここからは私の来し方を振り返ってみたりしながら、本日の講演テーマ、「自由に生きる」についてお話してまいりたいと思います。
 私自身、大学時代に社会問題に関心を持ち、国内の様々なボランティア活動や発展途上国支援のNGO活動に携わ ってまいりました。特にアジアの貧困問題に深く関心を抱き、フィリピンやタイなど発展途上国支援の活動に取り組んできました。そのうちに現地を自分の目で見たいという気持ちが起こってきて、現地を訪れるスタディ・ツアーに 参加することになりました。

 当時は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと持て囃され、私も日本は豊かな国だという認識がありました。 ですから、貧しいアジアやアフリカの人たちを「支援しなければ」といった使命感からそうした社会活動にも携わっ ていたのですが、スタディ・ツアーで初めて訪れたタイでそうした認識は見事にひっくり返されることになりました。

 そのプログラムでは、参加者一人ひとり別々の村に放り込まれて、二週間、村人のお宅でホームステイをしました。 電気や水道、ガスもないインフラの整備されていない村で、言葉も話せずほとんどボディ・ランゲージでの交流でしたが、今までに味わったことのない幸福感を味わえたのでした。「途上国」と称されていた国の光の面にも気づかさ れ、また自分が住んでいる日本社会、それから自身の「心の貧困」を顧みせられるということが起こったわけです。

 それまでの私の認識は、「日本は豊かであり、アジア、アフリカは遅れている」でした。世間でもそういった認識 が持たれていましたが、現地を実際に訪れ、そこで生活してみたら、まったくそんなことはありませんでした。実際 私は、訪れたタイの農村で「豊かさ」を感じました。もちろん、物は少なかったです。しかしながら、村人たちの心のやさしさや自然と共に生きている姿。あるいは、子供たちの、生気溢れてイキイキとした様子に「心の豊かさ」を 感じたのだと思います。その体験をきっかけにして、それまでは日本の一般常識的な考え方で生きていたのですが、 「百聞は一見に如かず」という言葉もあるように、実際に自分で見て、体験しながら、本当の幸せ、本当の自由を見極め、実現していこうと、そんな思いに変わりました。

 釈尊のメッセージに、「他をよりどころとしてはならない。自らをよりどころにせよ」というのがあります。今振り返ってみると、そうした意識の転換がそのとき自分の中に起こったのだと思います。「自らをよりどころにせよ」 に関連したブッダのメッセージとしては、「師が言ったからとて信じ込んではならない。経典やテキストに書かれてあるからとて、鵜呑みにしてはならない」といった言葉があります。宗教というと一般に信仰重視のイメージが強いですが、ブッダは弟子たちに信じることではなく、自分自身で確かめることを推奨していました。観察をもとに検証していく、そうした実証的精神が実に豊かですね。それから、自他の抜苦与楽。自分と一切衆生の苦悩をどんどん解消していき、周りの人と共に幸せになっていく。そうした観察による智慧と実践的な慈悲の教えが仏教の真髄だったのだということを、私自身、タイで出家し修行を経ていく中で徐々に理解してきた次第です。