あれから10年
忘れもしない。東日本大震災から10年経った。
当時は、大学4年生でゴルフ部の合宿地である茨城県に同級生と2人で行き、ラウンドをしていた。一回目の地震で、担ぎで普段からしているのに、全員が立っていられない状態になった。そして、目の前の木が倒れた。
ただ事じゃない、と一瞬で思った。その後、防災サイレンと鐘の音がこだました。とりあえず、親に大丈夫と言うのが優先だと思い全員にメールを送信するように命じた。(当時は、SNSがまだ一般的ではなかった。)
余震が来てまた転倒した。もう完全にヤバい。これは、家に帰れるかわからないレベルだ。おそらく、高速は使えないだろうって考えていた。
当時は最先端だった、ワンセグでテレビを見た。東京でも相当大きい地震が起きたことがわかった。ただ、この時もっと大変なことが東日本で起きていることを俺たちは知らなかった。そこから、2時間くらいゴルフ場にいたが、ちょうどその日で合宿終了のため、そこにとどまるわけに行かなかった。
とりあえず、コンビニ行こうと思った。ただ、車を走らせて一つの違和感を覚えた。信号が動いていない。夜だというのに、明かりが全くついていない。よく見ると、やたら焚き火をしている人が多い。停電していたのだ。コンビニついたが、やっていない。後輩たちもついてきている。とりあえず、みんな家に帰ろう。この時参加していたメンバーで家が一番遠いのは、幸い俺だった。つまり、俺がちゃんと帰宅できれば、実質被害がでていないことに繋がる。
とりあえず、安全第一で各自家にかえる。これしかない。
そう言って、解散し、各自帰路についた。
そうこうしているうちに、どうにかやっていそうなコンビニにたどり着いたが、お菓子と冷凍食品以外は完売だった。ただ、開店しているだけマシだった。もう、10件くらい閉まったままのコンビニをみていたからだ。
どうにか、アンドーナッツとスナック菓子と普段は絶対飲まないコーラを買い。同乗者がコンペで取ったレアチーズケーキを食べながら千葉に向けて出発した。(冷凍品だったけどあれを超えるレアチーズケーキを食べたことはない。)
ガソリン節約のため、暖房を切った状態だったが、ゴルフウェアは、防寒・乾きやすさに優れているので、それが不幸中の幸いだった。
途中、うねりやひび割れしている道路もたくさん見た。カーナビでニュースを流し始めたのはおそらく、深夜だったと思う。
「宮城県で一部壊滅的な被害を受けている地域がある。」
疲労もピークだったので、ゲームの番組でも流しているのかと思い、NHKにしたが、その状況を伝えているのは、NHKだった。
壊滅的に被害って? これを認知するのは、3月12日朝8時にTVを見るまで理解できなかった。
なぜ、この時間まで、ニュースを流していなかったというと、友達のTwitterで情報を取れていたからである。SNSが一般に普及したのは、3.11がきっかけではないかと思っている。
電話やメール繋がないが、SNSはつながった。これが、情報を常に収集できたので非常に役立った。
途中で仮眠を取りながら、どうにか同乗者を自宅まで送ることができ、ここからは、一人で帰ることになった。途中、コンビナートの通りが使えず、よくわかない道で帰ったが、疲労で10回くらい追突しそうになったのを未だに覚えている。
どうにか、家に帰りテレビを見た。一瞬洋画好きの父が映画でも見ているのか思った。それが、津波の被害を受けている地域の報道だった。
部屋に帰って、ゴルフに行くことがなかったら、宮城に一人旅に行こうと計画していた。そのスケジュールを見た、それは津波が襲った時間帯に、陸前高田市で松を見に行くスケジュールだった。体が震え、そのスケジュールをゴミ箱に入れて見えないようにした。
今でも、思うもしあの時同級生の誘いを断ったいたら・・・。
申し訳ないが、考えたくない。
すべてのことは後につながるってことを22歳の若造の俺は学んだ。
まだ、復興なんてできてない。忘れちゃいけないし、極力のような体験は生涯ゴメンだ。
でも、あのとき、ゴルフの誘いに乗ったから、今がある。あの時大学生の社会をわかってない若造が今や創業60年以上の会社の3代目社長だ。
そして、今紆余曲折や何回も投げ出しそうになったが、今最高のメンバーと仕事ができている。これは、もし、一人旅に行っていなかったら、会えなかった。誘ってくれた同級生には本当に感謝している。
10年と言わず、毎年なんらかの形で残していく。多くの人と共に、命続く限り
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