見出し画像

子の刻参上! 一.あけがらす

(一)

その夜は、賭場に来てはみたものの意気もあがらない。
丁の目のときに半に賭け、半の目のときに丁にかけては、布できれいにぬぐうように、とられるありさまだった。

ご存じ鼠小僧次郎吉、いまの表の顔は、魚を商う和泉屋の旦那。
いまの、というのは・・・
次郎吉、足がつかないように、ひとり鳶職として長屋を転々とするのが常で、お店(たな)の旦那は今回がはじめて。

「すこし、外へ出ようか」
と、同道の若侍が横合いから声をかけた。何かいいかけたが黙って、次郎吉は若侍に従うことにした。
若侍が町人に同道している、というのが、賭場ならではの奇妙なところ。
「ちょくっと、風にあたって参りやす」
次郎吉は、場の親に告げた。
いったん手じまいをし、次郎吉は、若侍とともに外へ出た。

町方の手入れができない寺の本堂で、今夜の賭場は開かれていた。ざわざわと金まみれ欲まみれの熱気で盛り上がった空気に背を向けて、若侍はすたすたと歩く。連れて次郎吉も砂利をふみしめる。
ふたりの足運びは、やっとうの上手と忍びの上手だ、となぜだか聞き分けられる。つまり、稽古のないものとちがって、足元の音が、散らかることなく吸うようにきこえる。

「畜生、どうにもならねえ。がらにもねえこと、したばっかりによう」
次郎吉の声は吐き捨てるようだった。

珍しくもしてやった人助けがあだになり、助けた若旦那が三年このかた牢につながれてしまっていたのを、知らなかったのだ。いきさつを聞いた子分の須走(すばしり)熊公が、若旦那を放免してもらうべく、親分の身代わりにと、名乗って出てしまったのが、つい昨日のこと。

「おちつけ。・・・とは申さぬ。おちつかぬさ。
だが、やりようはあろう。しかも、今夜だ」
若侍がつぶやいた。

この若侍、すっきりと袴脇差のいでたちだが、どこかがおかしい。肩幅がほそくって、声も低くはない。なにより、あちこちから付け文されるほどうつくしい。長いまつげの奥できろっとこちらを見るようすなんざ、ためいきがでるほどだ。のどぼとけがない、うなじがほそい、・・・

おんな若衆だ。

益田時典(ますだときのり)、と男名前を持っているけれど。


次郎吉はなおも言った。「やりようなんざ、思いつかねえよ」

「ぬしが思いつくやりようが、役に立つものか。せっかくあきんどのこしらえにしてやったのに、なじみの賭場に顔をさらしおって」

賭場の数は限りなくあるわけではない。あちこちの賭場に顔を出す博打好きは数多い。とうぜん、
(おや、あいつ、ときどき大金もって遊びに来る流れ鳶ではないか。商人の恰好なんぞしおって)
見知った顔が、いくにんもいることになるのだ。

「兵法軍学のたぐいは、わしが学んで稽古しておること。すばしこく動くのは、ぬしが為事。

いつもはぬしが見取り図を頭のなかで描くが、そうさな、大番屋の見取り図が頭の中にある者に、今夜は手引きを頼もうか。

博打の借財でどうにもならぬやつがよい」

つぶやいてきゅっと、うすあかい唇をかむ。

かわいい、としか形容のしようがない。

おもわずぽけえ、と見とれる次郎吉に、益田はふふっと笑いを含んだ。

「狐、おるか」

と、益田は次郎吉にしか聞き取れぬ小さな声で、つぶやいた。

とたんに次郎吉が驚いたことには、盗みにかけては本職の次郎吉でさえ気配を取れなかった近場のこずえから、すさっと益田の足元へ、人の大きさのももんがのようなものが飛び来たり、立膝でひかえたのだ。

「おん前に」

狐、とよばれたそれは、立ち居振る舞いも返事も、とても、乾いて冷えていた。次郎吉は、ゆうに二拍子遅れて、ぶるっと身震いをした。

(これは、きつねとよばれるほどかわゆらしいものではねえ、ひとごろしがなりわいだ・・・)

「鼠には、武家の側用人ふうの装束をあてがい、大番屋にとめおかれた、ことごとくを逃がし、須走(すばしり)を湯治宿に送り込んでやりなさい」
「かしこまって候」
益田の命令は三つの手順をひといきでいい、狐の返事は短かった。

つまり、この二人は長らく息の合った主従をなしているらしかった。


次の瞬間。
ふっ、と次郎吉を包むように、おとなしい風が立った。

「鼠どの。ついて来られよ」
ふらっと倒れるように、次郎吉は狐について、返事も忘れて走り出し、あっという間にその場を離れた。

(速え! きつねというよりゃ、はやてか、つむじかぜだ・・・)


「どこへいくんで、」と尋ねる声が、後ろへあえいで吹き飛ぶほど、狐の身ごなしは疾風めいていた。芝居小屋で育って鳶に仕上がった次郎吉だから、己の身軽さを自負していたけれど、


(上には、上がいらあ・・・)

太く短く、身を持ち崩したまま生きて死んでやらあ、と、父親に勘当されたばかりの次郎吉は思っていたものだった。


「学ばれよ。できることが、多くなる」
驚きと新しい世界への好奇を見透かすように、走りながら息も荒げず、狐は次郎吉にささやいた。

益田時典は、微笑をうかべて見送った。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!