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子の刻参上! 一.あけがらす(十七)

先代夫婦、つまり、会ったこともない次郎吉に、益田のたのみによって「お店のあるじ」をあっさりとゆずってしまったふたりは、どこからどう見ても働き盛り。次郎吉にあるじをゆずる理屈は、自分たちの内側からは、全く出てこないであろう人たちであった。

「おはようございやす」
益田は、次郎吉の挙措(きょそ)をみていた。
元気がない。

「次郎さん、おはよう」
もとあるじの佐吉と、おかみのおろくが、次郎吉にあいさつを返した。

もとあるじの佐吉は、ちょうど次郎吉の父親(てておや)と同じ年ごろだ。鬢と髭が少しごましお、若いころは漁に出たとて、恰幅のよさより筋骨の鍛えられ具合が見てとれる。

「いごこちがよくなさそうじゃあないか」

「へい、お察しの通りで」次郎吉、これまた魚の焼いたのが朝餉についてくるという豪勢な膳の前で、背を丸めている。
「鼻が、とてもいいんだね」

「へい、実を申しやすと、魚のにおいに、日がな一日まきつかれておりやすと、こう、いつのまにか息を、変に浅くしたり、止めたり、ええ。……ええ、……和泉屋さんえ。そういうわけで、あっしをお店(たな)のあるじに据えるのは、もう今日限り、勘弁くだすっておくンない……」

言い訳になっていない言い訳だが、次郎吉の体はそのようにしている。

「いまはぜんぶを魚のにおいがとりまいているんで、においがおかしいが、和泉屋にお迎えする前は、いろんなもんのにおいをかげただろうにね」

と、意外なことに、佐吉は、あるじをやめさせてくれという次郎吉のさいごの言い出しごとには全く触れずに、魚のにおいのほうの話の穂をついだ。

「へい、それが芝居小屋のこもったにおいは、ありゃあ別の意味でひでえもんでしてね。楽屋はおしろいと衣装の虫封じのにおいが、粗末な衣装行李にがらくたみてぇにぶっこんである中から、ぷんぷんにおって来まさぁ。また大工(でぇく)の仕事でいいやすと、たまーに、ひのきを削ることができやしてね。ありゃあもう、きつくてたまらねえ。虫を寄せねえいい木だっていいますからね。あっしみてぇなけちな虫っけらは」

ぴたりとそこで、口をとじた。

「どうおしだい」どうしたかと佐吉に問われて、次郎吉は、はた、と困った。
「へい、」
そのまま、まるで将棋の手を考えあぐねているように、腕組みをし、頭をかき、黙った。何を口走っているのだか、自分でもよくわからない。

佐吉も、いま怒涛のごとく次郎吉の口から出てきた言葉をひとつひとつ、胸の内であらためていた。佐吉は、流れて去った言葉の意味を失ってはおらなかった。やがて口を開いた。

「においがひどくて、芝居小屋にはおられない。ほかのものが、いい木というひのきも、においがきつくて、大工もつとまらない。またこちらも、魚がくさくて、つとまらない。と、こう、お前さんは、生まれ持った鼻のよさゆえに、強いにおいに追い出されるように、あちらこちらから、はずれて去って、はぐれものになっていってしまうようだ」

次郎吉は佐吉の解釈に衝撃を受けた。

「いやさ和泉屋さんえ。おいらぁ、お店のあるじがつとまらねぇので勘弁してくだせえという談判を」

と、ついに本題に戻った。
そしてそれから、衝撃を受けた自分の遍歴ぶりに、ひどく憔悴した口ぶりで触れた。
「こりゃあ、だめだ……普天(ふてん)の下、率土(そっと)の内、いずくにおいらの安んずるトコなしときたぁ……」

佐吉はいっこうに表情は変わらぬが、こちらも少しだけだまった。
やがて口をひらいたのは、意外にもおろくのほうであった。
おろくもまた、ふしぎなことに、目の前で展開されている魚のにおいの話にも、和泉屋のあるじの座に関する話にも、いずれも触れなかった。

「次郎吉どん。おまいさんを若様が三月(みつき)の間、話相手にご所望なのは、それはお断りかえ?」

そうくるかい、と次郎吉は眼をみひらいた。

「いやあ、それはお断りじゃあござんせんが。
いやこちらさまも、くちなしだのたいさんぼくだの、日替わりでいいにおいがふらっふらとただよって参りやすので、おいらぁとても正気ではおられねえ。お気がかりが晴れぬ間は若衆すがたでおいでるでしょうが、益田さまは、歴(れき)としたお武家のおじょうさまだあ。おいらごときがお話のお相手をしてるうちに、まちがいがあっちゃ申し訳ねえ」

おろくは相手の心の臓(しんのぞう)を手斧(ちょうな)で掻き放すような手腕で、次郎吉にずばりと言った。

「次郎吉どん。こちらの若様は、お前の助けがなければ、中途半端な謀反人どもに騙(かた)られかつがれて、あっというまに罪を被(かぶ)され殺されてしまうお方だよ。

これからご生涯にわたってのひとりいくさには、かぶさってくる何に動いて、何に動かぬかを聞き分け、仕分け、罠をすり抜ける耳と口がお入り用なんだよ。
だから、本来なら声をかけちゃあいけないおまいさんを、須走(すばしり)熊公をお助けなすってまでご所望なんだぇ。言ってみれば、劉備玄徳の、諸葛孔明三顧の礼だヨ。

お店(たな)の奉公人ふぜいに据えては、“表で働いてなきゃあいけないあいつが、どうして離れのお座敷にいりびたりなんだい” と人の口の端にのぼるから、そいつを防ぐために、あたしらぁ、若様とお話してたって不思議じゃないあるじを目くらましにあてたってのに。つとまらないとはどういう了見だい。
おまいも売り出し中の鼠小僧ならば、腹据えてお相手しておあげ」

「えっ」
一座驚いたのは佐吉の驚愕ぶりだった。
「次郎さん、お前、あの、天下お騒がせの鼠小僧なのかい」

「あっ……」

おろくは両手で口をおさえた。


「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!