見出し画像

都市に(むりやり)学ぼう

街歩き、というか散歩を密かに愛好している人は多くいることだろう。ぼくもその一人だ。

カッコいい建物、古くて今にも朽ちそうな建物。奇麗に整えられた通り、誰かの生活の痕跡を多く留める路地。

建造物は散歩者の視界を程よく遮り、曲がり角の先を想像させる。影が生み出す明暗のコントラスト。スペースの開放性や土地が持つ性質から生じる湿度のちがい。そして植木や花壇が醸す季節の香り。

最近でこそ、巨大な建築や、遠めからみる大都市のアーバンな街並みにも美を感じるようにはなったが、ぼくは路地の持つ、十分に制御されていない偶然に現れる生活感、のようなものに昔から心惹かれていたように思う。

闘魂先生の様子がいつもとちがうと気付いた常連の皆様。そのとおりです。闘魂先生の弁によると、「時間があまりとれなかったから素で書いた。申し訳ない」とのことです。闘魂先生の余暇を邪魔する悪しきフレンズたちをお呪いください。
なお、本稿は、blanknote氏が主催する、会計系Advent Calendar 2024 #ACC_AC  12月4日の記事として書かれたものとなります。完全に思い付きをだらだらと述べてしまった本日の記事は、昼寝でみた変な夢とでも思って直ちに忘れて頂き、日々アップされていく他の有用な記事をお楽しみください。

闘魂情報局

都市はなぜできるのか(*1)。それはぼくの手に余る問題だが、とにかく人は自然と集まり、都市を作る。多くの人口を支える都市は、機能的であることが求められる。しかし、多数の生活者が集い、それぞれの目的や利益に沿って活動すると、自然と都市は乱雑になり、多くの問題を生み出す。

都市計画を扱ったテキスト(*2)によれば、無秩序な都市化にともない、都市的土地利用が無計画に散在する状況のことをスプロール(蚕食)というらしい。スプロール市街地は、社会基盤の不正備から以下のような問題が発生し、様々なコスト(スプロール・コスト)が生じる。

・渋滞、公共施設、公共空間の不足
・非効率なライフラインの整備コスト、維持コスト
・景観、生活環境の悪化
・公共交通サービスとの相性の悪さ

こうした問題を抑制し、都市全体の厚生を向上させるため、人類は紀元前の昔から都市を計画してきた。都市計画は、産業革命・工業化の発展にともなう都市の過密化、自家用車の普及等による移動手段の変化、等々、テクノロジーの変化に伴う人々の生活や価値観の変化に対応し、より望ましい都市の姿を考え、再整備を実行し続けている。その叡智から何か学べることはないだろうか。または、そうした知恵を受け継ぎ、形作られてきたプラクティスのかたまりである都市そのものが、「多くの人が集う場」について我々に何かを教えてくれるのではないだろうか。本稿はもっぱらそんな思い付きによる試論中の試論であり、趣味と実益を魔結合しようとしたナゾ理論の断片である。

本当はもう少し全体にまとまりを出したかったが、なにぶん実力不足でそこまでは至らなかった。そのため、今回は、いくつかのアイデアのスケッチという感じで書いていこうと思う。


ルールの必要性と合意形成

都市と同様、と言っていいかどうかはわからないが、人間が集まると生まれがちなもののひとつに組織がある。食料生産の効率が向上するに従い、人々は分業を高度化させ、階層やルールを作ってきた。我々はそうしたプラクティスを受け継ぎ、現在では会社みたいな組織を運営する際にその知恵の発展形を使っている。

例えば、気の合う仲間が何人か集まってビジネスを始める場面を考えてみよう。もうこの会社ではやっていけない。年齢も考えると、なにかを始めるとしたら今しかない。そんな想いを密かに抱えた3人がふとしたきっかけでお互いの共通する想いに気づく。3人は人目を忍び、ある時は駐車場に停めた車の中で、ある時は深夜のファミレスで、構想を語り合う。

「おれは案件を取ってくるし資金の管理をしよう」
「おれはそういうのは得意じゃない。だが開発は任せてくれ」
「・・・(あたたかい人柄を醸すコメント)・・・」

この段階では、組織に明確なルールのようなものはない。お互いがお互いの強みを活かし、日常的なコミュニケーションをベースに事業はスタートする。元々、前職で実績のある3人。着実に受注はあがり、初めての役員報酬を手にする。1期目の決算を迎え、少し落ち着いた風情のレストランで今日までのことを思い出しながら、今後の夢を語り合う。幸福なひと時。

これはまだ、街で言えば何となく人が集まってきて、貴重な資源、例えば水源とかの周りに家が建ち始めている、そんな状況だろう。そこには交通渋滞もないし、通勤ラッシュもないし、資源の奪い合いも迷惑の押し付けあいもない。そして、許容できない公害のような外部不経済も存在しない。協力してやるべきことは、ちょっと集まれば話ができるし、多くのルールは話し合うまでもなく共有されている。

さて、では村が評判を呼び、多くの人が転居してきたらどうなるだろうか。ネットフリックス社であれば、「我々はノールールだ」などと言いながら、コンテキストを共有した望ましい市民だけで構成される街を目指すのかも知れない。しかし、多くの組織の抱える現実は、そうではない。ベストかどうかはわからないが当座のマンパワー不足を凌ぐために、取り敢えずナンボかやってくれそうな人を雇い、トライアンドエラーの繰り返しみたいなことで、なんしか成り立っている。そんなところだろう。

組織が大きくなればなるほど、様々な思惑を持った人々が集まることになる。現実の組織は雑多な人々で構成され、決して一枚岩ではない。ここで得られる経験を武器に転職したい、ほどほどに働いて私生活を充実させたい、なにかしら成果を上げて他人に賞賛されたい、人は多かれ少なかれ自分の利益について考えている。

そんな組織に意思決定等の運営ルールがなければどうなるか。仮にメンバーに悪意を持った簒奪者のような輩がおらず、誰もが自身のパフォーマンスをまじめに最大化しようと努力したとしよう。おそらく、それでもどこかに各々の優先順位の違いやミスコミュニケーションからボトルネックが生じたりして、ロスが発生するだろう。通常の生産キャパシティを超えた受注は、製造部門を疲弊させるかも知れないし、品質上の問題を引き起こすかもしれない。運転資金の枯渇により、遅れてやってきた有望な案件を取り逃したり、必要な設備増強が遅れてしまうかもしれない。

そうした事態を防ぐためには、必要な業務にバランスよく人・モノ・カネといったリソースを配分することについて議論しなければならないし、部門間でのコミュニケーションはスピーディーかつ混乱を招かないやり方でスムーズになされなければならない。極端ではあるが、みんなが思い思いにエレベーターや給湯室での立ち話ベースで情報を交換し、その場でリソースの配分を決めているようなことでは、あっという間に情報は錯綜し、資源管理に混乱が生じ、組織は十分なパフォーマンスを発揮できなくなるだろう。あらためて言うほどのことでもないが、不正とかヒューマンエラーの防止以前の問題として、組織にはルールや仕組みが必要だ。

現実のそれなりの規模の組織にはルールがある。そのためにぼくらは、めんどうだなと思いながらも、なんらかの基礎データや入手した情報をレポートや申請書類として使いやすい形に整えたり、今年1年どんな感じで過ごすつもりかみたいなことを無理やり形にしたりしながら、組織内で情報を共有しコミュニケーションをする。もちろん、そういう作業は、どこかの部門の誰かの負担になる。また、ぼくらはバラバラにコミュニケーションをするのではなく、退屈な会議で情報を共有し合意を形成したりもするだろう。もちろん、その時間により自由な活動は一部制限される。不便だ。しかし、その不便をある程度許容しなければ、組織全体ではもっと大きな不都合が発生する。総論賛成、各論反対。全体最適の視点からの調整やルールは人間集団の運営には不可欠だ。

さて、都市に目を向けてみよう。

かつてのスパルタのような一風変わったところや、住民がみんな知り合いみたいな田舎は別として、現代の都市は、歴史や文脈をそんなに多くは共有していない雑多な生活者たちでなりたっている。当然ながら都市の生活者には、報酬と引き換えに(一応は)集団に貢献することを約束しているといった、組織人のような事情はない。仲間意識もそれほどない。つまり、組織人どころではなく、もっぱら自らの利益のために生活の拠点を求めた人々が、たまたま同じ都市に暮らしているだけ、という状態だ。

都市の生活者は、年齢や経済的ステータス、ライフスタイルにもかなり幅がある。当然ながら、人々は思い思いに行動するのであって、多くの人は、都市のために生活しようなどと日ごろから深刻に考えたりはしない(知り合いのご近所さんのことぐらいは考えるかもしれない)。従って、人が集まることにより自然と集積の利益が生まれる一方で、様々なストレスや不経済が発生する。廃棄物や生活環境の悪化、騒音、火災等の危険、交通・物流網の過密…等々。

それではと、人々の暮らしを改善するために後から幹線道路を拡幅しよう、いや思い切って鉄道を敷こうなどと言い出したらどうなるか。道路沿いの住人が、「いやここは街の中心に近くて便利だし、風通しもいいから他に移るなんて嫌だ」などと言い出す。地あげの対象者に「少し、土地の面積は減るかも知れないが、街の便が増し、土地の価値があがるのであなたも得をするのですよ?」そう説いても、「いや、おれよりも土地を差し出さなくていいアイツがもっと得をするのは気に食わない」などと言うわけである。総論賛成、各論反対だ。

そんなわけで、都市にもプランに基づくルールが必要になる。商業地、工業地、農地、住宅地・・・都市の健全な発展や生活環境の維持のためには、どのエリアをどの場所に、どの程度配置するべきだろうか。建築にはどのような規制が必要か。そしてエリア間の移動を効率よく行うための交通手段はどうするのか。そうしたことを考えながら、人々の自由を一部制限することによってまちづくりは実現し、都市は発展していく。

もちろん、現代では既に環境のいい場所には都市が形成されているものだ。まっさらな土地に都市を建設するというケースはあまり多くないだろう。とはいえ、既存の都市でも新陳代謝は起こる。古くなったり誰も使わなくなった建物や施設はいずれ取り壊され、また新たな用途に使われる。都市のプランナーは時代に応じて土地利用の方針や様々な規制を定め、時には生活者を巻き込んだ大規模かつ直接的な介入を行いながら、長期的な見通しから人々が暮らしやすい場所となるように都市の変化を誘導していく。

そんな、都市計画、まちづくりの世界では、行政が重要なプレイヤーのひとりであることは間違いない。しかし、都市の再整備のような事業は、直接的に誰かの財産をある種侵害したり制限することもあるし、場合によっては不利益になる可能性のある転居・移転等を強いざるを得ないケースもある。生活環境が大きく変わってしまう事もあるだろう。そのため、民間事業者や生活者の合意や協力なしに物事を進めることは難しい。従って、「合意形成」に関する記述が必ずと言って良いほど教科書や事例の中で出てくるし、都市のプランナーには合意形成の技術が求められる、とされている。

これは、何も負担を納得してもらうためだけに行われるわけではない。何しろ、都市計画はウケが悪かったから朝令暮改というわけにはいかないのだ。壊してしまった家は元に戻せないし、一度作ってしまった施設を直ちに更地に戻すこともできない。線路や道路を引き直すことも、動かしてしまった河川の位置を元に戻すこともできない。影響は下手をすると何世代にも及びかねない。当然、様々な声を聞き、幅広くアイデアを集めたり課題を検討することも必要になる。

しかし、都市の生活者は、どうして直接的な報酬もなしに都市のルールを受け入れ、まちづくりに参加するのだろうか。おそらくそれは、魅力ある都市は自然と人を惹きつける、ということなのだろう(*3)。治安、利便性、景観、そうしたメリットが安心や都市に暮らす楽しみとして、人々に直感的に受け入れられる。それが次世代に向けた街づくりへの協力・参加を可能とする信頼に結びついていく。

市民参加をいかにデザインし、全体として大きな事業を成し遂げるか、こういう視点から都市計画は多くの利害関係者と課題を共有し、調整しながら進められるよう努力されている。

こういう話を学んで、少し思うところがあった。

合意形成が重要であるのは組織であってもまあ同じであろう。ルールや仕組みの変更は、多くの組織パーソンに影響を及ぼす。それが組織全体の目的にかなったことであっても、場合によっては誰かに不利益を被らせることもあるだろう。もちろん、朝令暮改も古来より良き君主のやることではないと戒められている。

ようやくここで仕事につながる話が出てくるわけだが、組織にいきなりルールや仕組みがバンバカ導入されるケースの例として名高いのが、いわゆるIPO準備である。ルールに乗っ取った組織運営を行って下さい。そんな一言で、どこかの事例をパクってきたような規程がカジュアルに次々と導入され、現場は何が導入されたのかもよくわからないまま、今まで比較的自由に(管理されずに)行ってきた業務について、所定の手順を踏み、記録を残すようにと言われ、まあまあの割合で「なんかわからんけど、やれっていうんで見よう見まねでやっとります!」みたいなことが発生する(もちろん、いい感じで取り組まれている例もある)。

プロジェクトチームはそれなりに議論を行っているだろうし、走らせながら徐々に現場への浸透を図るという考え方もわからなくはない。本来やるべきことをやっていなくて、リスクが十分コントロールされていない、ということも多々あるだろう。ただ、実際に現場を支える人々に接してみると、会社の方針であることには一定の理解を示し、やらなければならないとは認識しつつも、どこか納得はしていない。そんな声が聞こえてきがちなところである(*4)。

組織人であれば、そういうことは日常茶飯事である、という事なのかも知れない。しかし、これは、組織全体の魅力を高め、金銭報酬以上のメリットや愛着を人に感じさせ、信頼を醸成することにつながるのだろうか。こういったことが繰り返されるとどうなるのだろう。そんな疑問を抱かざるを得ないこともある。

そうはいっても、話が通じる人ばかりではない、時にはトップダウン的にやらせることも組織には必要だ、という声もありそうだ。確かにそうなのかも知れない。ただそれを言い出すと、報酬も払っておらず、はるかに多様な都市生活者たちの合意を得ることはどれだけ困難なのだろう。

ぼくも、どちらかと言えば、人にルールを守らせる側の人間だ。残念なことではあるが、時間的猶予がなく、本当に人が納得しきるまで議論ができるケースばかりではない(*5)。腹落ちしてもらうことが構造的に難しいとしても実行しなければならないケースに直面した時、自分はそれでも十分に努力をしたと言えるだろうか。IPOしたいならやって当然だ。そんな雑な論理がまかり通る世界でも、将来に向けた信頼関係を育めるような進め方はできないか。そういう問いを忘れずにありたいものである。

多様性と持続可能性、そして街並みのデザイン

こんな話を聞いたことがある。

発展した都市の中心部は地価が値上がりする。するとどうなるか、坪単価の高いオフィスビルには、大雑把に言えば、今を時めく産業が入居するようになる。家賃を負担できる収益性のある産業しか入れなくなる、ということだ。また、その需要を満たすために、ワンフロアの間取りは大きくなりがちで、小さなオフィスを求める企業にマッチしづらくなる。

もちろん、産業には流行り廃りがあるわけで、そうした組織がいつまでも隆盛を誇るとは限らない。仮に、産業全体が斜陽となった場合、そうした企業は一斉に傾くことになる。そうなると一気に都市は活気を失い、その穴を埋めるにはしばらく時間がかかるだろう。ビルが立ち並ぶ大都会とは少し事情が異なるが、あるひとつの産業を中心として形成された街が、その産業の衰退とともに寂れるという事はよくある。自動車の街(*6)、鉄鋼の街、炭鉱の街(*7)。立地が恵まれなければ、なかなか次の産業が育たないこともある。

新陳代謝を活発にするためには、都市はある程度の多様性を保たなければならない。小さなオフィスからスタートする事業が、次世代を担う産業に育っていくかもしれない。というかそういうものだろう。だから、都市はそうした可能性を育める場所でもあったほうがいい。とまあ、そういう話だ。

また、地価が高いエリアでは、雑多な小さな商店や施設が生存しづらくなるという問題も生じる。いつの間にかひとまとめにされてマンションか何かが建っているというのもよくあることだろう。歩いて楽しい街がどういうものかは人によって趣味がいろいろあるだろうが、人々の生活が感じられるような路地を愛好するぼくにとって、これは深刻な問題だ。実際、生活するにしても、近隣に商店の類があまりないエリアは、何か用事があれば離れた大型店舗に出かけなければならないといった調子で、特に飲食店についてはそうなるとチェーン店めいた店しか選択肢がない、みたいなことが起こるわけである。なんだか寂しく感じたりしないだろうか。

つまり、街の魅力のひとつには、多様性というか雑多さみたいなものがあったりするものなのだが、市場原理に任せていると、変化に富んだ魅力的な街は案外自然には形成され難く、発展するに従って都市は何かへ収斂し均質化されやすい、ということだ。そのため、街づくりにおいては、意図的に家賃を抑えた物件を用意したり、低コストで店を出店できるような仕組みを整えるといった、多様性を維持するための絶妙な仕掛けを設けることによって、整いすぎていない「歩いて楽しい街」へと誘導する、という取り組みがあったりするのだ。

これを組織について考えてみるとする。

コンピュータの普及以降、IT革命も経て、着々と業務のデジタル化みたいなものが進んだ。現代の仕事の進め方は、かつての紙ベース、対面ベースの仕事の進め方とはやはり違ってきているだろう。そうなると、当然働き手に求められるスキルも変化してくる。つまり時代時代で評価されるスキルは変わってくる(*8)、ということが言えそうだ。

例えば、かつては、リモートと言えば電話が王さまであったが、昨今ではすっかり、いきなり電話をかけてくるとは何事か、といった風情である。そうなると、直接喋ると人情味みたいなものでうまくいくがテキストベースでのコミュニケーションがイマイチな人材と比較すると、トークはパッとしないが、テキストで良い感じにコミュニケーションが取れる人材のほうが評価されやすい、といったことがあるかも知れない。

または、長々としたテキストが読まれない昨今では、流麗な文章がかけることよりも、直感的なビジュアル資料を作れる人のほうがウケがいい、とか、そんな事もあるかも知れない。何が良しとされるかは組織の仕事の流儀によって様々ではあるが、何かしらその時、その組織における仕事の進め方、それこそルールのようなものに乗っかるうえで役立つスキルを身に着けていくことにはなるのだろう。

ここで、組織が自然体で人材を集めるならば、やはりその時代に職場で求められるスキルやパーソナリティを備えた人材を集め育成することになるはずだ。とすると、理屈からすると、組織には似たような資質を持った人間が集まりやすくなる可能性が考えられる。ただでさえ人は自分と似たタイプを高評価してしまうところがある(*9)し、何より世の中には社風というものがあり、馴染めない者は組織を去る、ということは実際に良く起こることなのだ。採用の場面で、カルチャーフィットを考えないことも稀だろう。

現実には、とりあえずダイバーシティの推進がテーマになっていたりもするし、人は前半でも述べたように根本的にはまさに人それぞれで、部門によって求められるものも異なってくるので、それほど極端に同じような人ばっかり、ということは起こらないのだろうが、とはいえ、仕事の流儀を含むカルチャーの影響は無視できないように思うところだ。結局組織に長くいればいるほど、その場所になじんできて、組織人には均質化に向かう力が働くように思う。

さて、そんな組織が時代の変化の波にさらされ、大きく変革を迫られたとしたらどうなるだろうか。テクノロジーの進歩により時代が求めるスキルが大きく変わった時にうまく対応できるのだろうか。「組織風土改革」なる課題はよく耳にするものである。

都市計画の考え方が教えてくれることは、時代の変化のような大きな波を超えて、都市のような生態系を持つものが持続的に活力を維持するためのヒントだ。もちろん、日々激しい競争にさらされ、短期的な成果も求められている企業のような組織とは見据えている時間のスケールに大きな違いがあり、そのまま取り入れるわけにもいかないだろう。都市計画の世界においても、他の都市で成功した事例をそのまま持ち込んでしまうことは「ありがちな失敗」とされているのである。都市と組織はもっと違う。いくら多様性の強みを活かしたいといっても、組織の足並みがまるでそろわないようなことでは今を生き抜くこともできない。単純に何かを真似すればいいというものでもないのだ。現実に価値観がバラバラな人々をマネジメントすることの難しさ、という問題が生じる場面もある。

適度なまばらさや個性を保ちながらも、全体として都市のまとまりを失わないようにするにはどうすればいいか。それはまさに都市景観のデザインが取り扱う分野である。個々には違っているし、路地に入ればさらに違った顔も見えるが、風景としてはまとまりがある。そんな実践が様々な都市で行われている。

組織では、どう実践すればいいのだろう。その答えは直ちに見つかりそうにはない。言えることがあるとすれば、発展した都市のような場に多様さを保てる生態系を維持するためには、そのための繊細な設計が必要かもしれないこと。また、形式的多様性はともかく、実質的多様性は自然と減じていく可能性が考えられ、従って、ダイバーシティ推進策については、継続的に多様性が保たれているか本来は検討が必要なんだろう、ということである。

そして、ぼくら自身にとって大事なことは、組織目標の達成や現場での仕事への最適化に取り組みながらも、柔軟性や創造性を失わないように自分なりの興味や関心に従って、経営管理以外の分野にもヒントを求めながら、少しだけ先の未来を色んな角度から考え続けることなのではないか。そんなことを思った。

おわりに

3つぐらい何か書こうかと思ったが、残念ながら2つで力尽きてしまったようだ。できれば、高齢化、人口減少時代に対応した、コンパクトシティみたいなテーマから、今後組織がダウンサイジングしていく際に何を学べるか、みたいなことについても書いてみたかったが、それはもう少し考えを深めて、またの機会としたい。

今回は、自分が長年考えてきたことでは無い最近の思い付きを、無理やり形にしてみようというトライだったが、自分では成功したとも失敗したとも何とも言えない心持だ。前半は集団をまとめる話をしていて、後半は多様性を確保する話をしている都合上、ややまとめ切れておれず、ところどころ矛盾が感じられたりするようにも思っている。まあ、たまには志半ばで倒れるのも次に向けたファイトがわいてきて良いかも知れない。もうすでにそう思い始めている。

今日書いてきたことが、まともな論といえるのかどうかは甚だあやしいところであるし、そもそも大半の人にとっては興味がない分野になってしまうであろうこと、また、昨年に引き続き、会計の話はほとんどしないまま終わってしまったことについては、大変申し訳なく思っている。一応仕事の話は入っているので去年よりはマシかもしれない。

これ以上は言い訳が長くなりそうだ。街を歩き、ふたたび霊感を得て考えを深めたいと思う。ここまで読んで頂いた方はありがとうございました。


*1
基礎的な理論が知りたい場合は「ホテリングモデル」などと検索してみると解説が出てくる。

*2
ここでは教科書のことである。本稿は以下の書籍からインスパイアされている。
谷口守(2023)『入門 都市計画(第2版) 都市の機能とまちづくりの考え方』森北出版株式会社
中島直人他(2018)『都市計画額 変化に対応するプランニング』学芸出版社
一般社団法人 渋谷未来デザイン(2021)『変わり続ける!シブヤ系まちづくり』工作舎

他に、
Youtubeチャンネル「ゲームさんぽ/よそみ」(https://www.youtube.com/@gamesampo_yosomi)
の動画作品である、
【名作チェアも】火星に移住した人類はこういう暮らしするんだなぁ! /ゲームさんぽ×崩壊3rd[前編]
【廃墟の美学】崩壊3rdの建築が魅力的な理由/ゲームさんぽ×崩壊3rd[後編]
【よくわかる】街づくりの大ベテランとゲームの中の渋谷を歩いてみた#01/ゲームさんぽ×Ghostwire
【何のため?】渋谷の地下に巨大空洞が作られた理由/ゲームさんぽ×Ghostwire#02
より得た情報にも基づいている。

*3
もちろん、単に引越は面倒である。それをよくよく考えていくと、そのような面倒をかけてまで都市を離れるほどメリット/デメリットの関係が崩れていない、ということかも知れないし、引越に要するコストを上回る程の不利益は生じていない、ということかも知れない。単純にお金が無くてなにも手の打ちようがない、という場合も考えられるが、そうした人たちは、なんらかの制度で手当されるべきだろう。

*4
よくないケースでは、外部から導入したナゾのプラクティスが自社に合わず、それを誰かから指摘され、またルールを改めなければならない、といったことも発生する。どうすれば管理の目的を達成できるかわからないなら最初から現場に聞いてくれればいいのに。そんな声が聞こえてくるやつは最悪である。

*5
そういう場合に、ノリとか勢いとかを組み合わせてなんとかしがちなのは関西人の悪いくせである。いけない。関西人に怒られるかもしれないので、自分の悪癖と訂正しておこう。「遊び」や「お祭り」感の威力は大きいので使いどころはよく考えなければならない。短期のプロジェクトだとやたらと効果を発揮するイケナイ薬のようなものである。

*6
デトロイトは1903年、ヘンリ・フォードが量産型の自動車工場を建設して以来、自動車の街として栄え、全盛期である1950年の人口は約180万人に達した。しかしながら、人種間対立に起因する白人の郊外脱出、日本車の台頭、生産設備の海外移転などの影響を受け、再生に向けた取り組みもあったが、衰退を食い止められず、2013年には財政破綻に陥った。相変わらず治安は悪いようであるが、空き家対策等の再生に向けた取り組みを継続的に行い、減り続けた人口が2023年にようやく増加に転じたことが報じられている。各方面から投資資金が入ったようであるが、都市計画文脈では、人口減少下における土地利用の適正な規模と構成への転換とそれに見合う施設の再編整備の事例として考えることができる。

*7
観光資源としては活用できるが、軍艦島のような極端な立地に普通に暮らす住民が戻ってくる可能性はほぼないだろう。

*8
Webベースのソフトウエアのプログラミングみたいな新しい産業に関するスキルは、もちろん、その際たる例であるが、組織人に求められるスキルの変化という話題にはややフィットしない気がしたので、本文では触れていない。

*9
「類似性効果」といわれるものである。


いいなと思ったら応援しよう!

電子の海に潜む闘魂
誠にありがたいことに、最近サポートを頂けるケースが稀にあります。メリットは特にないのですが、しいて言えばお返事は返すようにしております。