邪馬台国の場所
その昔、日本列島のどこかに
30もの国(大きな集落)の連合国があり、その中に女王が住むとされる『邪馬台国』があった。
女王は『卑弥呼』とされ、シャーマンの力で連合国をまとめていた。
それらは小学生の歴史の授業で習う。
この歴史の根拠となるのは中国の歴史書にある記述だ。
その歴史書『三国志』は、西暦180年頃~280年頃までの100年間、中国に存在した3つの国の歴史について記してある。
三国の内のひとつ「魏国」の歴史書『魏書』の一部に『魏志倭人伝』として、日本のことが僅かだが書き記されており当時の様子を伺い知ることができる。
卑弥呼がいた頃の年表
これは、中国の歴史書から読み取れる日本の歴史年表だ。
邪馬台国までの道順
中国の歴史書に書いてある邪馬台国への道順が図の通りで、『奴国』まではほぼ確定している。
さらに中国の歴史書には住宅戸数なども書かれている。それらの情報を含めて表にまとめたのがこちら。
この表から分かることは、以下の通りだ
伊都国までは、現在の地名と音が似ていること
※奴国は博多周辺という見解が一般的不弥国以降、距離ではなく日数表記に変わったため、場所が推測しにくいこと
住宅戸数が桁違いに多い都市が『邪馬台国(7万戸)』『投馬国(5万戸)』『奴国(2万戸)』の三か所あったということ
つまり、奴国(博多周辺)から先を、状況証拠を積み重ねながら割り出していくことになる。
住宅戸数から邪馬台国が存在しえた場所を割り出す
単純計算ではあるが、1戸あたり5人が住んでいた場合の都市人口はこのようになる。
上記はあくまでも単純計算であり、戸数には高床式倉庫、祭殿、見張り台などの人が住まない建造物も含まれていたはずで、人口はもっと少なかっただろう。
とは言え、少なく見積もっても数万人が住む都市だったと考えられる。それほどの人数を食べさせるとなると、大量の食糧が安定的に必要になるはずだ。
そうだとすると、潤沢な田畑と海産物が不可欠となることから、大都市の立地条件は『海に面した広大な平野部』に他ならない。
現に3番目の大都市『奴国』は福岡の平野部であり博多湾に面している。
以下、地形が分かる地図を見て欲しい。
海に面した広大な平野部は片手で数えるほどしかない。
邪馬台国はその中のどれかだと考えるのが自然だ。
各国の位置関係から邪馬台国の範囲を狭める
中国の歴史書には、邪馬台国の北・東・南に何があるのかが示されている。
それを基に位置関係をまとめた。
ここで注目して欲しいのが以下の2点だ。
北に伊都国がある
東の海を渡ると倭人の国がある
これを地図に落とし込むとこのようになる。
有明海に面した広大な平野である筑紫平野と熊本平野が浮かび上がってくる。
これらの平野は、2万戸を誇る都市『奴国』がある福岡平野と同等以上の広さだ。
ちなみに、中国の歴史書『魏志倭人伝』には、帯方郡から邪馬台国までの距離がこのように書かれている。
帯方郡から『奴国(博多周辺)』までの距離が 10,600里だ。
つまり奴国(博多周辺)から1,400里で邪馬台国ということになる。
『奴国(博多周辺)』を中心に、半径1,400里の円を書くとこうなる。
筑紫平野と熊本平野が円の内側に収まることがわかる。
墓の形式の分布図から邪馬台国連合を推測する
以下の図は弥生時代の墓の特徴を分布でまとめたものだが、祭祀の道具に地域性が確認されており、「北部九州」と同じ色(薄ピンク)で塗られた部分は共通の文化圏だったと考えられる。
つまり、邪馬台国とその連合国の範囲を示す可能性があるのだ。
前述で浮かび上がった大きな平野である『筑紫平野』『熊本平野』がどちらも「北部九州」の文化圏に含まれていることに注目して欲しい。つまり現在の熊本市あたりまでは、邪馬台国の連合国の勢力圏だった可能性が極めて高い。
『狗奴国』の場所から邪馬台国の場所を逆算する
邪馬台国の南には、邪馬台国連合に入らない敵対国『狗奴国』がある。
筑紫平野と熊本平野、この2つの平野を南に下ると、球磨「くま」という地名がある。もしも『狗奴国』を「くな」と読むのなら、非常に音が近い。
祭祀の特徴も北部九州とは違う。
もしも球磨が『狗奴国』であるならば、その立地から熊本平野が邪馬台国の筆頭候補になる。そう仮定すると『投馬国』は残る巨大平野の筑紫平野が該当することになる。
熊本平野と筑紫平野には大都市を支える条件がそろっていることから、それなりに信憑性が高い状況証拠を集められたのではないだろうか。
邪馬台国の直接の証拠が見つからない以上、状況証拠を積み重ねて確かさを上げる他ない。
邪馬台国は熊本平野の可能性が高い
これまでの推測から、邪馬台国は熊本平野にあったと考えるのが自然であろう。各地の大まかな位置関係は次の図の通りだ。
物的証拠なしには、どんな天才でであっても推測の域を出ることができない。それが邪馬台国の場所問題だ。
中国の歴史書+現在分かっている状況証拠を組み合わせて導き出したが、致命的な矛盾はなかったように思う。
卑弥呼について
なぜ『ひみこ』と呼ばれたのか?
かつての熊本、佐賀、長崎は一つの国であった。
名は肥国。あるいは雲仙普賢岳や阿蘇山など活火山が多い国なので、火国とも呼ばれた。
しかし、『ひこく』の由来は、有明海の広大な干潟を有している国という意味の干国とも言われている。
『肥国』の名前の由来は置いておいて、読みは『ひ』だ。
つまり『ひこく』の巫女なので、「ひみこ」と発音されていたのではないだろうか。
なぜ卑弥呼が連合国の長になったのか?
以下の年表から、卑弥呼登場の少し前の出来事をもう一度確認していただきたい。
西暦57年、福岡平野にある奴国の王が中国から金印を授かっている。このことから、北部九州では奴国が有力な国だったと推測する。
そして金印を授かってから126年後、倭国大乱が発生している。
これは奴国と隣接している肥国の争いだったのではないかと考えている。
※もっと広域の争いという説もあるが、当時の貧弱な輸送能力(丸木舟)からすると、大量の人・食料・武器を運ぶのは難しく、海を渡って九州・四国・本州を含む広域の争いは考えにくい。
戦争の火種はいつの時代も「水・食糧・宗教」だ。
奴国と肥国の祭祀(宗教)は、前述の通り共通であるため宗教は争いの種にはならない。そうすると、水か食糧問題だった可能性が考えられる。水や食料の問題は、つまり領土の奪い合いに発展する。
ちょうど両陣営の境にあたる筑紫平野は、まさに舞台になりうる条件をそろえている。
食料の獲得方法が狩猟採取から農業に変わり、水稲(水田を使った稲作)が広まり、人口が増加していた時代だ。
開墾が容易で田畑を作りやすい平野となれば喉から手が出るほど欲しかったはずである。
縄文海進(縄文時代に上がった海水面が現代と同じ水準に下がった現象)も弥生時代には終わっており、縄文時代に水没していた筑紫平野は、水が引いて面積が広がっていた。奪い合いが起きるのは自然なことのように思える。
個人的には、中韓との貿易で鉄器を多く有していた奴国連合が強気になり、筑紫平野を取りに行ったと推測している。
筑紫平野にある吉野ヶ里遺跡は、堀と丸太の塀で固めた環濠集落だ。明らかに攻められることを想定した対策である。
戦は守りの方が有利なため、奴国が返り討ちにあった。といったところか。
その戦いが終結すると、奴国連合と肥国連合が合流し、さらに大きな連合国が誕生する。これが邪馬台国だったのではないだろうか。
ちなみに、中国の歴史書において、邪馬台国の卑弥呼に関して次の記述がある。
仮に奴国が戦いに勝利したとする。その場合、上述の文言は、奴国と隣り合った伊都国に軍を置いて監視するという文脈となり、自分自身を監視しているようで不自然だ。
逆に肥国が勝利したと仮定すると、肥国が奴国を警戒して、奴国の隣の伊都国に軍を置いて監視をしたということになり、しっくりくる。
そのことから、倭国大乱においては肥国が勝利したと考える。
肥国が戦いに勝ったのならば、その連合国の長は肥国側から出すのが当然だろう。それが肥弥呼だ。
上記はあくまでも推論だが、できるだけ論理的に組み上げることができたと思っている。
やはり熊本平野に邪馬台国があったんだろうと思う。
なお、卑弥呼が亡くなった後に、また大きな争いが起きていることから、奴国と肥国の確執は解消できなかったと考えられる。
一枚岩になり切れなかった連合国は、その後の空白の150年の間に消滅してしまったということだろう。
最後に
今回の記事は、数日前に勢いで書いた以下の記事を整理したものです。
長すぎて自分でも読み返す気にならないので、要点を絞り、かつ画像を多めに使って分かりやすくしてみました。
突っ込みがありましたら、ぜひお願いします('ω')ノ
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