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没頭の中身

「愛」するという力も、平和な世界も、可能性に満ちた世界も、
すべては共通して、"没頭"という経験に宿っている。

僕はそう思っている。



この没頭という言葉は僕が生きていく中で、とても大事にしているひとつの姿。

どんな姿、どんな状態を思い浮かべるだろうか。

ここ最近で、なにかに没頭したこと、もしくはなにかに没頭している人を目にしたか、
思い出して考えてみてほしい。

漫画を読んでいて気づいたら朝になっていた、だとか、noteを書いていたら電車を降り過ごしてしまっていたとか、
お昼休みの時間、こちらには目もくれず熱心にギターを練習している少年を音楽室で見かけたとか...


こんな様子に共通して感じられることはなにか。
それは、“真に経験”という行為をしていることにある。


行為そのものが、他人の評価や世間の目を気にしたものでもなく、
自身の動機に偽りを持った行動でもないもの。

こうして行為する人は自ずと輝いている。美しい。

生物元来の“生きる”という行為にまっすぐである姿がそこにはある。

そしてその姿にたいして、僕は無限の可能性を感じる。



没頭の中身にある状態。それは、
それ自体の持つ本質的で内面的な価値/報酬に喜んでいる状態だと思う。


主体の持つ環世界が広がっている状態。

つまり、世界やある対象に対し、自らが作り出してしまった世間一般とされる価値観や形式上のステータスを眼中にいれず、
その人なりの目で対象を深度深く、かつ新たな視点で捉えられていること。

そして自らが没頭することによって、その自らの行為についての行動と結果をコントロールできている感覚をもちうる。

ここでいう「結果」は見返りではなくそれ自体から受け取れる幸福感を示すのだろう。

こうした意識と行動の融合が没頭にはあるとおもう。

最終的に自分の意識と行動が融合することで、自意識外に対してはゆがみをもたらす。

とくに時間。

楽しい旅行は気づけばあっという間に最終日を迎えていた。
(これは、旅行という行為が真の経験となり没頭していたから。)


補足として、この“没頭”という状態は、自暴自棄になる瞬間とは表裏一体にあるのではないかと思う。

唯一異なる点は、自分へと、
対象への愛情を棄てているか棄てていないかだと思う。

この一点だけで、たとえ似たような脳機能なっていたとしても、行為そのものの意味は大きく異なってくる。

--


さて、ここまで没頭の状態とは、ということについて持論を展開したが、
最終的に僕はこうなれる環境(人が没頭することができる環境)を届けたいと思っている。

本当にすてきな状態は、
人が利他的な使命感に没頭できた時にあるとすら思っている。

そして、少なからずそんな人たちはすでにいる。
だから僕はそれを守りたいし、これから創りたい。


ふう。
ここに対しての具体的な部分はまた今度整理しよう。

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