山荷葉に慰めてもらう六月
想像のままで終わらせた私はいい者か、悪者か。
ヒーローになりたくてマントをつけたのに、
結局泣いてしかいなかった私はいい者か、悪者か。
言葉にすべきことを言葉にできなかった私はいい者か、悪者か。
思想家。
私の想像も愛もすべては、
ほんとうのしあわせが知りたいからしていたことだったと思う。
でも、それはきっと“期待”を含んでいた。
期待には愛がない。無責任な偽物崇拝だ。
期待よりも、
心配する心やあなたが道に迷わないようにと、
宇宙規模の星座を作れるほどの、
どこまでも広く優しい想像力の方がよっぽど愛がある。
六月のある日、
私は晴れを想像していた。晴れを期待していた。
それは晴れへの信仰だった。
でも期待をしていたその日、山には雨が降っていた。
緑の隙間からの木漏れ日に温められることもなく、
乾いた土の音を聞くことも無く、
そして、鳥の歌声を聞くことも無く歩く日となった。
ジメジメとした空気は外の世界にも関わらず圧迫感を与えてくるし、靴の隙間から入ってくる水で靴下が濡れて不快感を感じる。
しかも、たまに滑りそうになる足元に意識をしていなければならない。
この日で、楽しめない私は心が弱いと思った。
雨のせいにしていた、私は心が弱いと思った。
私の心のせいなのに。
その時ふと地面に目をやると、透明な小さな花が咲いているのが目に入った。
2センチほど。6枚の花びら。
滑るから足元を見て歩いていたのもあって気づけた。
山荷葉(サンカヨウ)の花だ。
雨などの水分を吸うと花びらがガラス細工のように透明になることで知られている。
そして乾くとまた、白く戻る不思議な花だ。
あまりにも美しかった。
ふと髪を耳にかけたとき見えたその耳飾りを、
あなたは雨の日にだけつけていたんだ、
そう悟ったようなの感覚。
これを見るためだけに雨の日に歩いてもいいと思える、
それほど美しく光と水と調和して輝いていた。
その日から私の想像力は花びら1枚分大きくなった。
まだまだ星空に星座を描くほど大きく、
広く優しい想像力と愛は持てないけど、
その花一輪で、
晴れの日という一側面だけに期待しない、
山への愛と想像力が生まれた。
冒頭の3つの問いに答えることはまだできない。
ただ、1つ。
晴れしか待たず何もしないまま終わり、
泣くのはもったいないことだけは分かる。
せっかくの想像力も愛も言葉も、
生まれなかったことになってしまう。
対象がふとこの世界から消えてしまう恐れだってある。
だからまずは、伝えたいと思う。
親愛なる人に伝えてみようと思う。
その人は山荷葉の花のような人かもしれないから。
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