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待つこと

待つこと。

この一見受動的に見える行為は、実際のところ積極的な行為に当たる。
ゴドーを待つのではなく、ゴドーは待たれているのだ。
そして、ただ「待つ」のではない。
待ちながら歓待のために、開き続ける行為をしていなければならない。
なにを開き続けるか。
それは心と身体である。
心と身体を異邦の者のために開き続け、異邦の者に痕跡を残してもらうために。
その痕跡こそが自分たり得たことの証であるから。
現在の認識に起きる自己は不安定であり、現存在(Dasein)は「今、ここ」という意味にしかならず自己の起点となり得るにはこれもまた不安定である。
そのために否定神学的な行為で、あれやこれやを排除し続ける必要がある。
大地から一つ実を拾い、「これではない」と捨てていく。
その連続的な行為を行い続けることが、歓待のために待つことである。

鬱という状態の私は足掻きながら、自壊しながら待つ。来たる異邦の人を。
異邦の人が来たときにどんな状況であろうと、歓待しなければならないことを知っているから。

不安という兆候

「待つ」ことは未来への期待と不確定な不安の混合と見られがちである。「待つ」という能動かつ受動な態度は、徴候として現れる。その徴候はどのようなものか。それは不安である。
不安という徴候は、最終的に身体の眠りにたどり着く。眠ることで不安から離れ、忘却し、一時の安らぎを得る。眠りから覚めれば、不安の中に身を投げ入れ、震えながら自壊していく。構築の文脈から外れ、身体と精神を脱構築していくことになる。
そして、「待つ」ことと「待機」することの区別をつけなければならない。「待つ」は自発的かつギリギリまで動くことができる。動かなければならない。しかし、「待機」は他人からの「法」である。禁忌を含む法である。その法を破ることは許されず、ただその場で立ち竦むことである。
「待つ」ことは顔を下げ、視線を落とし、異邦の人がいつか来ることを、終わりを待つことになる。しかし、待機は終わりの予兆を期待しながら待つことである。

そして、「待つ」ことは期待の予兆を宿していてはいけない。なぜか。それは、期待とは将来への確信を秘めているからである。この現在から続く時間軸の中に、異邦の者はやってこない。異邦の者は常に差延(デェフェランス)から訪れる。この訪れのために、待つ間は、私は自壊を続けなければならない。自壊による傷痕は、痕跡となる。その痕跡の跡を辿り、異邦の者はやってくる。

絹のような薄い衣を幾重にも重ねられた精神と身体は、前を見ることはできない。結果的に厚くなりすぎた絹のような薄い衣は、分厚いヴェールとなる。
ここでいう「前」とは、自分の期待するような将来と結果である。衣を引きづりながら歩みを止めることなく待つ。その時には、名は存在しなくなる。呼ばれるとすれば「ファロス」としての仮称の存在である。酷く脆く、中身のないファロスとしての「タカーシー」こと萩原崇だけが存在する。この中途半端な邪状態を受け入れなければならない。それによって他者と区別され、独自の傷跡を残すことにつながっていく。

形式的な祈り

独自の痕跡を残す上で大切なのは、「祈り」である。だがここでも、祈りは期待を込めてはいけない。祈る時に、例えば「神」などのように具現化・言語化できない者に期待を届けようとすれば、それは神への冒涜となり得る。人間主体の希望や自己願望のために、形而上的な存在を形而下へひきづり下ろすことになってしまうのだから。
そうなってしまわないように祈りは形式的な行為であることが必要である。単に「祈る」こと。祈りが祈りであるために、自己の願望を組み込んではならない。その祈る手が切り落とされたとしても、祈り続けなければならない。形而上の存在を守るために、そして自己のために。
祈ることがなぜ、自己のためになるのか。それは自己の名を剥奪されないためである。ただそこにあること。空虚なファロスである自己に対して守るべきものは、名である。形而上の存在、または異邦のものは名が描き続けた痕跡を辿ってやってくる。追いつかれ、対峙した時に聞かれるのは名である。名のみが自己の存在証明となり、名を呼ばれることで自己が確定する。それまでは現存在としての自己でしかない。過去も未来もない。この自己の確定の際に過去の我から解放され、脱構築が起き、未来へのケアがなされることになる。病的であればあるほど、その名を呼ばれることでこれまでの痛みから解放される。それほどまでに祈りと名を忘れないことは、重要なのである。

結論:待つということ

私という存在は、待つことを身につけなければならない。現代の情報の渦の中に巻き込まれ、そこに流されていけば私という存在はいとも情報戦争の中に容易く溶けてしまう。ゴドーは来ないかもしれない。そのためにベンチで一人、空を見上げ続けることになるかもしれない。それでも待つこと、祈ることが重要なのだ。
時にはふらっと立ち寄る友人もいるだろう。その友人と身の上話や、よもやま話をするのも良いだろう。ただその友人は立ち去っていく。立ち去った後も待ち続けなければならない。友人がゴドーだったかもしれないなんて思ってはならない。ゴドーは目の前に現れるのではなく、あなたの眼前に急に現れるのだから。そのために「待つ」ことを覚えなくてはいけない。

待つことのエチュードに失敗し続ける者からの手紙でした。

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「第3回教養のエチュード」に参加した文章です。

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